第36話 引き金

 軽く引き結ばれていた唇が、赤ずきんにそっと囁く。


「さあ。これを飲んでちょうだい」


 差し出されたコップのほの苦い匂いを嗅いで、赤ずきんの瞳が曇る。


「お姉さん。これ、なんのクスリ?」

「今のあなたに必要なものよ、カイ」

「おれは、赤ずきんだよ」


 赤ずきんがその言葉を言った途端、彼女はぎょっと目を剥いた。腰まで届く、艶のある白い髪が揺れる。


「いいから、飲んで」


 目が血走っている。

 口元に押し付けられたコップを、赤ずきんは口を引き結んで拒む。

 無言の攻防を繰り広げたのち、どうしても開かない口にコップはなすすべなく引き下げられた。

 赤ずきんの顎を、液体が滴り落ちる。


「どうして言う通りにしてくれないの」


 赤ずきんは狩猟団から引き離されて、無理やりこの見知らぬ城に連れてこられて以来、幾度となく繰り返された応酬に軽くため息をついた。


「おれをここから出してくれないかな」


 最初の頃、逃げ出そうとしたせいで赤ずきんは椅子に縛り付けられていた。


「…………」

「あのさ、お姉さん」

「お姉さんって呼ばないで」


 声がほんのすこし高くなる。

 苛立っていることがわからせる、有無を言わせない言い方だった。


「カイはそんな風にわたくしを呼ばなかった」


 今度は赤ずきんが黙る番だった。

 しっかり考えてから、声をかける。


「ねえ、カイってだれのこと?」


 しかし、相手は答えない。

 赤ずきんはあくまで優しく語りかけた。


「それじゃあ、いいかげん名前を教えてくれてもいいんじゃないかなあ。あなたの名前はなんて言うの?」


 石のように押し黙っていた彼女が、答えた。


「……わたしは、ゲルダよ」

「……ゲルダ?」


 赤ずきんがほんの僅か、目を見開く。


「そうよ」


 彼女は頷いた。

 赤ずきんは、そっと微笑みを浮かべる。


「そう、ゲルダさん」

「ゲルダって呼んで」

「……ゲルダ。縄をほどいてくれないかな? 縛り方がきつくて、腕が痛いんだ」


 彼女は少し考えるそぶりをして、頷いた。


「わかったわ。でも、逃げないって約束してくれる?」

「もちろん」


 赤ずきんの囁き声に、彼女はその細くきれいな手を縄に伸ばした。最初、その硬い結び目に戸惑っていたようだが、それでもなんとか縄を解き終わると、もう一度赤ずきんに念を押した。

 その目見開いた目は充血していた。


「お願いだから、逃げないでね」


 彼女は赤ずきんを閉じ込めている塔の鍵をしっかりと閉めると、氷の魔法を使い、建物にだれも近寄らせないようにした。赤ずきんは一度逃げ出そうとして、魔法が張ってあることに気がつかずに失敗したのだった。もっとも、魔法があることを理解している今だって、きっと逃げ出すことはできないだろう。

 なぜなら今は、冬で。

 そして、ここは彼女が知り尽くした場所だった。

 庭を渡り、宮殿に戻る。


 部屋をいくつか横切ると、待ち合わせの相手がそこにはいた。何度も会うのを拒んだせいで、父親が彼女に会うように命じ、従わざるを得なくなったのだ。

 幼馴染のイアン。

 彼女の婚約者候補である。


「いやあ。なんて今日もかわいらしいんだ。パーティで飾り立てた姿も豪華で素敵だけど、そのような格好も可憐だ」


 会うなり、ふくふくとまるで微塵も思っていなさそうな言葉を並び立てる。


「ありがとう。あなたも素敵よ」


 愛想笑いの一つも返さずに、むっつりと引き結ばれた唇。


「ああ、笑ってみせてほしいなあ」


 それに、うっそりとイアンは陶酔していた。

 彼女はゾッとした。


「やめて。あなたみたいな人。好きじゃないの」


 自分にそんな感性が残っていたことに、彼女は意外な思いだった。


「そうですかあ? ボクは好きですけどねえ」


 余計に、にこにことその頬を紅く染めている。


「いや、でも確かにそうですね。人々はあなたの事を一切笑顔を浮かべないお姫さまだと笑っています。でも、だからどうだって言うんだろう? 笑顔なんかなくたってあなたはかわいい」


