第48話 彼女の林檎
ー 10年前 ー
その日、ブランシュ王国とその隣国ゲルベの国境沿いの森にある、小さな家で、白雪は早い朝を迎えた。小さなあくびを一つすると、ぐっと体を伸ばしてベッドから降りる。その白魚のような手で櫛をとり、髪をとかす。
それから台所に向かうと、お湯を沸かし始めたのだった。ガスの通っていないこの家では、いまだに火を使う。もちろん、一から焚くわけもなく、前日の夜に使用した火の通った薪に灰が被せてあるので、それを掘り出す。そうした作業は、白雪にとって新鮮だった。
白雪は炭鉱にくるまで一人で暮らしたことがなく、生活というのをすべて他者に依存していた。一人で過ごす時間というのも滅多にないことだった。こうした手仕事を行うのはもちろん人生で初めてだ。
十代の後半に差し掛かり、白雪の人生はあたらしいことで溢れていた。
テーブルに食器を並べていく。
この家は、元々住人が六人しかいないにも関わらず、すべての道具が七組あった。白雪が来るより前に、一人、出て行ったらしく、今は専ら白雪がその人の分を使用している。
「ふふふ」
鼻歌を歌う白雪は、ぱたぱたどたどたという盛大な足音、ついで勢いよく階段を駆け下りてくる音を聞いた。
起き出した子供達がぱっと声を弾ませて、駆け寄ってくる。
「やあ、白雪! よく眠れた?」
「まだパンってあったっけ? お腹すいた!」
わらわらと六人の子供達が起きてきて白雪の方に駆け寄ってくる。
近くの炭鉱で働く子供たちだ。
炭鉱で働く子供は彼らだけではなく、皆一様に白く、どちらかと言えば小柄な体格をしているが、その中でも彼らはひときわ小さく、白い。
これは彼らの村に多く見られる特徴で、彼らが言うには、大きくならない身長に、成長が普通の人間よりも大分遅いのだそうだ。
「あら、昨日新しいパンを買ったばかりじゃない。ミシェル」
「そうだった」
この前乳歯が抜けて、前歯がなくなっているミシェルがすきっ歯で笑う。
「ほら、早く。お前達ごはんの準備しろよ」
そう言って他の子供達を急き立てるのは、この間十歳になったばかりのラファエルだ。彼は他の六人より少し年嵩で、みんなの兄役を担っている。しかし、すぐさま毒舌家で反抗児のサミュエルに言い返された。
「お前だって早く手を動かせ!」
「こらこら。喧嘩しないの」
白雪が笑いかけると、二人は一瞬にらみ合ったものの、すぐに朝ごはんの準備に戻っていった。
白雪は六人の中でもひときわ小さい三人に声をかける。
「ほらほら、小人さんたち。あなたたちも、眠いのなら顔を洗っていらっしゃい」
三人はふにゃふにゃと寝言を言いながら、素直に外への扉に向かっていった。
炭鉱で働く彼らは、その容姿の特異さから、周囲の人間たちから『小人』と呼ばれている。
✴︎
「最近、石の出がわるいんだよなあ」
「大人たちの機嫌も、金払いもわるくてやんなるな」
朝食も終わり、そんなことをぼやきながら、子供達が働きに出かける。
「白雪、最近、へんな奴が出没してるんだって! 目が合うと魂が抜かれちゃうんだって! 気をつけてね」
ボロを身にまとい、荷物をかつぐ子供達に、白雪は手を振る。
それから、家に戻ると、リンゴを煮込み、白雪は外に薪を拾いに出かけた。
湿った空気が森を支配している。
時折、森の中を風が駆け抜け、木々は葉を動かし、森全体が控えめな音を奏でるのだった。
そっと息を吸い込み、体の中の空気を入れ替える。ぬくもりが消える代わりに、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込み、白雪はしあわせな気持ちになった。
ふと、白雪は空が妙にざわついていることに気が付く。
鳥たちがざわついている。
まるで、なにかを警告するように。
ふしぎに思い、空をじっと見つめる。
