回帰
その現象が初めて起きたのは、日本のある企業だった。
早朝、警備員が出社してみると、社員用の出入り口が施錠されていなかった。
ときおり、徹夜で働いている社員がいたので、警備員はそれかと思い、各階を確認した。
すると、ある部屋の明かりがついていた。
警備員がドアを開けると、デスクのひとつに人が坐っていた。
しかし、よく見ると、それは人ではなかった。
人の形をした樹木であった。
樹木はスーツをまとっており、顔にあたる部分には眼鏡がはめられていた。
その眼鏡は樹木に食い込んでおり、取ることはできなさそうだった。
足元をみると、革靴から根が飛び出しており、部屋の絨毯に絡まっていた。
樹木が植わっていた席は、エヌ氏のものであった。
エヌ氏は異動してきたばかりで、おぼえることが多く、連日、夜遅くまで仕事をしていた。
人の形をした樹木の、顔にあたる部分には、エヌ氏の面影があった。
会社の責任者はどうしてよいかわからず、
数時間後、社員の出入りを禁止した部屋に、専門家が姿をみせた。
専門家は驚きつつも、学者としての探求心から樹木を熱心に調べはじめた。
その調査により、いくつかのことがわかった。
樹木には、人間の腕のような枝が二本はえており、その両枝とも枝先が五つに分かれていた。
人間の指のような枝先のひとつには、銀色の結婚指輪がはめられていた。
樹木を覆っている衣類を、できるかぎり剥がすと、その肌は樹木のそれにしか見えなかった。
それから、幹の部分を調べてみたところ、人間の足のように、根に向かって二つに分かれており、それぞれの先端から根が出ていた。
「樹木である可能性は高いが、このようなものは見たことがない。なんにせよ、切断してみなければわからない」
切ってよいものかどうか。
専門家の回答に対して、会社の責任者は判断がつかなかった。
そうこうしてるうちに、細かい事情を伏せたまま、会社に呼び寄せたエヌ氏の妻が、社員に案内されて部屋に入って来た。
彼女は会社の責任者から説明を受けると、夫のなれの果てかもしれない樹木を、いぶかしげにながめた。
樹木に食い込んでいる眼鏡や指輪が、たしかに夫のものであることを、エヌ氏の妻は責任者に認めた。
彼女が半信半疑で動揺しているうちに、責任者は彼女の了承を得て、樹木をカーペットから引き剥がし、専門家に引き渡した。
樹木は軽トラックに載せられて、専門の機関へ運ばれた。
専門機関は調査結果として、エヌ氏が樹木に変じた可能性が高いと、関係各所に報告した。
人が樹木になった。
このセンセーショナルなニュースは、最初期こそ、笑い話の種にしかならなかった。
しかし、エヌ氏以外の症例が徐々に増え、他人の目の前で樹木化する者があらわれると、社会を揺るがす大問題として認識された。
会社や自宅で樹木化するのはまだよかった。
しかし、たとえば、トラックの運転手が運転中に樹木に変じれば、大惨事になりかねなかった。
ほかには、医者が手術中に……
危惧すべき例は、いくらでも挙げられた。
樹木化した者を分析したところ、仕事や人間関係で大きなストレスを受けていた者が、樹木化してしまうようだった。
人から人へ伝染するのか?
それが問題だったが、はっきりとした結論は出なかった。
日本からの入国を各国は禁じたが、時すでに遅く、日本以外でも発症が相次いだ。
それを受けて、事故を防ぐために、世界中で交通機関の運行や自動車の運転が制限された。
樹木化した人間のうち、家族や行政が伐採しなかったものは、すくすくと成長して、すぐに大木へと生長していった。
そして、思い思いの時季に思い思いの花を咲かせ、思い思いの実をつけた。
交通機関が制限を受けると、多くの産業が衰退し、世界はモータリゼーションの発達する以前に戻った。
また、ストレスによる樹木化を防ぐため、労働者に無理をさせられない時代になると、資本主義は
そして、徐々に、文明は廃れて行った。
それでも、人が集まってコミュニティーを作っていれば、往々にして、人間関係のストレスが生じた。
最終的には、ストレスを避けるために、コミュニティーすらも人類は捨てた。
その時代では、人々は食べたいときに食べ、寝たいときに寝る。
気が向けば交尾をしたが、事が終われば、それぞれどこかへ行ってしまう。
もし、子供ができていた場合は、女がひとりで育てる。
そして、大きくなると子供は、母親のもとを去って行く。
彼らの主な食糧は、思い思いの時季に、思い思いの花を咲かせ、思い思いの実をつける、樹木の果実であった。
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