若さ

 午前八時、エヌ氏は自然と目が覚めた。

 ベッドの上で一つ伸びをすると、眠気が一掃された。


 すがすがしい気分で朝を迎えられたのは、いつ以来だろう。

 あまりに遠い過去のため、エヌ氏の記憶にはなかった。



 窓の外には、高原の新緑がどこまでも広がっている。

 その景色をエヌ氏が楽しんでいると、ノックの音がして、清潔感のある若い女が入って来た。

 きょう一日、エヌ氏を世話する女だった。

 女が一礼して言った。

「お風呂の用意はできております」


 浴室の鏡に、若い男の姿が映っていた。

 髪は黒々としており、顔にはシミ一つなかった。

 女に呼ばれるまで、エヌ氏は鏡をながめつづけた。


 軽装に着替えたエヌ氏は、女に案内されて、食堂で朝食を取った。

 要望していたとおり、英国の伝統的な食事が準備されていた。

 エヌ氏は目玉焼きを口に運びながら、留学の日々を思い出した。

 当地で出会った人々は息災だろうか。

 料理をすべて平らげても、エヌ氏はすこし物足りなさをおぼえた。

 この食欲も、エヌ氏には久しいというよりも、もはや新鮮な感覚であった。

 追加で、エヌ氏はトマトを食べた。

 塩もかけずに丸ごとひとつを。



 食事を終えたエヌ氏は、散歩へ出かけた。

 柔らかな日の光、軽やかな風、若草の匂い。

 初夏の高原が、エヌ氏を優しく包み込んでいだ。


 散歩道の先にテニス・コートが見えた。

 男がエヌ氏をコートへいざなった。

 かつてプロを目指していたエヌ氏は、接戦のすえに勝利を収めた。

 思った通りに体が動いたのは、いつ以来か。。

 男と握手をして別れた際、エヌ氏はすがすがしい気分になった。

 このような気分をおぼえたのも、いつ以来だろう。

「正々堂々と勝負を行い、勝つ。実に愉快なことだ」



 鐘の音が聞こえた。もう正午だった。

「昼食にしましょう」

 付き添っていた女が、エヌ氏を近くの山荘へ案内した。


 山荘に着くと、給仕が出迎えた。

 給仕に従って、屋外おくがいのテーブル席にエヌ氏は坐った。

 テーブルには、エヌ氏のお気に入りの赤ワインが用意されており、給仕がグラスにそそいだ。

 風に揺れる緑の絨毯を肴に、エヌ氏は酒を飲んだ。


 しばらくして、給仕が厚いステーキをエヌ氏の前に置いた。

 エヌ氏が肉を口に運ぶと、口の中で溶けはじめた。

「やっぱり、僕は肉が好きだな」

 健康を気にせず、食べたいものを食べることほど、幸せなことはない。

 あっという間に平らげてしまうと、給仕に促されるまま、もう一枚、ステーキを味わった。


 食後、たわいのない会話を給仕相手に楽しんだ。

 穏やかな午後の雰囲気が、エヌ氏を朗らかな気持ちにさせた。


 さらに散歩を続けたのち、エヌ氏は大樹の下に坐り、眼下に広がる草原をながめた。



 それは、午後三時を知らせる鐘が、鳴り響いた時だった。

 身動き一つしていなかったエヌ氏が、急に立ち上がり、全力で草原を駆けはじめた。

 やがて息が続かなくなると、芝生の上にエヌ氏は大の字になった。

「ああ、苦しい。苦しいが・・・・・・」


 しばらくすると、女が近づいてきた。

「そろそろ、部屋に戻ろうと思う」

「まだ時間はありますが?」

 作り笑いをする女に、エヌ氏は首を横に振った。

「もう十分だ。もう十分」



 宿泊先に戻ったエヌ氏は、女とビリヤードに興じたあと、風呂に入った。

 湯から上がると、ブランデーを求めた。

 最後の一杯を楽しみ終えると、エヌ氏はバニラアイスに手を付け、時間をかけて食べた。

「満足した。さあ、寝るか」

 食べ終えたエヌ氏は、ハンカチで口を拭うと、席を立った。

 


 ヘロドトスの「歴史」を片手に、エヌ氏は寝室へ向かった。

 歩きながら、女が問いかけた。

「本当によろしいのですか? まだ、時間はありますが・・・・・・」

「いいんだ。十分に満喫したよ。あとは眠くなるまで、本を読んで過ごすさ。君にも世話になったね」

 話をしているうちに、エヌ氏の部屋へ着いた。

「おやすみと言うべきか、それとも、さようならと言うべきか……。難しい問題だね」

 言い終えると、エヌ氏は部屋の中に消えた。



 翌朝、女と医師が部屋へ入ると、ベッドの上で、老人が絶命していた。

 床に転がっていた本を手に取ると、女は老人の枕元へ置いた。

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