第21話 海崎舞桜
賢志の暮らす地域には中学校が二つ存在している。
一つは賢志や愛理が通う都立霧ヶ崎第二中学校だ。
そこは創立こそ新しいがこれと言った特色の無い普通の公立の中学校である。当然のことながら通学範囲の児童は成績や家庭事情などに関わらず誰でも入学が許され、何もなければこの近隣の子供たちは皆ここへと通うこととなる。
もう一つは私立で、名は紫堂院学園と言い、その中等部である。
こちらは公立と違い推薦或いは試験をクリアしたものでないと入ることは出来ない、所謂中学受験が必要な学校であり、とりわけこの紫堂院は全国においても有数の名門校として有名なところだ。
一流塾講師や指導に秀でた教師を積極的に雇い入れ、通常の義務教育では教えないような深く濃い授業が受けられるとその人気は今も年々上がっている。それ故にその門は狭く嶮しいが、入学できた者はその圧倒的なカリキュラムにより、その後の進路を約束されたものと同然となる。
医者や企業役員或いは政治家など、ここに子供を通わせることが一種のステータスとなっている。そう言った家の子供たちは幼少の頃より質と量を兼ね備えた教育を施され、入学を目指し日々努力を兼ねてきているのだが、それでもやはり狭き門をくぐるのは容易ではない。
だからここ、紫堂院学園に入学できること、それ自体がエリートの証となっている。
初夏に差し掛かった頃合いの日差しは強い。その勢いは夕方になっても衰える事は無く、傾きを増した日差しは逆に教室の奥深くまで入りこんできて日中よりも質が悪いくらいだ。だがそんな苛烈とも呼べる日差しもカーテンを通す事で柔らかな心地良さへと変わってくれる。
熱気が籠りがちな教室は少しだけ窓が開けられていた。今日は中々に気持ちの良い風が吹いている。涼風とも呼ぶべきそよ風がカーテンをゆらりゆらりと揺らめかせ、その陰影が開いたノートの上で楽しそうに踊っている。
教室の中はそんな心地良い空間となっていた。だからエリートが集うこの私立紫堂院学園中等部の生徒とは言え授業中に気持ちが緩んでしまう、それもまた仕方の無い事なのだろう。
黒板に注がれるはずの視線の内何割かが別なところへと向けられていた。
朗々とした教師による教科書の独唱を上の空に聞き流し、ぼんやりとした虚ろな眼がとある人物へと吸い込まれていく。
その大半は男子のものだ。
ある者は回りを気にすることも忘れ真直ぐに、ある者は教科書に隠れるようにして脇目から、またある者は頬杖の指の隙間からさり気無さを装い、だがどれも締まりのない浮ついた視線である。
それは教室のほぼ中央にまるで渦でも巻いたのかの様に集まっている。
その中心点にいるのは一人の少女。
少女は微睡みの中に溶け込むかの様に目を細め揺れるカーテンをぼんやりと眺めている。
口元に寄せた指の背にフレンチキスを落とす姿は、何かを思案しているような、或いはおねだりを企む乙女のような、憂いと哀愁が香り立つその容貌は何とも艶めかしくい。大人へと向かう少女独特の危うい背徳感も合わさり、その美貌は現の物とは思えない幻惑めいた魅力がこれでもかとあふれ出ている。それはたかだか15年ほどしか生きていない女子中学生が出せる代物とは到底思えないほどだ。
そんな美しき少女に集中力を切らした・・・・いやある分では集中力を増したかもしれない男子生徒の視線が吸い寄せられるのは当然の帰結といえる。思春期まっただ中でこれに抗えるものなどそうはいない。
その少年の欲望と妄想に彩られた視線を集める少女の名は海崎舞桜という。
彼女はあの賢志の生徒手帳を拾った少女である。
その日の海崎舞桜はどこかいつもとは違っていた。
普段凛とした佇まいの舞桜。その研ぎ澄まされ洗練された佇まいは完璧すぎてある種他人を遠ざける凄みがある。
