第3話 下の名前で呼ぶなんて恥ずかしぃ〜っデレデレ

 彼女が出来た余韻に浸る間もなく——


「遅刻ね……でもズル休みはダメよ。とにかく学校へ行きましょう」


 ……なんか色々釈然としないけど、とりあえず俺たちは学校へ行くことにした。俺にとっては本日2度目の登校だ。


『お前が来なけりゃ、遅刻すらしてねーよ』って突っ込みたかったけど……コテンパンに言い負かされる未来しか見えなかったから、やめておいた。

 

 まあ……今からなら、ゆっくり歩いても2限目には間に合うだろう。


 ちなみに綾辻あやつじのキャリーバッグの中身は、学校の用意やら、着替えやら、日用品やらが、たっぷりと詰まっていた。

 本気で俺ん家に住むつもりみたいだけど、あいつの家の方は大丈夫なのだろうか。

 まさか……本当に家出じゃないだろうな?


 学校へ行く道すがら、その事についても聞いてみようと思っていたけれど。


「ねえ弘臣ひろおみ


 綾辻が発した言葉で。


「私のことも、里依紗りいさって呼んでほしいわ」


 そんな事、すっかり吹っ飛んでしまった。


「い……いきなりですか」

「あなたも学習能力がないわね、恋はいつも突然に始まるのよ……つまり、恋人同士に起こる定番イベント、『下の名前で呼ぶなんて恥ずかしぃ〜っデレデレ』イベントも突然にはじまるのよ」


 もの凄い、こじ付け感だ。

 それにイベント名が酷い。


「さあ、呼んでみて」

 

 綾辻は、持っていた鞄をその場に落とし、右手は俺の左手と指を絡ませ、左手は俺にあごクイをし、下の名前呼びを促した。

 

 ……ただでさえはじめての名前呼びに緊張している俺に、綾辻は追加でドキドキを与えてきた。


「どうしたの……弘臣?」

「……り、りりりりいぃさぁ」


 ……当然のように俺は、声が上ずったうえに……噛みまくった。

 そんな俺に綾辻は、絶対零度の視線を向けた。


「使えない男ね……彼女の名前すらマトモに呼べないなんて」

「い、いやだって、だから、いきないりだしっ!」

「学習能力のない男ね……恋はいつも突然……以下略よ」


 ……会話の中で以下略なんて初めて使われた。


「さあ、呼んでみて」


 綾辻は、顎クイしている手の親指で、俺の唇を軽くなぞった。


「ひぃっ……!」

「情けない声ださないでよ」


 妖艶な瞳で俺を見るめる綾辻。


 女の子に顎クイされて、唇を指でなぞられたのなんて、生まれて初めてだ。

 ……これは何と言うか、凄くゾクゾクする。


「……里依紗りいさ


 今度はうまく呼べた。


「学校でもそう呼んでね……弘臣」


 なんとか及第点はいただけたが、学校でも名前呼びしなければならないのは、少し気が重い。


 なんてったって俺たちは昨日まで、まともに言葉すら交わした事がなかったのだから。



 *



 ——俺たちが学校に着くと、丁度1限目の終了を知らせるチャイムが鳴っていた。


「なあ、綾辻」

「里依紗よ……」

「…………」

「なあ……里依紗」

「何? 弘臣」

「お前先に行ってくれよ、俺は2限目の頃合いを見計らって行くからさ」

「何故そんなまどろっこしい事をするのかしら?」

「え……だって、遅刻してるのに一緒に行ったらさ……なんか変に勘ぐられるかもしれないじゃん」

「あら……随分自意識過剰なのね……誰もあなたの事なんて気にもとめていないわよ」


 ……自意識過剰って。


 確かに俺は、クラスではモブ男で、誰からも気にされていないかもしれないけど……遅刻して綾辻と一緒に登校してきたら、流石にそんな俺でも、それなりに目立っちゃうだろう。


「さあ、行くわよ」


 とりあえず綾辻に言われるままに、一緒に教室に向かった。


「おはよう綾辻さん、どうしたの遅刻なんて珍しい」

「あっ、綾辻、おはよう!」

「綾辻さん、先生が心配してたよ」

「綾辻、ノートとっておいたよ」


「…………」


 綾辻の周りには、あっという間に人の輪ができた。

 

 だけど、綾辻の言った通り、俺には誰も見向きもしなかった。


 ……ただ1人を除いて。


「おはよう、おみくん」

「ああ、おはよう沙耶さや


 彼女は広瀬ひろせ 沙耶さや

 俺の幼馴染だ。


 綾辻に負けず劣らず、可愛くて、男子からの人気も高い。

 それなのに、俺なんかを気にかけてくれる奇特なやつだ。


「どうしたの? 遅刻なんて珍しい……何かあったの?」


 何かあったか……あったと言うよりは……何かあり過ぎた。


「まあ……ちょっとな」

「ちょっとなって何よ、話してみなさいよ」


 話してみなさいよって言われても……まさか綾辻に告られて、付き合うことになって、同棲することになったなんて言っても、信じてもらえないよな。


「……通学路で告られたんだよ」

「え……」


 とりあえず誰かは伏せたけど、告られたこと自体は話してみた。


「あははは、またまたぁ〜冗談がうまくなったね、臣くん」


 だけど、案の定、信じてもらえなかった。

 まあ普通そうだよね。


「あはは……」


 だけど俺が苦笑いを浮かべていると。


「あれ……まさか……本当なの?」

「ま……まあ」

「誰っ! 誰なのっ!? 私の知ってる子!?」


 何かを察したのか、沙耶は俺の胸ぐらを掴み、詰め寄ってきた。


「沙耶っ、苦しい! 苦しいって」


 そして、この俺たちのやりとりに。


「本当よ……だってそれは、私だもの——広瀬さん」


 綾辻が参戦してきた。

 

 過ぎ去った日々はもう、2度と戻ることはない。昨日までの平穏な日々は、今、この時をもって——失われた。

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