第46話 彼の怒り
ー現在ー
ざあざあと雨が降る。
濡れた土の匂い。
雨音に紛れたかすかな川のせせらぎは、来訪者の魂をそのまま引き摺り込もうとしているかのようだ。
そんな雨の日、いつものように赤ずきんがソルシエールの家を訪れた。
「魔女さん、ばいばい」
「パン屋はおいしいものがたくさんあるよ、ばいばい」
ちょうど、ソルシエールは人と別れるところだった。少女に手を振る。小柄なソルシエールよりさらに小さいその少女は、片手に小さな傘をさし、もう片方の手を大人に手を引かれて家から去っていった。
赤ずきんが小道をすれ違いざまに彼らに軽く挨拶し、ソルシエールの元へかけて来る。顔を合わせると、嬉しそうに綻びかけた顔が、きゅっとおかしな具合に引き攣った。
「師匠。人身売買?」
屋内に入りつつ、尋ねる赤ずきんに、ソルシエールが肩を竦める。
「そうそう。拾ったんだ」
「犬猫じゃないんだから」
「おんなじ哺乳類なんだな、これが」
人をくった返答をするソルシエールに、軽くため息をつくだけの赤ずきんも慣れたものだ。
ソルシエールが王都に買い出しに出かけたところ、スリに失敗した子供が大人たちに取り囲まれていたのだと、話して聞かせる。通り過ぎようとした魔女に『魔女さん! コイツの左腕を切り落とす! 証人になってくれ』と詰め寄られ、『夕飯の食材にするから』と丸ごともらい受けてきたのだ。
「とりあえず最低限の行儀だけ教えて、あとは街にあるパン屋が働き手を探しているっていうから渡してきたよ。手間賃にパンをくれた。ほら今朝焼いたばかりで、いい匂いだ。いい儲けものだ、夕飯に食べよう」
布に包んだパンを見せびらかすが、赤ずきんはチラリともそれを見ようとしない。
「また適当なことをして! あ、ほら水滴垂れてる! あの子が奉公先で泥棒でもしたら師匠の評判が下がるんだよ! ただでさえない評判が! どうすんだよ、そのうち後ろから刺されちゃうよ!」
「ここは街外れだからね。人がほとんど来ない。ここに置いておいても、どうしようもない」
「別にここで育てろって言っているんじゃないの」
ぷりぷり怒る赤ずきんに、ソルシエールは笑った。
「今日はどうしたの、赤ずきん?」
それを聞いた赤ずきんははっとした顔をすると、さらに怒った。
「師匠のばか!」
「ひえっ……」
顔が引き攣る。
「小人さんたちの三歩進むごとに、一回こける呪いをいい加減解いてよ! 困ってたよ」
「だって、あの人たち『やーい、魔女』ってうちに石ころ投げ込むから」
「その前に煽ったのは師匠でしょ!」
「そうだっけ?」
「そうだよ!」
なんで知ってる、と不思議そうな魔女に赤ずきんがやけっぱちに説明する。
「その場にいたからね!」
「ああ、そうだった」
はあ、と赤ずきんがため息をつく。
ソルシエールは肩をすくめた。
「だいじょうぶだよ。その内勝手に解けるから」
「ダメです! 仕事できないでしょ!」
「仕事したくないんじゃない? だから解けないんだ」
「今すぐ解いて!」
「えー、やだ」
ふん、とそっぽを向いたソルシエールに、赤ずきんが項垂れた。
「あのさ、師匠がなにかする毎に、泣きつかれるのは俺なんだよ。怒ったりめそめそしたりする人を前にした俺の気持ちを考えてよ。なだめるのも大変なんだからね」
途端に、ソルシエールの顔がみるみる曇る。
「……うん、ごめん」
しゅん、と項垂れた。
ソルシエールは赤ずきんに泣きつかれるのに弱かった。
赤ずきんもその事に気付いているのを、ソルシエールは知っている。それなのになぜなにかある度に、怒りのフェーズを挟むのかは、お互いにわからない。
ソルシエールの反省を見て、赤ずきんが態度を和らげる。
絆されたのだ。
「いいよ。でも、ちゃんと解いてよ」
「分かった」
頷く。
「師匠はさ、もっと村の人と話したらいいのに。いい人たちだよ」
自分の社交性のなさを自覚しているソルシエールは、赤ずきんの正論に慄いた。
(……いい人たち?)
