第26話 追う先に

 賢志は公営の集合住宅に設置された小ぢんまりとした建物の前で愕然としていた。


 元は白だったのあろうと思われるコンクリートの外壁は、薄汚れて茶色とも灰色ともつかない色に変貌し、日陰の部分に至っては苔がびっしりと張り付いている。

 建物の周囲に窓は無い。無機質な箱には錆が目立つドアが一つあるだけだ。

 周りは全て緑色の樹脂でコートされたフェンスが取り囲んでいる。消えかけた文字の立入を禁ずる看板が立てられているあたり、この建物自体関係者以外の立ち入りを制限しているのは明確ではある。


 だがその防壁となるべきフェンスには経年劣化により大きな穴が開いてしまっており、入ろうと思えば誰でも簡単に中に入ることが出来てしまう始末だった。現にその部分から入り口に掛けて雑草の生え方が少ないのを鑑みれば、少なくない頻度でここに人が入っているのだろう。

 そしてその事は賢志も良く知っていた。


 この場所は団地内に設けられた貯水施設だ。

 随分と以前からある団地で、賢志も子供のころに良く来ていた場所でもある。そしてこの施設の中は幼い賢志と愛理にとって格好の遊び場となっていた。


 しかしながらそんな昔なじみの場所を前にして賢志にあるのは、懐かしさではなく驚愕と絶望だ。遊び場としていた場所が今は巨大な棺桶にすら思える。


 賢志はあの黒い靄からつながるを辿ってきた。

 通学路としている道とは別ではあったがそう離れてもいない。あたりの景色は賢志にとってなじみ深い所であり、それは懸念していたことが事実になりえることを突き付ける道のりだった。

 見慣れてはずの風景が不気味に見えた。知っているという事が一層の恐怖を煽ってくる。それと同時にもはや逃れる事は出来ないのだと思い知らされてもいた。


 賢志になじみ深いという事は愛理にとってもなじみ深いという事。

 それは何よりも危惧している化物と愛理の遭遇の可能性を上げるという事だからだ。


 賢志は頻りにあたりに目を凝らしていた。そして何も変わったっものがない事に僅かばかりにの安堵を抱く。賢志は何かを見つけたいのではない。見つからないことを祈っている。

 そう、愛理が、がここには無いのだという、その確証を。


 その道のりは一歩一歩が恐怖でしかない。見えない先を見るのが怖くて仕方が無かった。あの角を曲がったら、その壁の反対側に、カラスが集まっているその場所に、全てが絶望につながっているのではないのかと気が狂いそうになる。

 それでも進む。そうしなければいけないと得体のしれない使命感が賢志の中には確かにあった。


 それは途中学校とは別な方向へと向かった。それには決して良い事では無いと知りつつも、賢志は内心で微かな喜びに近い感情を抱いていた。


 だがそれは束の間の幻。


 結局のところどこであろうとあの脅威は変わらない。


 そして黒い糸が行く着く先・・・・・・それは学校よりもなお最悪な場所だった。


 そこはあの悪戯とされた事件があった場所の直ぐ近く・・・・・・・・この辺りで一番大きな団地の中だった。



 団地の奥に設置された貯水施設。それを目の前にして賢志はただ茫然と立っていた。

 学校では無かった、無かったのだが・・・・・ここはそれと同じ、いやそれ以上に最悪な場所と言えた。

じりじりと伝わってくるあの気持ちの悪い気配。黒い靄からも感じる吐き気がする怖気。それがあの靄と同じ、いやよりも何倍も色濃く貯水施設から漂ってくる。


「この中にあれがいる・・・・・・・・そんなの最悪だ。こんなに多くの人が住んでいる場所に、なんで・・・・・それに、ここじゃあ愛理ちゃんだって」


 もう大分日が傾いている。時間的には学校は既に終わっているはずだ。愛理が普段通る道ではないにしても場所が近すぎるうえ、昨日この近くでの靄があった場所にみんなで来ていた。再度愛理たちがあの場所に来る可能性だって十分にあるだろう。


 拙いと賢志に焦燥が募る。


 靄で見た内容から化物が夜行性であると賢志は考えている。日が出ているうちは眠り、夜になると餌を求め動き出す。後1時間もしたら完全に日が落ちてしまう。夜になったからと言って直ぐに動き出す訳ではないにしろ、それでも日没は一つのタイムリミットに賢志は思えた。


「その前に愛理ちゃんを確保して・・・・・・いやそれよりも今度こそ警察に連絡を。そうだ途中に確か交番が・・・・・・・・・っ!くそっ、でも何て言えばいいんだよ、こんなの」


 警察にせよ何にせよ、化物がいるかもしれないと話したところで頭がおかしいとしか思われて終わりだ。公園でのことならいざ知らず、今この場に関しては気配を感じるだけで確証を持っているわけではない。それであれば確証を得るために中に入るのかといえば、その様な無謀を犯すつもりは賢志にはなかった。纏まらない考えに気持ちだけが焦る。


