第8話 少女

「さっきの子、随分と顔色が悪かったわね」


 少女は首を傾げ、先程すれ違った少年に思考を割く。年頃は十代前中半と思われる少女であるが、その物言いはどこか艶やかで妙に大人びている、というか古臭い。


 そんな少女にはどこか近寄り難い雰囲気があった。

 それが貫録なのか尊大なのかどこから来るものかははっきりとはしないが、ただ同年代の少年少女と比べれば明らかな差が感じられる。何よりも分かりやすい差が一つある。


 少女は圧倒的に【美】であった。


 それは女性の美という構成要因を極限のバランスで配分した芸術品の様であり、人の願望を具現化した女神像のよう。それこそ十人男性がいれば十人とも振り返る、それが例え女性であってもこの少女を前にすれば全員が見惚れる程の隔絶した美がそこにある。


 だが少女のこの近寄り難い雰囲気はその美からではない。


 いや実際にはその美も要素の一つなのだろう。だがこの少女を一目見て語る上では間違いなく第一声はこうなるだろう。


 存在感がすごい、と。


 少女はことで人が圧倒するのではなく、だけで全てを飲み込んでしまう、そう思わせるだけの存在感があった。


 少女と今しがたすれ違った少年は一目見て分かるほど顔色が悪かった。今にも倒れてしまいそうな切羽詰まった様相で足をふら付かせながら必死に走り去っていった。

 だが少女からは言葉とは裏腹に声音からは少年を案ずる色は一切見受けられない。単純に物珍しいものを見た、そんな軽い口調であった。


 関係無い、少女は少年のことをそう切り捨てると振り返りまた歩き出そうと脚を前に進め始めた・・・・・・・・・・が、その脚は一歩踏み出したところで止まってしまう。


 少女の表情に僅かなくもりが見えた。


 妙に胸が動悸する。


 少女は再度振り返る。


「・・・・・・何かしら、このざわつきは」


 少女が目を細め思案気に斜に構えた。

 先程の少年を目にしてから何かとても大事なもの忘れているような感覚に陥っていた。それが分からない事に不快感と苛立ちが募ってくる。

 腕を胸前で交差させ肩を指で弾きながら、少女は思考の中から答えを引き摺りだそうと唸りを漏らす。


 少年の病的なまでの様相が気になったのか?或いはどこかで会った事がある人物だったか?


 だがその答えは一向に思い当たらない。いやどちらかと言えば答えが分かっているのに出すことを拒んでいるような気がする。


 もどかしさに少女の整った眉が歪む。


「あぁ駄目ね。出てこないわ。せめて顔を確りと見ていれば思い出せそうなのだけど・・・・・・・そもそもあの子自身のが不自然に希薄な感じなのよね。まぁでも気にはなるけど思い出せないものを何時までも考えているのは無駄でしかないわね」


 少女は諦めを吐き出した。

 これ以上は不毛だとばかりに肩を竦める。頭を振ると艶やかな黒髪が揺れ光の波紋が流れるようにうねる。

 そんな些細な所作からは少女の気品が漂ってくる。


 それらの全てにこの少女はどこか完璧なようでアンバランスさを感じさせる。


「思いだせないならその程度ということなのでしょう」


 そう自分を納得させるような呟きを漏らしながらも、それでもまだ少年の事が気になっていた。「あぁ、にしては珍しい事だ」そう少女は内心で思いながら皮肉めいた笑みを浮かべた。


 だがそれらは目的の場所に付いたことで少女の思考からは遠のいていく。


 少女の視界を古ぼけたブロック塀が囲む。そこは先程まで賢志たちが居たあの惨殺事件の場所である。


 少女は躊躇う事無くすらりとした脚を奥へとさし向けた。軽く組んだ腕もそのままに背筋をスッと伸ばす歩き姿は実に優美であり尊大だ。


 今、この現場に事件の痕跡は一切残されていない。散らかった肉片も、飛び散った血飛沫も、綺麗さっぱり消されてしまっている。それは愛理たちが来た時と何も変わらない。だから一見すれば何の変哲もないただの路地裏でしかない。