 彼女はこのイアンという幼馴染が昔は苦手だった。

 その昔、まだほんの幼い頃。まだ彼女にも笑えていた時期があった。

 だから、友人だって今よりずっと多かった。イアンはその中の一人に過ぎなかった。


 ある時、どうしたわけか彼女とイアンはたった二人きりで過ごした事があった。もちろん、メイドたちは近くにいたが、彼女の友人はそこにはイアンだけだった。彼女はイアンとなにかをして遊んでいた。積み木か、砂いじりか。どちらにしたって、そう変わらない。

 果たしてなにを考えたのか、イアンは彼女に向かって言い放ったのだ。

 あの時のイアンは、子供らしいふくふくとした顔に、満面の笑みを浮かべていた。


「あーあ。こわれちゃえばいいのに」


 それは、その時していた遊びに対してではなかった。

 その言葉は、明確に彼女自身に向けられていた。

 その鋭さに、彼女はおののき、そして傷ついた。その後、どうしたのかは覚えていない。もしかしたら泣いてメイドに縋りついたのかもしれないし、怒って声を荒げたのかもしれない。


 それ以来、彼女はイアンが苦手だった。

 会えば挨拶くらいはしたが、彼女はできるだけイアンを避けていた。

 それでも、それは子供の頃の記憶の一つで、やがては苦手意識だけを残したまま、彼女はそんなことはすっかり忘れていった。

 けれど、イアンが婚約者候補になった時、あの時の笑みそっくりに微笑んだ。その時に記憶を思い出し、それ以来より一層苦手意識を強くしたのだ。

 感情が希薄になってずいぶん時間が経つが、その意識はいまだに残っている。


「また、あの時のことを思い出しているんですか?」


 なぜか嬉しそうにふくふくと笑っている。

 イアンはなぜか記憶を忘却していたこと、そしてその記憶を思い出したことを敏感に察知していた。それが彼女のわずかに残った感情を揺さぶり、怖気立たせる。


 顔を見るのが嫌になって視線を外した彼女は、イアンの腰に瓶が吊るしてある事に気がついた。どこにでもあるような安っぽいガラス瓶だ。妙に気になって、それについて尋ねようとした瞬間、イアンが言葉を放った。


「あれは最初にアナタにボクを意識してもらえた瞬間ですからね。いい思い出です」

「きもち悪いわ」


 飛び出た素直な言葉に、イアンはほんの一瞬、心の底から嬉しげな顔をして、それから慌てて悲しげな顔で取り繕って見せた。


「アナタを傷つけるつもりはなかったんです」

「本当かしら」

「本当ですよ。ボクはアナタの気を引きたかった。でも、ボクは幼過ぎて、その方法が分からなかった。だからあんな方法をとってしまった。そのことは、反省しています」


 深く押し黙った彼女に、イアンは嬉しそうに続ける。


「でも今ならもっとうまくできます。そういえば、『この悪魔!』って叫ばれたボクは、悪魔がなんなのか分からなかった。だから必死に悪魔について勉強したのもいい思い出です。アナタはあんな幼い頃からご聡明な方でしたね」


 それから、実にどうでもいい話をにこにこと続けたのだった。

 彼女は内心、息をつく。

 はやく時間が過ぎ去ればいいのに、と。







 彼女が出ていった瞬間、赤ずきんは神経を研ぎ澄ませる。そして、考えを巡らせた。赤ずきんは拐かされた身にしては、ずいぶんな厚遇だったが、それでもこのまま塔に居続けたいわけもない。ずっと、脱出の機会を伺っている。


「あーあ。もう、一週間……」


 縛られて痺れた手首の動きを確認する。

 脱出は至難の業だった。

 塔にある小窓にはすべて鉄格子がはまっている。

 塔がなにかで異様に冷やされているのか、うっかり触ると凍傷になりかねない。

 狩猟のために持ってきていた武器はすべて取り上げられている。

 しかし、武器を持っていたとしても、それを使用できる場所にいるか赤ずきんは確証がなかった。赤ずきんのせいで、魔女に迷惑をかけるわけにもいかなかった。

 赤ずきんの心が挫けていないのは、家に帰りたいという気持ちの強さと、それから数日前の出来事にあった。



 その時も、赤ずきんは椅子に縛り付けられていた。

 なにも最初からそうだったわけではない。一度、チャンスを伺い外に抜け出した時に、ゲルダに見つかり、引き戻され、以来拘束がきつくなったのだ。

 彼女はなんらかの術を使うらしかった。魔法の一種だろう。

 逃走に失敗はしたが、分かったこともある。

 ほんの短い間に見えた周囲の環境は、明らかに赤ずきんが元いた森ではなかった。

 辺りは木々に溢れていたが、それらは自然なものとは程遠く、人の手が加えられ、形が整えられているようだった。その徹底的に管理された有様は、森というよりも庭を思わせた。それこそソルシエールに連れられて、ブランシュ王国の首都で死ぬほど見た公園の様式に近い。

