第20話 臆病な勇気

 昨日見た光景がフラッシュバックする。


「・・・・うげぇ」


 賢志は胃液を藪へとぶちまけた。


 激しい動機で痛む心臓を手で押さえ、賢志は止まりそうになる呼吸を必死で繰り返す。その度に腐臭が入って来てまたむせ返えりながら、這い蹲いに木から離れようと藻掻く。

 自分の手足なのに覚束ない。手を突き損ねて転んではまた這い蹲いに逃げる。時間ばかり掛かり殆ど進んでいないが、賢志は必死だった。

 ただ離れたい。逃げたい。

 その気持ちだけで手足をバタつかせる。


「そ、そうだ。け、警察に・・・・」


 賢志は這い蹲いながらスマホを取り出そうと慌てズボンのポケットを弄った。だがポケットに慣れ親しんだ硬質な感触が見当たらない。体中を弄るもやはり同じでどこにもスマホがなかった。


(そうだ。慌ててとびだしちゃったから・・・・)


 賢志は家から出る時何も持って出ていなかったこ事を、着の身着のまま飛び出してしまったことを思い出した。

 取り敢えずここからは離れなくてはと来た道を探そうと辺りを見渡す賢志。すると賢志はある一点で目を見開いてその身を固まらせた。


 賢志はを見つけてしまった。


 賢志はそのを前にへたりと力なく座り込んだ。

 


 黒い靄。



 林の中にぽっかりと浮かぶそれは、黒い影を球状に渦巻かせまるでその存在をアピールするかのように賢志の目の前に存在していた。


「・・・・っ、まさか!?」


 愕然としていた賢志がハッと我に返る。それから慌て首を全方向に回す。

 賢志が危惧したのはこの場に化物が居る事。

 黒い靄はこの場で何かがあったことを示している。それはこの場にあの化物が、或いはその同類がここに居たことを示している。


 だがどうやら最悪な事態だけは回避できたようだ。

 鬱蒼とした藪の中は賢志以外の生き物の気配は感じなかった。返って不気味にも思えるその静寂に賢志は安堵の息を吐く。


 賢志も薄々とは分かっていた。この黒い靄がここにあるかもしれないと言う事を。公園の前に来たときに気持ち悪さを感じたそのときから。


 だがやはり目の当たりにすると動揺は隠せない。

 賢志は呆然と黒い靄を見つめていた。だがいつまでもこうしてはいられなかった。


(これがここにあるってことは、やっぱり・・・・あれは近くにいる)


 賢志は蒼い顔のまま改めて周りを探った。


 何よりも目に着くのはあの木の上から垂れ下がっている人の腕らしきものだろう。肌は変色し土色となってしまっている。肘から先だけしかなく、その切断面は理やり引きちぎられたように見える。黒ずんだ血の痕はほぼ乾いている。それはあの状態になってしまってからある程度時間が経っていることを示している。


「っ、大きさは・・・・子供じゃ無さそうだ」


ここが公園なだけに真っ先に子供が被害にあった可能性を考えたが、不謹慎な事ではあると分かっていても、その事に賢志は少し安堵してしまった。


 だが次に賢志に訪れたのは急激な不安感。


(あれってもしかして・・・・女の人の腕なんじゃ)


 その腕の手首や指はとても細い。肉付き的に男性のものには見えなかった。


 賢志の頭に過ったのは最悪の事態だった。


「まさか、愛理ちゃん!?」


 そんな高確率で身内が襲われる訳は無いと違うと否定しても、どんどん酷い方へと思考が偏る。今は丁度帰宅してくる時間帯であり、ここは愛理が常に通学で通っている場所でもある。可能性としては低いにしても決してゼロではない。いや状況からもしかしたら朝襲われた可能性だってある。


 全身から一気に熱が引いていく。まるで血が抜かれたかのようだ。


「くそ、くそ」


 賢志は藪を掻き分けはじめた。何か身元を確認出来る物は無いかと必死に探す。黒い靄の周辺には恐らく飛び散ったと思われる肉片が至る所にあった。だがそんなものはお構いなしと賢志はあたりを探し回った。

 見つけたのは僅かに衣類の切れ端だけ、だがそれでは何も分からない。

 他には何かないかとあたりを見渡し・・・・・・そしてあれが目についた。


「黒い・・・・靄」


 賢志にあの悪夢を見せた忌まわしき黒い靄。それと同じ、いやあの時以上に不快な気配をまき散らし、それは賢志の前に浮かんでいる。

 賢志が公園の前に来た時からずっと感じていたのもこれだった。


「だったら、これも・・・・」


 賢志は靄へと近づいた。

 昨日同様これに触れれば何が起こったのか知る事が出来るはずだ、と手を伸ばす。


 だが靄に触れる寸前でその手は止まる。

 あの恐ろしいものをまた目にしないといけないのかと躊躇する。そしてそれ以上にもしあの腕だけになったのが愛理であったならば・・・・・・賢志はその事実に耐えられる自信がなかった。

 真実を知るのが怖い。賢志は黒い靄に触ることを躊躇ってしまう。


「大丈夫・・・・違う・・・・愛理ちゃんじゃ無い・・・・・・」


 目を強く瞑り暗示のようそう呟く。

 体中が馬鹿みたいに震えている。膝が笑い今にも崩れ倒れてしまいそうだ。


(怖い・・・・・怖い、けど・・・・・僕は確かめなくちゃいけない)