 だが少女の瞳は捕らえていた。薄汚れたブロック塀のその前に、あの賢志が見たが渦巻いて浮かんでいることを。


 少女は小さく息を吐きだすと組んでいた腕を解す。


「・・・・・ね」


 そうぽつりとつぶやく少女には驚きも戸惑いは一切見受けられない。ただ面倒な落とし物でも見つけてしまったかのように肩を落としただけだ。


「随分と綺麗ね・・・・・・ご苦労な事だわ。は余程知られたくないのね」


 少女は恐らくここをしていったであろう者達を思い浮かべ、その苦労に口の端を吊り上げる。

 笑み、と呼ぶには余りにも冷たいそれは、あざけりと呼ぶべきものだろう。

 少女の年齢を鑑みればほとほと不釣り合いに思えるのだが、この少女に至っては実にしっくりと来る上に美しいとすら思える。


 少女の白磁のような手が黒い靄へと伸びていく。白と黒、正に対極なものがゆっくりと交わっていく。


「・・・・・・これは・・・・三体・・・・・・子どもと多分その母親をのね」


 そして口から淡々と述べられるのは、おおよそ年端も行かない少女が口にしていい事では無かった。

 それでも少女の表情は変わらない。あるべき事実を並べ確認の為に口にする、そんな事務的な作業に等しく思える。


 少女は小さく「なるほど」とつぶやくと、靄からそっと手を離し虫を追い払うかのように手を振った。


 すると目の前にあった黒いもやが、それこそかすみの如くで霧散していった。


 黒い靄が消えて無くなったのを確認すると少女は静かに目を閉じる。何かを探る様に閉じた瞼の奥で眼球が動く。


「・・・・・・この・・・・同じね、まだ近くにいるのかしら・・・・これは、人間?・・・・ああ、あの妙な部隊ね。ならわたしが行かなくてもこれ位は大丈夫かしら?」


 ゆっくりと瞼が上がる。深海を思わせるような黒に青みがかった大きな瞳がもうここには用は無いと物語る。少女は踵を返した。


「ひゃ!」


 その時だった。


 隔絶した存在感の少女が初めて人らしい、それでいて可愛らしい年相応の声を上げた。

 同時に少女は常人とは思えない程大きく後ろへと飛び退いた。


 口を押える少女。不快に眉を歪めている。


「・・・・・・・ちょっと、なんでこんなところに嘔吐物・・・・・」


 少女は自分が脚を踏み出そうとして避けたその場所に不満の声をぶつける。


 そこにあったものそれは、路上に広がった表現を躊躇わせる食物の成れの果て。所謂ゲロである。


「・・・・酔っぱらいかしら。まったく迷惑な事ね、こんなところに・・・・もしわたしが踏んでいたら百回は地獄を見せてあげるところよ」


 先程までの大人びた雰囲気とは打って変わり感情露わに不満げに声を荒げる少女は、嘔吐物があるところを大きく避けて通る。来るときに踏まなくて良かったと本心からの息をついた。

 

少女の足にカサリと何かがあたった。


少女はまさかと内心焦り足もとを急ぎ確認した。

 するとそこにあったのはクルクルと回りながら地面を滑っていく小さな四角いもの。しばらくすると回転が止まったそれが何であるのかが分かった。

 どうやら青色の小さな冊子の様であった。


落ちているものを拾うほど少女は奇特な性格をしていない。ましてや嘔吐物の近くだ、触れることには多大な拒否感がある。


だが少女の中で何かがそれに引っ掛かる。無視してはいけない、そう心が促してくる。


少女は恐る恐る手を伸ばす。汚れていないかを注意深く探り、それを手に取った。


「・・・・・・・・生徒手帳?」


 ビニールのカバーに覆われた手のひらにすっぽりと覆われてしまうほど小さな冊子。その正面には大きなマークが浮き彫りで刻まれている。どうやらそれはどこかの学校の生徒手帳の様だ。