曖昧に首を振る。
「もちろん、そうだろうね。でも私はべつにいい人じゃないんだ」
「師匠」
「……はい、わかった、かんがえとく」
「皆分かってくれるはずだよ。魔法使いがどんなに素敵な人か」
「うんうん、分かった。ていうか、いいよ別に、そんなん」
「俺は魔法のこと、よく分からないけど、けど話したらきっと皆んな驚くよ。でも、なんか最近、みんな少し変だよね」
「変?」
「なんか、ぴりぴりしているって言うか、仕留める寸前の獲物みたいだ」
ソルシエールが眉をひそめる。
「ねえ、赤ずきん」
「うん、なに?」
赤ずきんがソルシエールを見た。
「魔法について話をするのは控えた方がいい。すくなくとも、しばらくは」
「どうして?」
「この世では想像を越すようなびっくりすることが時々起きるんだ。まるでびっくり箱のようにね」
「なんの話?」
「飛び出てくるものが良い結果をもたらすこともあるし、その反対もある。そして、必ずしもそれらを対処する能力が大人たちに備わっているとも限らない」
「つまり、なにが言いたいの?」
「できる限り頭を低くして、嵐が過ぎ去るのを待つのも賢さの一つだよ。私だったらそうするね!」
胸を張るソルシエールに、赤ずきんはこれ以上なく冷たい目をした。
「言うと思った」
「時間はとても大切なものなんだ、自分のために使った方がいい」
「なにそれ」
赤ずきんは顔をしかめ、語気強く言う。
「俺にそうしろって? いやだよ、そんなん」
ソルシエールはその真剣な様子に気分が沈み、窓の外を見つめた。
カラスが雨の中、巣作りに励んでいる。
「知っているよ」
ソルシエールは呟くように言った。
「じゃあ、どういうつもりなの」
「君が傷ついたら、私は悲しい。それだけ」
「おれだって師匠が傷つくことを、しょうがないと思う人間になりたくない。おれが自分の行動のせいでどうなろうと、師匠のせいじゃない。おれは自分のしたいことをしている。なにが起きても、師匠には関係ない」
「そうかもね。その通りだ」
ソルシエールは赤ずきんの視線を感じる。
床の角の埃が目に入った。
「…………」
「ねえ、師匠」
言い聞かせるような声音。
立場が逆転する。
「……ん?」
「俺の一部は、師匠に形作られた」
「…………」
「それを誇らしく思ってる」
思わずソルシエールは手で顔を覆った。深く息をつく。
「イヤイヤ。頼むから、それ以上続けないで欲しい」
「なんでだよ」
優しさは美徳だ。そしてそれに足元を掬われることはあっても、報いてくれることなんて、ほとんどない。
ソルシエールは暗澹たる気持ちになった。
それなのにこの子は、いとも容易く他者にそれを差し出してしまう。
それがどんな結果を齎しても、受け入れられるような度量が、ソルシエールにはない。だれかに理不尽に殺されてしまうくらいなら、他者を食い尽くす化け物になってでも生き延びて欲しい。でも、できることなら、彼には人間らしくいてもらいたい。
なんてひどく一方的で身勝手な感情なのだろう。
ソルシエールは自分を恥ずかしく思う。
指の隙間からのぞく。
眉をひそめた赤ずきんが見える。
「ねえ」
「なあに?」
「なにが、起きているの?」
「ううん、なにも。ただ、少し気になっただけ」
「師匠、大事なことがあるなら、話して欲しい」
「そんなことは何もないよ。ねえ、この前から、ずっと気になっていた事がある」
ふわりと、ソルシエールは宙に浮かんだ。
赤ずきんと目線を合わせる。
「なに?」
「どうか、約束して欲しいんだ。なにがあっても、君が私のために人を殺すことはないって」
「……どうして?」
「どうしても。君は、いつかその選択をとる日がくるかもしれない。でも、それは私のためであってはいけない。そうなるくらいなら、私はいっそ今、君の前から姿を消す」
「はあ? じゃあ聞くけど。それなら師匠のことは誰が守るんだよ。王様やお妃様たちだって、」
「ああ、そっか、そうだね。でも、そんな事はいいんだ」
「ちがう、大切なことだ」
ソルシエールは思わずほほえんだ。
「ありがとう、赤ずきん」
しかし、赤ずきんはますます渋面を浮かべる。
「不愉快。不愉快だよ、師匠」
「赤ずきん、顔がしわくちゃだ」
なんとなく伸ばしたソルシエールの手が、振り払われる。
赤ずきんの手が、台にふれ、ボウルの中に放置されていたオリーブが宙に舞う。
床に落ちた緑の粒に赤ずきんは狼狽え、後ろめたそうな表情をしたが、それよりも憤懣の情が優ったのだろう、言葉を滑り出させる。
「さっきから意味もないことをベラベラと! この前の結婚の話だってしてくれてないし!」
「……」
「うるさい、このぬるぬるうなぎ! 説教ば、…ババア! 俺を騙して! 嘘つき!」
バッと駆け出して、雨の中、駆け出していく赤ずきんの背をソルシエールは見送った。
「…………ばばあ。ばばあ?」
残されたのは、油まみれのソルシエールだ。
目を見開いて硬直する。
ああ、油に混ざったバジルは、なんていい匂いなんだろう!
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