第35話 白銀を進むソリ
「いやあ、タチアナ。あなたと旅を始めて五十年だが、この土地に連れてきたのは初めてだな」
「なにを言ってるんです。もう、百年以上になるでしょう。白銀の森に来るのも慣れっこですよ」
「おや、そんなに経ったかな」
首を傾げている。
伯爵とタチアナの応酬が繰り広げられている。最初は聞き流していたソルシエールも、あまりの荒唐無稽さに口を挟まずにはいられなくなった。
「ずいぶん長生きなんですね」
「そうだとも! 長寿の生き物に会うのは初めてですかな? 森の魔法使いどの」
「はあ、私の知っている人間ってせいぜい百年ほどしか生きないものですから」
「はは、そうでしたか。なりたいですか、不老長寿?」
「いいえ、特には」
「なんと! 欲のない事だ!」
「……犬ぞりは初めてです。振動が少ないんですね」
そう、十頭もの犬がめまぐるしい速さで脚を動かし、ソリを引いている。ソルシエールは、サン=ジェルマン伯爵とタチアナに挟まれるようにして犬ぞりに座っていた。
タチアナが後ろから顔を覗き込む。
「ちっちゃい。寒くないですか? 抱きしめましょうか?」
「いいえ、だいじょうぶです。結構です。だいじょうぶ」
一晩一緒に過ごしたソルシエールは、タチアナの過剰なスキンシップに悪意はないのだ(おそらく)と理解した。あんまり表情が豊かでないくせに、やたら距離が近い。おそらく文化のちがいだろう、そう納得する。
着込んだ服のせいか、人の間に挟まれているせいかぬくぬくと暖かかった。もちろん、頬に当たる風は凍えるような寒さなのだが、それほど気にならない。それに、振動が心地い。寝ていないのもあって、気を抜くと眠りそうになる。
ソリはまさに白銀の世界を突き進んでいた。
あたり一面雪景色で、目に入る色といえば白のほかには針葉樹の黒に近い緑ばかりだ。空を覆う分厚い雲の合間から時折太陽光が差し込み、その光を受けた箇所が反射できらめいている。
その光景は、どこか原初的な神々しさに溢れていた。
ソリの勢いで風が吹く。その風に巻き上げられて、雪がきらきら舞い上がる。
辺りには当然、だれも、いない。
赤ずきんの捜索のために、まず狩猟会の一団が会いに行ったと思われる、人狼に会いに行くことになったのだ。人狼族は、獣とともに生きる獣人たちの中でも珍しい、狼とともに生きる人々である、いつかそう赤ずきんが説明していた。
そのことを思い出し、ソルシエールは不思議になった。
人狼たちが、この雪しかない場所を棲家としているのが信じられなかった。
これならまだソルシエールが暮らす黒い森の方がマシである。あそこもたしかに針葉樹ばかりで実のなる木が少ない。しかし、低木にはブルーベリーや木苺がなっているし、秋になればきのこも採れる。当然、それに寄ってくる動物は、ここより多いだろう。それに家の近くを流れる小川には魚だっている。
もしこの土地で釣りをしようと思ったのなら、まず川や湖の氷に大きな穴を穿つ必要があるにちがいない。
そんな考え事もつかの間、やがて犬ぞりは木すら生えない開けた場所にやってきた。
「湖ですよ。冬の間は凍りついているんです」
タチアナが耳元でそう教えてくれる。
犬たちは躊躇せずに、まっすぐ走り続けた。
一気に視界が開ける。
「この湖の対岸を人狼族は拠点の一つとしています。冬の間は迂回をする必要がないからラクですね」
「そうなのか!」
心底驚いたように声をあげたのはサン=ジェルマン伯爵である。
彼の記憶力はどうなっているのだろうか。
「ほら、あれです」
タチアナが指差した先は、一見なにもないように見えた。
ソルシエールが目を凝らしてようやく、そこにドーム状になった雪がいくつか散在しているのが分かった。人工物だ。人狼族は雪を棲家として使用しているのだ。数本、細長く煙も立ち上がっている。
「なんだ、ハクシャクじゃないか。なんの用だ?」
到着したソルシエールたちを出迎えたのは人狼族の若い男だった。
顔全体を覆うような大きな帽子をかぶっている。帽子は動物の毛皮でできているのだろう。狼のものかもしれない。二つの耳がぴょこんと付いている。