 その事に行きついたとき少女の脳裏には先ほどの蒼褪めた少年の姿が浮かび上がる。


 少女は徐に手にした生徒手帳を捲る。その際指先が微小に震えていたことに少女は気づいていない。


 めくった最初のページには持ち主を特定するものがあった。


 学校とクラス、それと名前に、顔写真だ。


「これは近くの二中ね。それと皇賢志・・・・珍しい苗字だわ。あら、意外と可愛い顔し・・・・てって、この子、やっぱりさっきの子だわ」


 はっきりと見たわけではないが、それでも写真に写っている少年の顔とすれ違った少年は同じに思えた。


 だとしたら、と少女は嘔吐物へ嫌そうに目を向ける。


「そこのって、あの子の。今にも倒れそうな顔をしているとは思ったけど、まさかここで戻して、た・・・・・・え?」


 そこまで推測を口にして少女が止まる。

 生徒手帳があることからあの少年がここにいたことは間違いない、時系列的に嘔吐したのも少年なのだろう。

 だがそこで一つ疑問が浮かぶ。


 何故少年がこの場で嘔吐などしたのだろうか?


 偶々気持ち悪くなって人目のつかないところで、まぁそれは考えられなくはない。ただそれにしては少年の怯え逃げるように走っていたのはどうしてなのだろうか?


「体調不良の人間が走る・・・・・無いわね」


 普通に考えればそれは自殺行為に思える行動だ。吐くほどの行為をしているのだ、そんなことをすればなおのこと悪化してしまう。


 だとしたら何故か。


「そうなった原因が体調不良では無く、ここにあったから・・・・」


 仮にこの場で少年が嘔吐するほどの何かがあったのだとしたら、どれだけ体がつらかろうが急ぎその場を離れたいと思うのは然も当然であろう。


 だったらその原因は。


を感じた。それなら・・・・・・・」


 ここにあった異形の残り香。その醜悪で悪食を感じ取ったのならばあるいは。


 そこまで考えて少女はかぶりを振る。


「たかだか?馬鹿げているわね・・・・・・・・・でも」


 あり得ないと思いながらも妙な重なりが引っ掛かり捨てきれない。あの少年の希薄な、それこそ残差と呼んでいい何かが気になっている。


 少女はゆっくりと生徒手帳を自らの両手で包み込んだ。何かを探る様に瞳が動く。暫くして少女が大きく見開いた。


「馬鹿な!!魔力だと・・・・・・・・・しかもこれって、あっ!!」


 余りの驚きに手にしていた生徒手帳を落としそうになり、それを少女は慌ててつかみ、それからそっと胸に抱きかかえる。少女の目が泳ぐ、水から出された金魚のように口をパクパクとさせ、やがて落ち着くと抱いた生徒手帳を改めて開く。


 そして眺めていた瞳がくっとゆがんだ。


「そうよ・・・・・そうだわ。眼鏡と雰囲気の違いで気付かなかったけど、姿は確かにこうだったわ・・・・・・・・だったら何で、何でなの!?わたしが近くにいて気づかないはずが・・・・いえ、その前にどうしてわたしに・・・・・」


その瞳は今にも泣きそうだった。

青みがかった瞳が苦痛に濡れていく。


手の中の徒手帳が軋んだ。手に何時しか力が入っていた。

どの様な思いなのか、少女の苦しみに耐える様相はその内面を容易くは想像するにはあまりにも激しかった。



「こんなに近くにいたのに・・・・・・・・どうして、どうしてよ!!」



 薄暗くなり始めた道の片隅で、美しき少女の慟哭が静かな住宅街に痛々しくも溶け込んで消えていった。

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