 それならば、赤ずきんがいる場所は、彼が最初にいた場所に比べて人が多い場所なのかもしれず、それならばこの敷地の外にさえ出れば逃げ切れる可能性がありそうだった。街に近いのならば、凍死することもないだろう。

 それらが知れたのは大きかった。

 しかし、一回逃げようとしてしまったがゆえに、彼女はさらに警備を厳重にしているらしく、どうにも赤ずきんは外への脱出方法を見つけられないでいた。魔法だけではなく、塔の小窓からは武器を持った男たちが巡回しているも見えた。男たちが身なりよく制服を着ているのを見るに、赤ずきんの誘拐犯は相当権力のある人間なのだと思われる。

 そういうわけでその時の赤ずきんは、ひとまず力任せに縄を引きちぎるよりも、体力を温存しようと大人しくしていたのだった。


『困ったな』


 赤ずきんは、自分の声を忘れないようにするため、つぶやいた。

 その時の赤ずきんには、どうして彼女が自分を拐かしたのか、今より曖昧だった。


 赤ずきんは最初から『カイ』と呼ばれていた。ならば、その人物が関係しているのとは思ったが、それならばその人物をここに連れて来ればいい話で、赤ずきんが身代わりになる理由もないのだった。


 その人物がなんらかの理由でいなくなって、代わりが必要になったのだろうということは見当がつく。そして、話しぶりから察するに、その目的は政治や陰謀というよりは彼女個人の思惑によるものらしかった。


 さらに言えば、どうも赤ずきんと『カイ』の区別もついていないのではないか。それが会話の節々で伺えた。

 気が狂っているか、呪いを受けたかで、見える人間のすべてが『カイ』に見えているのかも知れない。

 いずれにせよ、厄介な状況にいることには変わらなかった。


 その時、彼女はなんの用があったのか外に出ていて、そこにいたのは赤ずきんただ一人だった。


 この塔に連れてこられてから、赤ずきんは彼女以外の人間を見たことがなかった。塔の見張りも、中まで入ってこない。それも赤ずきんにとって不安の要素だった。


 しかし、その日はいつもちがった。


 一回出て行ったら、彼女は短くとも数時間は戻ってこない。つまり、塔の扉を開閉もしばらく行われないのだが、彼女が出て行って程なくして空気が動き、ついで扉が微かな音を立ててゆっくりと開いた音がした。

 階下の扉から誰かが入ってきたのだ。

 今出ていったばかりの彼女がもう帰ってきたのだろうか?