彼の目は細く、鼻筋がスッとしている。その頬は太陽光の照り返しで焼けるのか、ソルシエールよりよっぽど健康そうな黄金色をしている。そして何より背が高い。
周囲を見回すが、辺りに狼はいないようだった。
「野生の生き物ですから。常に一緒にいるわけではないんですよ。それに、狼がいると犬ぞりは近づきたがらないんです。ちょうどよかった」
タチアナが目ざとく気がついて教えてくれる。
一方、伯爵と人狼族の男は親しげに握手を交わしていた。
「おお、赤子のようだったのに。大きくなったな。青年よ!」
「なに言ってるんだ。去年来たばかりじゃないか」
それから青年は困ったように息を吐いた。
「もうすでにたくさんの客人が来ている。村は小さい。あんまり増えても困る」
「なあに、ジャマにならないようにするとも。第一、われわれはその客人に用があるかもしれないのだ」
「どういうことだ?」
サン=ジェルマン伯爵がソルシエールを紹介してくれる。
「この魔法使いのお嬢さんがね、人を探しに遠路はるばるブランシュ王国からやってきた」
「ブランシュ王国? どこだ?」
地理に明るくないのだろう。
青年は不思議そうな顔をした。
「お嬢さん、紹介するよ。こちらはええと……、」
「ウルバだ。よろしく」
ウルバと名乗った青年がソルシエールに手を差し出す。ソルシエールは彼と握手を交わした。
「慣れていらっしゃるんですね」
「オオカミに惹かれたたまに人間が来たりする。あとは、ハクシャクみたいに変な人間も」
「おやおや。ずいぶんなご挨拶じゃあないか」
ウルバはそれを無視して、ソルシエールに尋ねた。
「だれを探しているんだ?」
「赤ずきんと名乗る十代の少年です。麦色の髪に、青い瞳。白銀の森にいるオオカミとあなた方に会いに行くと言っていました」
しかし、ウルバは首を捻った。
「知らないな」
「では、狩猟会の人間は? 三十代から五十代の六人です。同じくブランシュ王国の人間の」
ウルバは今度は縦に頷いた。
「ああ。どこかで聞いた名前だと思ったら。アルチュールたちの土地の名前だな」
「……! そう、アルチュール。彼がリーダーです」
「そうか。ついてこい」
ウルバはくるりと背を向けると、ドーム型のシェルターに向かって歩き始めた。
「ここにいる」
ソルシエールたちも後についていく。
シェルターの開口部から通路を抜けると、小柄なソルシエールが立ち上がれるぐらい高さのある空間にでた。内部には毛皮が敷き詰められている。保温のためだ。中央には火の跡もある。通気孔もあるのだろう。
そしてぐるりと円を描くようにして座っているのは、明らかにウルバとは肌の色も見た目もちがう六人組の男たちだった。服を着込んでいても、ガタイがいいのが分かる。
彼らが捕らえられているわけではないのは明らかだった。
彼らのいかつい目は一様に、とろんとして、くつろいでいる。酒の香りもする。
しかし、顔を確認するまでもなく、赤ずきんはいなかった。
「おや、ウルバの兄ちゃん。お客人かい?」
一際筋骨隆々のたくましい男が、その野太い声を発した。
アルチュールだ。
ウルバは不満足げに返事をする。
「アルチュールたちに会いに来たそうだ。迷子のお前たちだけでも負担なのに。下手に人を増やされても困る」
「わるいわるい」
謝罪を口にするが、まるで悪いと思っている様子がない。
「でもその分の賃金は払ったじゃないか」
ウルバがチッと舌打ちをする。
「金の問題じゃない。狩りの邪魔だ。ハクシャクと一緒に帰ってくれ」
「ええ、そんなこと言うなよお」
アルチュールがウルバに抱きついて、その頬にキスをする。ウルバはこの世の終わりを見たような顔をすると、アルチュールを突き放し、その手でゴシゴシと頬を拭った。
「アルチュールたち、おかしい。言っていることが支離滅裂だ。だから酒を飲ませていた」
「それは、ほんと……、申し訳ない。あなたたちも人に迷惑かけてなにしているんです」