(警察に伝えるにしてもどう説明したらいい?それを伝えたからって果たして警察は動いてくれるのか?それだったらせめて愛理ちゃんの安全だけでも)


 考えを巡らせながら辺りを見渡すと、子供たちや親子の姿があちらこちらに目に映る。


「日が落ちれば、みんな家に入るだろうから・・・・きっと大丈夫・・・・・・僕に出来ることなんてないんだし、ここは・・・・・」


 笑い声が広がる団地の小さな広場から逃げるように視線を逸らし、自分にとって都合のいい言葉を探す。その言葉を紡ぐ賢志の顔は情けなく歪んでいる。

 考えないようにしていても頭の中にはあの食い殺された親子の姿が、公園前で殺された女子高生の姿が、その絶望と苦痛に染まる顔と煌々として貪りつく獣の姿が思い出されてしまう。

 賢志は頭を振った。そして仕方が無いんだ、とこの場を立ち去る為の一歩を踏み出し顔を上げた。


 その時賢志の目に映ったのは楽しそうに走る子供たちの姿。今にも帳を下ろそうとしている太陽が子供たちの姿を赤く染めていた。

 その景色が揺れた。そして徐々に賢志の頭に虚像を織り交ぜ捻じ曲がっていく。

 眼を逸らす賢志に見よとばかりに、在るかもしれないその地獄へと変貌していく。



 真っ赤な血で染め上げられた地獄へと。



「・・・・・・・かはっ!?」


 いつの間にか止めていた呼吸を取り戻し、今にも破裂しそうな心臓の鼓動の苦しさに胸を押さえる。


「違う、違う。これは・・・・・こんな事には、なら・・・・ない。ならない・・・・・・・・だけど!」


 この貯水施設に化け物がいる、それは間違いないと賢志には確信めいたものがある。根拠など分からない、だがしかし賢志にはそうだと思える何かがあった。

 だとすれば、どれだけ虚偽の言葉を並べようとそれを放置した場合に起きうる惨劇を否定することは出来ない。

 賢志だってそれは分かっていた。

 今ここで自分が何もしなければどうなるのかと言う事を。

 今見えたみたいに血で埋まるまではいかなくとも必ず犠牲になるものが出てくるのだと。


 罪悪感・・・・その強烈なまでの念が臆病な少年の胸を圧し潰そうと締め付ける。


 だが、それでも。

 賢志は所詮ひ弱な子供に過ぎない。

 なんの力もない。平均からしても弱い方である自分に出来ることなど何もありはしない。

 折り合いのつかない矛盾に賢志は膝をついた。


「くそ、くそ・・・・」


 苦痛を刻まれたように顔を歪め、賢志は何でこんなことに自分が関わらないといけないのだと恨み辛みの悪態を吐き出す。

 しかし結局どうあがこうと、今しがた脆弱な賢志に出来ることなど誰かに助けを求めることくらいしかない。ならば自分が出来ることなど、どう思われようと素直に警察に話をしてこの場に案内する以外は無い。

 そう妥協に帰結した賢志は歯噛みしながらも片膝をつき立ち上がる・・・・・・その時だった。



『いやあぁぁぁぁぁぁ!!』



 凝った音が反響し賢志の耳を突き抜ける。それは脳に強烈な刺激となり反射的に振り変える。

 その残響は忌まわしきその建物から届いて来ていた。


「女の、ひと」


 少し甲高いようにも聞こえた。子供のようなそんな感じにも取れる。だがその恐怖を存分に含んだは明らかに女生と思われるものだった。


「そんな、誰が・・・・・この声、違う・・・・けれど、っ!?」


 それから賢志訪れるのは焦燥の激流だった。

 がいると考えてはいたが既に人が入っていたとは思ってもいなかったからだ。

 いったい誰が、そう疑問を抱くと共に頭に浮かぶ存在が一人。


 この場所が賢志にとって懐かしい場所であり、それは同時に愛理にとっても懐かしむべき場所である。


 賢志は愛理がここに居るのではと驚愕に目を見開く。


(子供じゃないんだ・・・・今更こんな場所に・・・・)


 あるはずが無い、そう考えながらも可能性を捨てきれない。

 冷静に考えればある筈も無い可能性だろう。

 だが状況は賢志に冷静でいる事を、例え刹那の時間であっても許してはくれなかった。



 ダガーーーーン、ガゴン



 激しく鳴り響いてきた金属的な衝撃音。気が付けばいつの間にか賢志は立てかけてあった鉄パイプを握っていた。

 賢志は自らのその行動を信じられないとばかりに鉄パイプを握りしめる自分の手を見る。


「何を、考えてるんだ僕は・・・・・・・・」


 そう呟く。呟きながらも賢志は鉄パイプを引きずり地面に細い線を描きながら入口へと進んでいた。


 膝は小刻みに震えている。呼吸は浅く苦しい。

 これは間違っている行動だと思っていてもその歩みは止まらない。


 そしてとうとう賢志は扉のノブに手をかけていた。

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