第16話 怯えと拒絶

 愛理は自宅へ戻った。

 急ぎ足で戻ってきたので薄っすらと汗ばんでいたのだが、愛理はそれを気にすることもなく鞄を置き制服から普段着に着替えると、またすぐに家を飛び出した。

 そして向かったのは賢志の家だった。


 賢志と愛理の家は近所だった。それこそ歩いて一分程度の距離しか空いていない。

 愛理は賢志の家には幼い頃からそれこそ毎日のように通い慣れた場所でもある。そこはもはや家族のような関わり合いだ。

 愛理はチャイムを鳴らさずにドアを開ける。「おじゃまします」と形上の挨拶を口にしその返答を訊くでもなく上がりこむと二階へと階段を登る。

 今日は賢志以外誰もいない事は分かっていた。賢志の両親はそろって旅行に行っている。愛理はその間賢志の面倒を見て欲しいと賢志の両親から頼まれていた。

 それだけ愛理は賢志の家族と近しい間柄だった。


「ケン君居るんでしょ?・・・・・・・・・・・開けるよ」


 二階へ上がり賢志の部屋の前で愛理が声を掛けるものの中から返事はなかった。だが部屋の中にいると愛理は感覚的な確信があった。


 一拍の間をおいた後、愛理は躊躇うことなくノブを回してドアを開けた。


 中は六畳ほどの広さの洋室。向かって正面の南側に面した所には大きめの窓があるので、この時間帯であってもこの部屋は結構明るい。だが今はカーテンが確りと閉められていて室内は薄暗かった。

 西側の壁面に設置された本棚には相変わらず多くの本が並んでいる。多少の漫画も置いてあるが大半は小説や文庫本で、棚の一番下は昔から図鑑の指定席となっている。賢志が小学生の頃は良くこの図鑑を眺めていたことを愛理はふと懐かしく思い出した。


(興味はなさそうにしているのに、不思議とずっと眺めていたっけ)


 本棚が設置された壁の反対側、東側には小窓が付いていて、その小窓の前に机とベッドが並んでいる。

 盛り上がったベッドの布団。愛理は部屋に入るとベッドへと進んだ。


 ベッドの前で立ち止まった愛理は、こんもりと盛り上がった布団にそっと手を当てる。


「ケン君?」


 そして触れた手から伝わる微細なけれども見逃せない感触に愛理の整った細い眉を持ち上げる。


 震えていた。布団を通して薄っすらとだが中にいるものが震えている。


「何かあったの?今日の帰りから変だったけど、ケン君、ねぇケン・・・・君・・・・・・・」


 愛理はつい大きな声を上げてしまいそうになるのをぐっと堪え、出来るだけ優しく賢志に問い掛ける。だが賢志からの反応は無い。変わらず布団の中で震えているだけだった。

 愛理はそっと掛っていた布団を捲る。するとそこには両耳を手で押さえベッドに顔を埋めている賢志の姿。まるで怖いものから身を守る様に体を丸め、幼子みたいに隠れていた。


 今迄見たことの無い賢志の様子に愛理は困惑した。


 過去に何度か賢志が虐めを受けた事はあった。内向的な賢志はどうしても標的にされやすかった。だが過去の虐めを受けたときであっても賢志がこのように怯えた様子を見せた事は無かった。誰かに無視されようが多少怪我を負うような暴力を振るわれようが、愛理の心配も余所に賢志自身は然程気にする事無く過ごしていた。自分にも他人にも無関心で無気力、彼はそういう人間であった。

 それだけにこんなにも怯え感情を露わにしている姿は見たことが無い。


 だから愛理は困惑した。


 幼馴染の異常な姿に動揺する。何でこんな状態になっているのか、何が起こってこうなってしまったのか、それらしいことなんて無かった筈なのに、自分と一緒にいる時はそんなそぶりは見せていなかった筈なのに、と。


 愛理は賢志の体に手を伸ばす。その行為は自分の為か或いは賢志の為か、接触することで少しでも落ち着かせようとしたのかもしれない。


 しかしその手は役割を果たすことなく宙を彷徨うこととなる。


バシッ。


乾いた音が薄暗い室内に響く。予期しない自分の手の行方とその痛みに愛理は大きく目を見開く。


「触るな!!!!」


 聞きなれた声で聞いたことの無い拒絶の叫び。


 賢志によって愛理の手は弾かれ、そして持ち上がった賢志の顔、その目を見た瞬間、愛理はたじろぎに身を強張らせた。


 予想にもしていなかった強い拒絶に愛理の思考は止まる。何が起こったのかさえ今の愛理には理解できていなかった。


「やめろ!僕に触るな!僕に関わるな!!」


 突き刺さる怒声に血走る目。


 それこそ記憶が残らない年齢からずっと一緒に育ってきた幼馴染に対して、愛理にとって初めてとなる感情が湧き上がってくる。


 怖い・・・・・・愛理は賢志に対してそう思ってしまった。


「ケ・・・・ケン君?・・・・どうし」


 動揺と混乱と恐怖にたどたどしく声を発する愛理。抱いた感情を否定するように言葉を何とか取り繕おうとする。


「・・・・出ていけ」

「え?」

「出ていけ!出て行けよ・・・・・・・・出ていけぇぇぇ!!」


 だがそれは無惨にも否定の行動によって強制的に弾かれる。


賢志に突き飛ばされ愛理はその場に尻餅をついた。

初めてだった。賢志が愛里に手を上げたのは初めてだった。

賢志は血走った目で愛理を見ていた。悪びれる様子も無く、忌まわしい物を見るような目。


 賢志は布団を被り来た時と同じように蹲ってしまう。

 暫く身動きが取れずに、ただ茫然としている愛理。


「・・・・帰れよ・・・・」


 賢志の言葉がとても悲しく寂しく愛理に響く。


「・・・・っ!!」


 愛理は部屋を勢いよく出て行った。

 靴を履くのも忘れ賢志の家を飛び出した。

 近所の自分の家。着くまで一分も掛らない慣れ親しんだ道。


 気付けば愛理はその道に涙を落としていた。


 賢志の狂気と思える状態にショックだった。何よりもその賢志に恐怖心を抱いてしまった自分にショックだった。それが悲しくて悔しくて仕方が無かった。

短い道のりが長く感じられる。重い足取りがそう思わせるのかもしれない。


愛理はその日眠ることが出来なかった。


そして翌日、学校に賢志は来なかった。

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