 賢志は震える腕をもう片方の腕で押さえつけながら黒い靄へと近付けた。

 数センチが遠い。それが自分の腕なのかと疑ってしまうほどいう事を聞いてくれない。


(違う、愛理ちゃんじゃない)


 何度も唱える呪文。


 賢志は大きく息を吐きだし、身体全体で押し込むように手を靄の中へと突っ込んだ。







 夜公園の前を一人の女子高生が歩いている、が顔は良く見て取れない。街灯が灯火されてはいるが公園の前は民家が少ないので暗い。

 女子高生は鼻唄を奏でながら軽快な足取りで歩いている。

 これは屋根の上から見ている光景なのか、少し高い位置からこの女子高生を見下ろしていた。


 視界の主がその場から飛び降りた。相当な高さからの筈なのだがそれは柔らかく地面に降り立つ。

 目の前には女子高生の顔。

 女子高生は突如降ってきたものに驚きに目を見開く。それから徐々に表情が歪み変化していった。それはあきらかな恐怖の表れだった。


 一拍の間だっただろう、女子高生の口が大きく開いていく。あぁ叫ぶのか、そう思った瞬間、女子高生の口から出てきたのは叫び声ではなく大量の血であった。


 視線が下を向く。


 毛むくじゃらの腕が女子高生の腹部に肘の辺りまで突き刺さっていた。

 腹に突き刺した腕をそのままに女子高生を抱えるように持ち上げると、林の中に駆け込み、そして、むしゃぶりついた。







「ガハッ・・・・うおえ」


 賢志は嗚咽する。何も出ては来ないが内臓が痙攣している様に蠢く。だがこれではっきりしたことがある。


「・・・・愛理ちゃんでは無い・・・・」


 それだけは救いだった。それが分かっただけでもこんな思いをした甲斐があったと思えた。そして今の光景以外に流れ込んできたものがある。前回と同じように強い食欲。


「こいつはきっとまだこの辺に居る・・・・夜になると動き出す」


 靄から流れてくる感情や思考から賢志はそう感じている。この化け物は陽の光を嫌い夜になると活発化するものであると。

 それともう一つ分かることがある。


「今ならこいつを追える・・・・」


 前回と違い今回の靄には残渣の様なものが濃く残っていた。賢志が振れた瞬間その濃い残渣が糸を引いたように外へと続いている。

 それが何であるのかは分からない。分からないが、それがあれにつながっているのだと賢志は何故だか理解していた。


 だけど、


「追ってどうする!?・・・・見つけて僕に何が出来るんだ!?」


 自分の非力さは十分に知っている。少し走っただけで根を上げる貧弱な体に先程嫌気がさしたばっかりだ。

 黒い靄をぼんやりと見つめ、昨日と今日見た事が思い出される。

人の体を簡単に引き裂く化け物が嬉しそうに捕食している姿。


 靄からの糸を目で追う。緑地帯を抜け公園の出口へと続いている。


 兎に角ここを出よう、そう思った賢志は来るとき以上に重い足取りで来た道を戻っていく。


「帰って警察に連絡しくちゃ・・・・」


 伏した視線には足元しか映っていない。背中を丸め肩を落とす自分はとても惨めに感じた。


「仕方ないじゃないか!僕には、僕には・・・・・・・」


 震えた声だった。弱く後ろめたい言葉だった。


 藪を抜け公園の敷地に戻るとまだ子供たちが楽しそうに遊んでいた。ここであった事など何もきっと知らないだろう。子供たちは笑い声を上げている。

 賢志はそんな子供たちを正面から見る事が出来なかった。


 黒い靄からつながる糸は公園を抜け、道路へとつながっていた。

 あの化け物がここを通ったのかと思うと身震いをしてくる。子供たちと化け物が重なる様に幻視する。

 賢志は頭を振り嫌な考えを振り払う。


(僕には何も出来ない・・・・これ以上は無理なんだ・・・・)


 公園の入り口に立つ賢志は糸の行方を見つめていた。どこまでも続いていそうな糸は確実に学校方面へと向かっている。

 普段から通い慣れている筈の通学路が忌まわしいほど不気味な道に思えてならなかった。


「僕に出来る事を、やろう」

 

 そう呟き踵を返した。

 あとは家に戻って急ぎ警察に電話をすればいい。それで自分の役割は終了だ。


 そう考えながらも賢志の脚は前に進まない。



「だ、めだろ・・・・・・・・駄目、だろ。駄目だろ。駄目だろ。駄目だろ」



 愛理は賢志にとって家族同様だ。

 幼いころからずっと一緒に育ってきた掛け替えの無い存在だった。


 自分が今しようとしている事はなんだ。賢志は自分にそう問いかける。


「愛理ちゃんを見捨てるのか?僕が?」


 危険があると分かっていて、しかもそれが愛理のいる近くにあると知っていて、それでも何もしないのは愛理を賢志が見殺しにしているのと同じことだ。

 愛理は何があっても賢志を守ってきてくれた。愛理には帰しきれない恩と掛け替えの無い優しさをもらっている。


「そんな事出来る訳無いだろが!」


 賢志は糸を辿る様に歩き出す。学校への道を進む。



 その先に待っているのものが本当の意味で何であるのかも知らずに。

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