 赤ずきんが眉をひそめた。

 それにしては、気配を押し殺すようにしてゆっくりと進み、やがて、赤ずきんがいる階までやってきた。

 ゆっくりと扉が開かれ、小さな隙間ができる。


『だれ?』


 赤ずきんの鋭い声に、きゃっと小さな驚いた声が返ってきた。

 女の子の声だ。

 少なくとも敵ではなさそうだ。


『は、話があるの。入るわよ』


 赤ずきんの緊張も少し緩み、朗らかに答える。


『どうぞ。歓迎するよ。俺の部屋じゃないけどね』


 中に入ってきたのは、やせぽっちの女の子だった。

 そのひょろっとした見た目に比べて、そばかすに赤毛の顔は気の強さを表している。

 椅子に縛られ放置された赤ずきんを目に留めると、駆け寄り、ひざまづいた。


『あなたが新しい『カイ』ね。助けにきたの』


 抑えた声で少女が告げる。

 赤ずきんもまた同様に、返事をした。


『誘拐犯は俺をそう呼ぶけど。君はだれ?』


 ゲルダはまじまじと赤ずきんを見つめると、不思議そうに尋ねた。


『あなた、随分冷静ね。他の人はもっと、こう…、荒かったわ。それとも一周回って大人しくなった後?』

『うーん、狭いところにいるの、慣れているのかな』


 うん?、とゲルダは首を傾げる。


『まあいいわ。あたしはゲルダ』

『ゲルダ…』


 赤ずきんは首を振る。


『どうしてここに? 魔法があって入ってこられないはずじゃあ』

『あの王女の魔法、昔から不思議とあたしにはあんまり効かないのよね!』

『君も魔法使いなの?』


 ゲルダは首を振る。


『そういうわけじゃないけど。きっと体質的なものなんだわ。そんなことより、あなたに言わなきゃいけないことがあるの』


 赤ずきんは困り、苦笑した。


『ここから出してはくれないの?』


 ゲルダは苦虫を噛み潰したような顔をする。


『ううん…、本当は、今すぐここから出してあげたいけど、そうできない事情があるのよ。あたしにも事情があるの。だから、もう少し待ってちょうだい』


 それからぐっと唇を引き結ぶと、赤ずきんに忠告をした。


『あのね、なにがあっても、しっかり意識を保って欲しいの。あなたはカイじゃないわ! その事をちゃんと自分の心に刻み込まなければいけないの! それから勿論、決して出されたクスリを口にしちゃダメよ』

『君はどうしてそれを教えてくれるの?』

『見過ごせないからよ。あたしはね、カイの幼馴染なの。あの人も、いい加減に理解すべきなんだわ。自分の望んだものは手に入らないって』


 『自分の望んだものは手に入らない』その言葉に赤ずきんはピクリと反応した。


『カイはね、ここの使用人だったらしいの。王女との間になにがあったのかは、詳しくは分からないけど。あの人は、いつまでもいないものに縋っているのよ。』


 ゲルダが皮肉っぽく言う。

 赤ずきんの耳に、ゲルダのものではない、だれかの、声が聞こえた気がした。

 あれは、だれの声だっただろう。


(誇り高くありなさい)