だが今日に限っては隙と言ってもいいくらいぼんやりとする時が多かった。今もこうして授業中でありながらも惚けたように頬杖をついている。それは舞桜にしては見ることの無い堕落である。そう思ってしまうほど普段が出来過ぎている。
だからなのだろう、何時以上に視線が集まってしまうのは。
美しき女性がふとして見せる堕落は一種の媚薬のごとき効果を持っている。その不意な色香は異性のみならず同性をも惑わすものだ。
「・・・・・である。・・・・・・あ~おい高木、この次読んでみろ」
「・・・・・・・え?え、えぁぁ、はい」
そんな生徒たちに流石の教師も気付かないはずが無い。
教師は生贄とばかりに一人の男子生徒の名を呼び、持っていた教科書を手の甲で叩く。
指名された男子生徒は妄想から現実へと急激に戻され一時混乱するも、直ぐに状況を呑み込み焦りに冷や汗を流しながらガタガタと騒がしく立ち上がった。
「・・・・・・すみません。聞いていませんでした」
暫く立ち尽くしていた男子生徒だったが結局どこを読んだらいいのか分からずに身をすくませ頭を下げる。
教師は目論見通りの結果ではあるものの嘆息をこぼし、「受験生だぞ、気合入れろ」と苦言を呈して男子生徒を座らせた。
これは別に教師の意地悪では無い。純然たる教育者としての受験生への発破を込めてのありがたい釘だ。だから出来るだけ危機感を煽るうえでももう一人刺しておきたい者が居る。教師はその食指を彼女へと伸ばす。
「じゃぁ代わりに海崎、お前が読んでみろ」
次なる生贄は舞桜だった。男子の集中力を欠く元凶をそのまま見逃すことは出来ない。それに舞桜自身ぼんやりと窓を見ていて授業を聞いていなかったことは教師の知るところだ。
指された舞桜はゆっくりと顔を教師へと向ける。教師は「すみません」と頭を下げる舞桜を幻視しながらその時を静かに待った。
仕草と言うのはその人の本質を如実に表す。意識内外問わずその人がどんな性格であるのかが滲み出てくる。中にはそれを意識的に矯正し自分の理想とする偶像を演じる者もいるだろうが、それとて四六時中完璧に演じ切るのは難しい。ふとした瞬間に必ず素の部分が顔を覗かせるものだ。
舞桜の立ち上がる所作は実に美しかった。たった15歳の小娘に既婚者である教師が一瞬とはいえ見惚れてしまうほどに。
引かれた椅子からは一切の音も出さなかった。
少し青み掛かった瞳が軽く教科書をなぞると薄ピンクの唇から鈴音がこぼれだす。
「私は見た。あの深い深い海を越えたところに、君たちが待ち望んでいる・・・・・・・・・」
せせらぐ様に鼓膜を揺らし流れ込んでくる舞桜の朗読と言う名の旋律は、長々とした授業に凝り固まった脳を柔らかく解きほぐし、聞き入るものたちに吐息を洩れださせた。
これほどまでに耳心地の良い子守歌は無いだろう、そう思わせる安堵感と幸福感が教室いっぱいに広がっていく。
「・・・・出来るだろ。君は僕の心をこれほど強く打ち付けたのだから・・・・・・・・・先生、もうよろしいですか?」
「・・・・・・あぁ・・・・・・そこ迄で良い」
どれだけ読ませてしまっていたのか、聞き入り止めるのを忘れていた教師に舞桜が強制的に呼び起こす。その問いかけに教師は我に返ると惚けてしまったばつの悪さからかぶっきら棒に返答してしまった。
朗読を終えた舞桜はスカートをそっと手で押さえてまたも音も無く椅子に腰を下ろす。そんな些細な仕草に教室内の誰かが唾を飲み込む音が聞こえた。
湧き上がる感嘆の情に教師は敢えて眉根を寄せ絆されそうになるのを戒め、目論見が大きく外れてしまったことに些か恨みがましい目を舞桜へと向ける。
そんな時、見計らったかのようにチャイムが鳴った。
「・・・・今日はここまで。あったかくなってきたからって気を抜くと直ぐにおいて行かれるからな」
少々も悶々としていた教師はあてつけのように檄を飛ばし教室から出ていった。
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