第47話 空洞の怨嗟
自分は赤ずきんを追いかけるべきだろうか。
ほんのすこし、ほんの一刻ほど、躊躇った後、のろのろと赤ずきんを追いかけようとしたソルシエールは、目を見開く。
(……! 境界が破られた!)
めったにない事だ。
とっさに机の脇に寄せておいた胡椒の袋を手に取り、口の空いたそれを思い切り振りかぶる。中に入っていた黒白のつぶが、空中のなにかにぶつかると同時に、低く短いうめきごえが響く。
「だれ?」
ソルシエールの問いに、しかし相手は答えずに、再度攻撃を繰り出した。呪いが束となって放たれる。ソルシエールの髪がひと束、切り散らされる。
「『風よ、その邪悪な盾で混乱と服従をもたらせ』」
風が敵を迎え撃った。
ごっ、という鈍い音がしたのち、姿の見えないなにかは壁に激しく打ち据えられる。その音のした方に向かって、ソルシエールは鋏を投げつけた。
刃先が壁に刺さると同時に、濃い影が現れた。
じたばたと激しく暴れるが、鋏に縫いとめられている。
「なんの用?」
危なかった。そっと息をつきながらソルシエールが再度問いかける。
攻撃を一発でも受けていたら、いまごろ死んでいたにちがいない。すくなくとも、床で昏倒していただろう。
寒気がするのは、破られた窓から入り込んでくる冷気のせいだけではない。
『死ね!』
影が叫ぶ。
ソルシエールは顔をしかめて、首を振る。
「ずいぶんなご挨拶だね。だれの遣いかな?」
ここにやってくる悪意を持った人間の理由の大半は、王室に対する恨み嫉みだ。
それ以外にも、正直思い当たるフシは多すぎて、よく分からない。
普通に生きているだけのはずなのに、そこかしこで恨みを買っている気がする。そして、それはそんなに気のせいでもない気がする。
どれもこれも、ぜんぶ、ソルシエールが圧倒的弱者なせいだ。人々は、困った時には頼るくせに、魔法使いを憎悪をぶつけるための的くらいに認識しているフシがある。
白雪はともかく、王の方はそれをよく理解して、公に晒す事で利用を目論んでいる節があるが、そんな都合のいいだけの寵妃のような扱い、ソルシエールは御免である。クスリを盛られ、心臓を撃ち抜かれて川に捨てられる自分の末路が見えるようである。
ソルシエールはしゃがみこんで、影をじっと見つめた。
床に転がっていた麺棒でつつくが、手応えがない。コン、コン、と壁の固い感触がするだけだ。
「君、式神なんだ。自ら意思を手放した愚かな人間。いずれ肉体も意味も失くし、完全な影に成り果てるだろうね。魔法使いになれず、人間でもなくなった、哀れで醜い子」
喋ることはできるのかな、ソルシエールは問いかける。
『星つぼ』
影が蠢いた。
奇妙なくぐもった声。
「おぞましいなあ」
ソルシエールは、眉をひそめる。
『星つぼ』
ねじれた奇妙な笑い声。
『溶ける!』
星つぼの呪い。
もっとも原初の呪いの一つだ。呪いの坩堝を生み出した人間が周囲に災いを撒き散らし、最終的には呪い、呪われる災厄に成り果てる。直近では、ピエールの婚約者のエラ嬢もそれにかかっていた。
「なるほど?」
影の口元がパクパクと音もなく動く。
『ケ、ケ、け、……』
「お」
ほかにどんな言葉を貯め込んでいるのだろう、と身を乗り出したソルシエールに影は吐き捨てた。
『世界よもっと呪われろ!』
その口から泥が勢いよく流れ出て、ソルシエールの顔にねっとりとしたものがかかる。
「はっ、ははっ、ははは。これはひどい!」
ソルシエールは思わず失笑する。
ローブが汚れるのも無頓着に、その袖で顔を拭きながら、笑い声を上げた。
「がらんどうにそんな言葉を吹き込んだ人間は実に悪趣味だな!」
しかし影はそれに返事をする事はなく、呪詛を撒き散らし、その身自体をヘドロに転じさせ、魂ごと消え失せんと、あっという間に床のシミと化した。
「手練れだな、こりゃ」
ソルシエールは眉をしかめる。
「『もっと』呪う、ねえ」
それから、しっちゃかめっちゃかになった周囲を見回して、ため息をついた。
✴︎
アーノルドは刑事であり、魔女ソルシエールに対する求婚者である。
彼はその日、とても落ち込んでいた。
めちゃくちゃな気分だった。
内にある負の感情を取り出したら、山一つ分にはなるだろうという気がした。
日が登りきるより早く自邸を出発し、魔女の棲む森に着いたはいいものの正午をとっくに超え、それでも森をさまよっていた。いつぞや城で迷子になった時のことを思い出し、さむいし、正直帰りたくてたまらないが、まさか求婚者相手に怖じ気ついたと思われるわけにもいかず、ただたださまよい続ける。
途中、分厚い雲から雨が降り始め、やがて小休止に入ったと思ったら霧が出てきた。
小川を見つけて腰を下ろして、一休みをする。
もはや自分がなにをしているのか、さっぱり分からなくなっていた。魔女に会いたいから森から抜け出したいのか、森から抜け出したいから魔女に会いたいのか。
こういうのを、なんと言っただろうか?