 いつかそう励ましてくれた、あの声は。






 それが数日前のことだった。

 ゲルダは約束した。次に来た時には赤ずきんを脱出させる、と。

 ゲルダの身の安全を心配した赤ずきんに、彼女は苦笑いで告げた。


『あたしには切り札があるからダイジョウブ』


 その切り札がなんなのかを教えることはなかったが、真摯な口調に、赤ずきんもそれを信じた。

 果たして、塔の扉が開閉するかすかな音がした。

 王女のものとはちがう足音に赤ずきんは出迎えにいく。

 ほそい螺旋階段の途中でゲルダと再会した。


「あなたの荷物をすべて持ってきたわ」


 渡された小包の中を確認すると、外套だけではなく、赤ずきんの武器も含まれていた。

 ナイフや拳銃を手早く装備する。


「さあ、行きましょう。王女は少なくとも三時間は帰ってこないはずよ」


 それが終わるとゲルダがすかさず促し、二人は階段を下っていく。

 足音を立てないように、靴裏を擦るようにして移動をする。

 くるくるくるくる。

 急勾配のめまぐるしい階段をひたすら下っていく。

 それは、今の赤ずきんには長く感じるものだった。

 しかし終わりは急にやってきて、二人は扉にたどり着いた。


 ゲルダが扉を開けて外を確認しようとした瞬間、赤ずきんはいやな予感がした。

 咄嗟に、ゲルダの腕をうしろに引っ張る。


「きゃっ」


 ゲルダの体重をもろに受けて、赤ずきんはゲルダ共々うしろに倒れこむ。


 次の瞬間。


 ゲルダが立っていた位置に巨大な氷柱が出現した。

 その衝撃で、蝶番が弾け飛び、扉が倒れる。

 壁の一部も吹き飛んでいる。


「逃げないって約束したわ、カイ」


 光が差し込んだ。

 氷柱の隙間の向こうに、王女の顔が見える。

 その声はどんな感情も感じさせない。


「なんで…?」


 衝撃から立ち直り、ふらふらと立ち上がったゲルダが目を見開く。

 それに対して王女は眉をしかめた。


「いつも、あなたね。自分の行動に自覚がないのかしら」


 それに対して、ゲルダは物怖じをせずに言い返した。


「王女さまこそ、自分の行動を見返すべきだわ。人を誘拐してきて閉じ込めているって、どうなの?」


 その言葉に王女は淡々と返す。


「ちがう。ただカイが帰ってきただけよ」


 ゲルダは悲しげに叫んだ。


「彼はカイじゃないの! 他のだれもカイにはなれないのよ!」


 攻める響きのない、言い聞かせるような言い方だった。

 しかし、その言葉が王女の琴線に触れることはなかったようだ。


「たかだか下女の身分でずいぶんな言いようね」


 切り捨てられてしまった。

 ゲルダは悔しさとも悲しみともつかない顔をした。

 そのゲルダに向けて氷柱が襲いかかる。

 鋭利に尖った氷。

 それでなくとも、重さでゲルダは圧死してしまうだろうと思われた。

 しかし、氷柱がゲルダに触れる直前。


「そこまでだよ」


 赤ずきんの制止の声に、氷柱がピタリと止まる。

 それから空中に分解されて消えた。


「カイ、あなたいつの間に銃の扱いなんて覚えたの」


 回り込んだ赤ずきんが王女のこめかみにリボルバーを突きつけている。

 しかし、王女はそれがまるで気にならないばかりか、赤ずきんが武器を扱っているということの方に気を引かれているらしい。


「おれ達をこのまま行かせてほしい」


 赤ずきんの要求に王女は首を横に振った。


「それはムリよ、カイ。そういえば、もうすでにあなたの国に話はつけたの。今日からあなたはこの国の国民。わたくしの臣下よ」

「うそだ」


 はっきりと切り捨てた赤ずきんに、王女は


「ほんとうよ」


 と返す。

 表情に一切の変化がない。そのせいで赤ずきんには真実か嘘か判別できなかった。


「うそだわ。あなたをここから出さないために、うそをついているのよ。そんな簡単に国籍を変えられるわけないでしょ!」


 ゲルダが迷いなく言い切った。


「時間ならたっぷりあったわ。……ほんと、あなたたち、ずいぶんと仲良くなったのね」


 ふいに、王女がゆったりとした動きで赤ずきんとゲルダを眺め回した。


「いつも、そう」


 それからゆっくりと息をつく。


「ねえ、カイ。ここから出してあげてもいいわ」

「え?」


 突然の変化に、赤ずきんが戸惑う。

 王女がうそを言っているというわけでもなさそうだが、かと言ってそれが赤ずきんにとって好ましいものをもたらすというわけでもなさそうだった。

 いやな感じがする。


「でも、あなただけね。もし、あなたがここを出て行くというのなら、わたくしはそこの下女を処刑するわ。不敬罪に反逆罪。罪なんていくらでもあるのよ」


 そう言って、優雅な手つきでゲルダを指し示した。

 ゲルダの顔がみるみる真っ青になる。

 けれども負けん気がそうさせるのか、その毅然とした態度を崩さず、声を張る。


「それでいいわ! あなたなんかに負けない!」


 いやな沈黙が訪れた。

 赤ずきんは困惑し、尋ねる。


「王女さまは、それでいいの?」

「いいのよ。カイさえいれば、それで」


 その時ふいに、王女は赤ずきんと出会ってから初めてほほえみのようなものを浮かべた。それはほほえみと呼ぶにはあまりにも曖昧なものだったけれど、少なくとも赤ずきんにはそれがほほえみに見えた。


「よくないよ」


 赤ずきんは首を振る。


「おれはカイさんじゃないし、カイさんにもなれない」

「だから、どうだと言うの?」


 王女の長い髪がサラサラ揺れる。


「現実を見つめ続けることだけが、幸せになるための最適解とは限らない。幸せになる夢を捨てて、地獄で人は生きていけないわ」

「ここは地獄じゃないよ」

「そうね。地獄によく似た場所ね。でも、あなたがいれば、わたくしは生きていける」

「……ごめん、ムリだ」


 その理由は聞かれなかった。


「そう」


 再び、氷柱が出現した。


「なら、あの女を殺しましょう。もし阻止したいのなら、わたくしをその銃で殺すといいわ」

「おれは、そうするよ」


 赤ずきんはリボルバーを構え直す。

 ほんの一瞬、もし殺したら師匠は悲しむかな、そんな考えが頭によぎった。


「ええ、いいわ。でもカイも知っているように、わたくしは王女よ。わたくしが死ねば、問題になるわ。すぐに犯人探しが行われるでしょうね。人殺しとして生きて行く覚悟はあるかもしれないけれど、カイは、自分の家族を巻き添えにする覚悟がある?」

「……っ」


 赤ずきんが顔を歪める。

 ブレない銃口とは反対に、冷たい風が吹きすさむ中、いやな汗が背中を伝うのを感じた。


「そうやって躊躇ううちに、わたくしはそこの下女を殺してしまうわ。それでも、抵抗するの? 大人しくすれば、だれも傷つかずに、丸く収まるのに。わたくし、あなたを大切にするのに」

「…………」


 険しい顔をする赤ずきんとは反対に、王女はそのどこまでも透き通った目で赤ずきんを見つめる。


「魔法使いに魔法を使わせたくないなら、脳を破壊することね。さあ、ちゃんと頭を狙うのよ」


 とんとん、と頭を指し示す。

 その挑発に乗るように、赤ずきんは、ぐ、とリボルバーの引き金にかけた指先に力を込め––––––––––––、

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