天人界

 目が覚め、時計を見ると、正午を過ぎていた。

 広いベッドのうえで私は上半身を起こした。

 となりの恋人の様子を見ると、シミひとつない背中をこちらに向けていた。

 彼はまだ、夢の中にいるようであった。

 白い背中を人差し指で押すと、筋肉と少しの脂肪が織りなす、すばらしい感触を味わえた。

 背中に口づけをしたころには、恋人も目覚めていたが、身動きせずに、私の次の行動を待っていた。

 昨晩に続き、私は恋人の肉体を楽しむことにした。


「シャワーを浴びるけど、君はどうする」

 私の問いかけに恋人は答えず、ベッドのうえで、乱れた呼吸を整えていた。

 シャワーで汗を流し終えたあと、鏡に映る自分の顔をながめた。

 気がつかないでいたが、薄いシミができていた。

 そういえば、さいきん、運動の量は変えていないのに、筋力が落ちてきた。

 恋人とは同い年であったが、天人になった彼と、そうでない私との差が、すこしづつ出てきていた。


 若さを求めつづける人々の要請に、医学はひとつの解決策を与えた。

 天人化である。

 天人になるじゅつを受ければ、その時点で老化は止まるが、その代償として、寿命が短くなった。

 二十はたちで施術を受けた場合、たいていは五十前に命が尽きる。

 医療の発達により、殺人や事故にでも合わない限り、百二十まで生きられたが、多くの者は、長寿よりも若さを選んだ。


 天人には、二十前後でなるのが普通だった。

 しかし、私は三十になっても施術をしていなかった。

 年を重ねてからでは意味がないので、するのかしないのか、決断の時が迫っていた。


 後ろから抱きついてきた恋人に、どうするべきかを尋ねた。

「どちらでもいいよ。でも、年を取ると、変な臭いがするんでしょ。それは嫌かも」

 答え終わると、私の背中に頬をあてながら、恋人がハミングをはじめた。



 恋人に買い物を頼まれた帰り道、私は施術を受けることに決めた。

 彼に老いていく姿を見せたくなかったし、恋人が死んだあと、何十年も生きていくつもりはなかった。


 歩いていると、長い一本道の向こうから、車いすの老婆が現れた。

 付添いはおらず、車いすの自動運転に身を任せ、始終、うつむいていた。

 ほとんどの者が天人になる今、街で老人を見かけることは稀であった。

 なぜ、彼女は天人にならなかったのだろう?


 老婆の車いすが、ゆっくりとこちらに近づいて来た。

 その時、私の前を歩いていた男女が、老婆を見ながら、あざけりの声を上げた。

 彼らの失礼な態度に対して、老婆は何も反応しなかった。

 天人になるのもならないのも個人の自由であったが、だいぶ前から老人に対する差別が社会問題化していた。


 ふたりを注意しようと、私が声をかけたときだった。

 男が叫び声を上げ、自分の首に手をあてながら、地面に倒れた。

 それから間を置かずに、男の髪が抜け落ち、服に染みが浮きだし、肌が皺だらけになると、あたりに強烈な異臭がだだよいはじめた。

 それは、若さを保つ代わりに、天人におとずれる代償であった。


 男と同行していた女は、どこかへ走り去っていった。

 気がつくと、老婆が車いすを止めて、私を見つめていた。

 その皺だらけの表情から、感情を読み取ることはできなかった。


 やがて、車いすの自動運転が再開され、老婆は去って行った。

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