「あれ、刑事さん。なにやってんの?」
聞き覚えのある声がしたと思ったら、赤ずきんが姿を現した。狩りの途中なのだろうか、背中に猟銃を背負っている。
その表情は、まるでアーノルドの心を反映したかのように、どこか硬い。アーノルドはとりあえず情けない己の現状報告をすることにした。
「やあ。迷ってるんだ。なんだかずっと同じ場所をぐるぐるしていて。もういい加減、目が回りそうだ」
赤ずきんは己の唇をきゅっと引き結ぶと、それでも指をさした。
「小川に沿って下流に歩くといいよ。望めばすぐに村に出る」
しかし、アーノルドは首を振る。
「村じゃなくて、ソルシエールさんの家まで案内してくれないかい?」
「やだ」
素直な少年に似つかわしくない態度に、目を見開くと、
「どうして?」
と問いかける。
「だって、師匠のこと、口説きにきたんだろ?」
「おや、話が伝わっているのか」
照れてみせるアーノルドに、赤ずきんはひややかに答えた。
「断られたとも聞いたけど」
「そうなんだ。でも自分たちは友人同士になったからね。友人はたがいに訪問しあうものだろう?」
「友人? 断り文句だよ、それ」
「そうだろうね」
胡乱な目を向ける赤ずきんに、アーノルドはにっこり笑ってみせた。
「むかつく」
「そうだろうね」
それきり赤ずきんが黙ってしまったので、アーノルドは先に進むことにした。『下流に行け』と言われたので、川伝いにそれとは逆の方向にすすむ。
赤ずきんは不満そうにしながらも、アーノルドの後ろをだまってついてきた。
しばらくお互い無言ですすんだところで、赤ずきんがアーノルドの背中に声をかける。
「そっちじゃない」
「そうかい」
「日が暮れてもたどり着かない」
「それじゃ、君の時間もむだになってしまう。帰るといいよ」
ちいさな舌打ちの音が聞こえた。
それから恨めしげな声も。
「春までまだ少し時間がある。死なれたら困る」
どうやらアーノルドの身の安全か、あるいはそれらが守られないことによって齎されるなにかを案じているらしい。それを悟り、
「そうなのかい?」
笑いが声に含まれてしまわないよう、慎重にアーノルドは声を発する。
不満そうに、そしてどこか不安そうに、赤ずきんがアーノルドに問いかけた。
「ねえ、師匠のことが好きなの?」
「もちろん、好きだよ。君に比べれば、まだ彼女のことを多くは知らないけどね。でも、それは、これから知っていけばいい。それだけのことだよ」
アーノルドは自分が優しそうと評されやすい事を理解している。しかし本当の自分がそうでない事もまた、知っている。
「ねえ、君はどう思う? もし自分がソルシエールさんと結婚したら、都に家を構えたいと思っているんだ。それから、……そうだな、子供がほしい。たくさん。一人はさみしいから、大家族がいい。ああ、そうだ」
「なんでそれをおれに話す?」
赤ずきんが眉を顰める。
アーノルドは軽く肩をすくめた。
「君を養子として家に置いてやってもいい。歓迎するよ」
返事は返ってこなかった。
アーノルドは赤ずきんと敵対関係になることが好ましくないことだと知っていた。敵になるには赤ずきんはソルシエールに近すぎる。でも、ほんのすこしからかいたくなったのだった。
普段なら、こんなことしないのに。
しばらくして、赤ずきんは静かに、強く、反論した。
「挑発にはのらない。師匠は、おまえを選ばない」
「どうかな? 彼女にだって人並みに幸せになる権利はある。自分は彼女を精一杯幸せにしよう」
「…………」
「国も後押ししている。人材を外に出さないようにね。君は、いったい何ができるんだい?」
こういう態度は自分らしくない。
アーノルドは若者をいじめすぎた事に気がつき、話題を変えた。
「どうせなら建設的な話をしよう。ソルシエールさんはどういう人なんだい? 優しいよね、彼女」
「師匠はだれにだって優しい。打算だよ」
「君に優しいのも打算なのかい?」
「…………」
「うーん。まあ、いいさ。ところで、ソルシエールさんは、いつからこの国にいるんだい? この国の人じゃないんだってね?」
「さあ」
それきり赤ずきんが黙り込んでしまったので、アーノルドはさすがに罪悪感を刺激され、こほんと咳をする。
「ある人が君をウラシマのようだと言ったんだ」
「へ?」
赤ずきんがその日初めてまっすぐアーノルドに視線を向ける。その怪訝そうな顔に、アーノルドはよく純朴そう、と評される笑みを浮かべて見せた。
「ソルシエールさんに会えないのなら、そうだな。一緒に来ないかい?」
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