別にソルシエールの責任ではないが、謝るしかない。
アルチュールたちは、そんなソルシエールに、
「お嬢ちゃん、そりゃないぜ!」
と声を上げるとガハハ、と笑った。
アルチュールが、ふらふらと揺れながらソルシエールに尋ねる。
「それで、魔女の嬢ちゃん。遠路はるばるなんの用だ?」
「お久しぶりですね。赤ずきんを探しに来たんですよ」
赤ずきんを通して、二三度顔を合わせたことぐらいはあるだろうか。
それ以上の関わりはない。
アルチュールはそのゴワゴワの眉をひそめる。
ソルシエールは続ける。その声は巻き込むんじゃねえ、という思いもあって冷えたものになる。
「どうして国に帰らないんです? 行方不明だって村じゃ大騒ぎですよ」
「何言ってるんだい。まだ一ヶ月も経っちゃいない。どうして予定を切り上げて帰らなきゃいけないんだ」
「予定は二週間だったはずでは?」
「あ? そんなわけねえよ」
ソルシエールは息を吐き出した。
「赤ずきんはどこです?」
アルチュールはその言葉に怪訝そうな顔をした。
「あのな、さっきからな。だれのことだ?」
まるでソルシエールがおかしな事を言っているかのようだ。
「……冗談はやめてください。メジーさんが心配しているんだ。私は彼を国に連れ帰らなきゃいけない」
「そっちこそ変なこと言うなよ。だれのことだか、知らねえけど、そんなやつここにはいねえよ」
「……」
「ほうほう。これはおかしなことだなあ」
割って入ってきたサン=ジェルマン伯爵が楽しそうに笑う。
この奇妙なシチュエーションにおかしみを感じているらしい。
「お嬢さん。探し人をこの人らは知っているはずではなかったのかね」
「ええぇ、そう言われてもなあ。知らねえモンは知らねえんだって」
そう言って頭を掻くアルチュールには嘘を言っている様子がない。
ウルバが告げる。
「用は済んだか? これから猟なんだ。家族に肉を持って帰らなければいけない」
「困る」
ソルシエールは思わず声を低くさせた。
ウルバがすぐさま眼光鋭くソルシエールを睨みつけた。
「なんだと?」
「すみずみまで確認させて欲しい」
ウルバは鼻を鳴らす。
「すべてのイグルーを案内しろと? 俺たちが拐かしたとでも言うのか? それともそれは踏み荒らす口実なのか?」
「ちがうとも、ウルバ少年よ」
ちちち、とサン・ジェルマン伯爵が口を挟んだ。
「この魔女さんは真摯な心で人探しをしているのだよ。決してこの土地や君たちのテレトリーを踏み荒らそうとしているのではない。猟のジャマもしない。ここに連れてきた人間として、それは保証しよう」
「……アルチュールたちはここに来た時から六人だった。人数は変わっていない。大切なら、なぜ手を離す。人狼は子供をみんなで守るぞ」
後半の言葉はソルシエールをせめる響きを持っていた。
ソルシエールは喉の奥にざりざりとした熱いものを感じつつ、声を絞り出す。
「赤ずきんは幼児じゃない。人狼だって子供がかわいいからと檻の中に閉じ込めないでしょう」
「それもそうだな」
あっさり頷くと、ウルバは続けた。
「ここは我々の縄張りであり、狩場でもある。見回りは毎日している。ここ数ヶ月、アルチュール以外の人間は見ていない」
「では、ここに来る前に消失したのかな」
サン=ジェルマン伯爵の言葉に、ウルバは首を傾げた。
「ここに来る人間といえば、氷使いの魔女くらいなものだ。あの魔女はすごいな。森で見かけたことがあるが、あんな魔法、村のだれも使えない」
「それは、困ったことになりましたね」
事態を見守っていたタチアナが平坦な感情の籠らない声で言う。
ソルシエールは振り返った。
「どういうことです?」
タチアナの視線は地に向けられ、そのせいで長い睫毛が頬に影を落としている。ふわりとそれが持ち上がると、大きな瞳がソルシエールを見た。
そして薄い唇が、言葉を紡いだ。
「簡単な話ですよ。魔女さん。この国の氷使いの魔女と言ったら、王女のことです」
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