世界から音が消え、白雪は無音の世界に吸い込まれた。
その瞬間、それは、突如、現れた。
妙な黒い塊。
その認知とともに、枝々の折れる音がする。
塊が白雪めがけて落ちてくる。
「きゃあっ!!」
とっさに避けると、それは地面にどさりと落ちる。
「え、なに……?」
それが黒い布の塊だと分かった時には、空から追って現れたおおぜいのカラスがその布めがけて攻撃をしていた。
「ええ……」
白雪は戸惑い、その大きな目をぱちくりさせると、カラスの攻撃対象をまじまじと目を凝らして見つめた。
布の塊はカラスの攻撃を避けようと右に左にごろごろ転がっている。
布の合間から細い腕が覗いた。
「まあ、人だわ」
どうしよう、口元に手を当てる。
しばらくとまどったものの、攻撃的なカラス達におそるおそる声をかけた。
「ねえ、あの! ごめんなさい。でも、人を攻撃するのは良くないわ……たぶん」
昔から白雪は妙に動物との相性がよかった。
使用人の手のつけられない暴れ馬も、警戒心の強い野生のリスや小鳥でさえ、白雪には友好的だった。彼らは、白雪に逆らったことがなかった。
白雪のあいまいな主張にも、カラスたちはぴたりと動きを止めると、不満そうな声をあげて返事をする。
「おねがい」
白雪が頼み込むと、一匹がカア、と声をあげた。
それから一斉に飛び立っていったのだった。
残された黒い塊に、白雪はおそるおそる近付く。
まるで芋虫のようだ。
もぞもぞと動いている。
「ねえ、だいじょう…」
声をかけようとした所で、その黒い塊はぱっと飛びかかってきた。
背中に衝撃が走る。
相手に馬乗りになられている事に気が付いたのは、青い空が視界いっぱいに入ってきてからだ。
「きゃあ」
一泊遅れて悲鳴がでてくる。
胸の中から空気が漏れる。
「しずかに」
冷たい感覚に、喉元にナイフが突きつけられた事を悟った。
白雪と相手の目が合う。
「……あの」
呆然とした声がでる。
つめたい瞳が問いかける。
恐怖か、緊張か。
頭が痺れる。
胸が高鳴る。
「あんたも敵か?」
「ち、ちがうわ」
白雪は訳も分からず、否定する。
相手は白雪から目を逸らさない。
じっと沈黙した後、
「……そうだな」
とパッと首元から手を離して、白雪の上から退いた。
立ち上がることもできずに、慌てて後ずさりした白雪に、
「ごめん、敵かと思ったんだ」
そう言った相手は、白雪から視線をそらして肩やら頭やらについた葉っぱを払っている。完全に白雪が敵ではないと判断したのだろう。
その様子に、白雪の心臓の鼓動もほんの少し、その速さをゆるめた。
相手を観察する。
十五歳くらいだろうか。
白雪ときっと、歳が近い。
声をかける。
「だいじょうぶ? 顔がまっさおだわ」
しかし、相手は答えない。
言葉をかさねる。
「あなた、どうしてカラスに襲われていたの?」
「さあね」
適当な返事に白雪は文句を言う。
「助けてあげたんだから、教えてくれてもいいじゃない」
相手は白雪をちらりと見て、皮肉っぽく笑いかける。
「お互いいらない秘密なんて抱えるべきじゃないんじゃないの?」
「それは……」
白雪が言い淀む。
「いい所の子女でしょ。空気がちがう。なんでこんな森にいるんだ? 狩られ、る……よ……」
しかし、そんな風に迷っている間に、相手の体がぐらりと前に傾いた。思わず手を伸ばして抱き止める。相手の体重をとっさには支えきれずに、地面に二人して座り込んだ。
ぎゅっと握り込んだローブに手が湿った。
白雪はじぶんの手が真っ赤になっているのを見て、初めて相手が出血していることに気が付いた。
「……放っておいて」
相手はそれだけ呟くと、それきり意識を失ってしまった。
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