第53話 僕は耐えられない

「なにすんだ!」


 ハンスが焦った声をあげ、小動物のようにじたばたと抵抗するが、ピエールの知った事ではない。

 ハンスに馬乗りになったピエールはその栄養の足りていない簡単におれてしまいそうな手首を頭の上で一掴みする。


「暴れるな、よッ」


 ハンスの頬を一発張った。

 うめき声を一つ上げ、動きを止めたハンスは、今度は黙ってピエールを睨みつける。

 その反抗的な目に、もう一度張り手を食らわせる。


「どうせ死ぬんだ。楽しもうぜ」


 嗤うピエールに、ハンスもせせら笑った。


「原始まで立ち返ったか、サル。欲求不満か?」 

「だれがサルだ」

「人間は理性で動くんだよ。手を離せ」

「理性は人を救ったか? お前みたいな浅ましい人間でも、気持ちよくしてやるよ」

「だれがお前なんかと!」

「どうして? 顔もスタイルも悪くない。おまけに高貴な身の上だぞ」

「口を慎め、強姦者」

「俺は強姦者じゃない。お前みたいな薄汚いのが、壊したせいだろ。悪者め」


 ハンスは目を見開くと、とんでもなく可笑しいジョークを聞いたとでもいうように、大笑いした。

 目の端には涙まで滲んでいる。


「弱いもの相手に力でねじ伏せるあんたは善人か?」


 ピエールはもう一度力任せにハンスの頬を張る。

 肩で息をし、短く命じる。


「だまれ」

「はん」


 打たれたというのに、ハンスがまるでなにも恐れるものがないかのように、鼻で笑う。


 それを見て、ピエールはぞっとした。

 そのしぶとさは、ピエールが嫌悪する市民の生き汚なさを体現しているように見えた。


「こっちのセリフだ。耳元で叫ぶな。『風よ、その邪悪な盾で混乱と、』」

「え?」

「『服従をもたらせ』」


 ごう、という音がした。

 と同時に、ピエールはなにか見えないものに、はじきとばされ、そのまま壁にしたたかに背を打ち付ける。

 ごほ、という音がして肺から一気に空気が漏れる。

 反射的に胃の中のものを戻そうとする口を抑え、なんとか呼吸をする。


「う、いてえ」


 立ち上げることができず蹲るピエールの腹を、立ち上がったハンスが思い切り蹴り上げる。

 それから、拾い上げた板切れでピエールの背中を思い切り打ち据えた。ばし、ばしと乾いた音がする。


「げえ、……げほっ、げほっ」


 痛みに、ピエールの意識が遠のく。

 生理的な涙が出てくる。


「弱いからって、無抵抗だと思うなよ」


 再度、ハンスが板切れを振りかぶる。

 今度は、明らかにそれが頭に振り下ろされようとしているのを見て、ピエールは慌てて片手を上げて制止した。


「わかった、わかった。げほっ、……俺が悪かった。俺が悪かったって」

「だまれ」

「黙っていたら殴るだろうが! げほげほっ。なんだよその力。ずるいな。どこが弱いんだよ、嘘つき」

「だまれ、変態」


 まるで聞く気がない。

 今度はほほに思い切り拳骨を喰らってひっくり返った。


「お返しだ」

「やりすぎだろ」


 形成逆転だ。


「言い訳があるなら言ってみろ。それともお前の死体に聞こうか?」


 ぜえぜえと肩で息をするピエールはハンスを睨みつける。

 ハンスも浅い呼吸をくりかえしつつ、睨み返してくる。


「なんにも分からないくせに」


 ピエールから出てきたのは深い怨嗟の呟きだった。

 その呟きに、ハンスは冷たい目で見下ろすと、切って捨てた。


「はあ? おまえの心情なんか知るかよ。そうやって生きていたいならいつまでもそこにいろ。なにもせずにただ失くす日々を続ければいい。惨めなサルめ」


 吐き捨てると、ピエールの股間を蹴り上げ、納屋から出て行った。

 床に倒れたピエールは、赤ん坊のように体を丸めて悶絶した。

 頬の濡れる感覚に、ガラスの破片が皮膚をきりさき、血が流れたことを知る。


 小屋の外から、低く嘲笑う声がひそひそと聞こえた。









 その同時刻。


 鉱山から一時間ほど歩いたところに、小さな街がある。

 村では手に入らない食材やちょっとした布が買える小さな街だ。

 白雪はカゴに入れた艶やかな林檎と、小麦を交換し、それから少しの量の砂糖を手に入れた。


 街の広場に行くと、たくさんの人で賑わっていた。

 週末の祈りのために教会に行った帰りの人々でごった返している。彼らは一様に、広場で発見された魔術師の死体について口々に話をしていた。


「もし」


 話しかけられた白雪が振り返る。

 そこにいたのは、黒髪の女だった。


「お尋ねしたいことがあります」


 表情が硬いが、きれいな顔をしている。


「ええ、なんでしょう?」


 白雪は頷いた。


「小人の家で暮らしている方ですよね」

「ええ、まあ……」


 すみませんと女は謝った。


「……失礼。ソルシエールと言います、魔法を使う者です」

「ソルシエール?」

「ええ、先日、あなたの家の近くを通りかかった時に、魔法の気配を感じまして、それが気になってつい」

「魔法……」

「ええ、人を惑わすよくない魔法があたり一帯にかけられています」

「まあ……」

「余計なお世話かとも思いましたが、見ているとどうもあなたは魔法使いという感じがしない。そこで、大変なことになる前に、お話できれば、と」

「それは、どうも……」


 ソルシエールが断言する。


「悪い魔法使いは、捕らえる必要があります」

「そう、ですね」

「そして、魔法使いは大抵悪いものです」


 白雪は首をかしげる。

 ソルシエールがずい、と一歩距離を詰めた。

 ぎょろ、と白雪を見つめる。


「あなたは『稀代の魔法使い』と呼ばれる男をご存知ですか?」


 白雪は首を横に振る。


「いいえ」

「……そうですか。いずれにせよ、邪悪なモノです。おそらく、あなたの側にある者も」

「でも、……」

「そうですね、私のことも、突然やってきて、怪しく感じていらっしゃるでしょう」


 そう言って手を差し出す。

 その手は色鮮やかな紐を握っていた。


「……この紐をあなたにお貸しすることにしましょう。もし相手が牙を向いたなら。すこしでも怪しいと感じたなら。隙を見て、この紐を相手に触れさせてください。紐は相手を縛り付け、あなたを危機から救うでしょう」


 手渡されたそれを、白雪は受け取った。

 ポケットにしまう。


「師匠!」


 人々の間をかき分けて、小さな金髪の男の子が現れた。


「見て、飴買ってきたの! お話終わった?」


 嬉しそうに菓子を見せ、ソルシエールの腰に抱きつく。


「こら。すみません」

「いいのよ。お弟子さん? 可愛らしいのね」

「ええ。最愛の宝物です」


 そう言って、ソルシエールは笑みを浮かべた。


「では、またいずれ、会いましょう」


 その不思議な預言者めいたほほえみは、白雪の印象に残ったのだった。






 幾日かのち。

 白雪は寝付けずに、窓から入ってくる月明かりを頼りに、手の中にある紐を見つめていた。

 よくよく見るとそれは、きれいな紐だった。

 でも、紐よりもなにか、予感めいたものが白雪にはあった。


 なんとなく、ハンスが家にやってくるような気がした。

 ただの気のせいかもしれない。

 けれど、その確信めいた予感は、窓を軽く叩くコンコンというちいさな音で、たしかなものとなった。

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