魚寺を越えて

 三月、大学の古ぼけた研究室はまだ寒かった。

 顕微鏡に目を落としていたところ、教授が声をかけてきたので、私は回転いすを時計回りに動かして、立っている中年男性を見上げた。


「楽しみにしていたが急な用件で行けなくなったので、君が代わりにどうかね?」

 映画のチケットを手渡しながら、教授が私に言った。


 丘の上にある大学を西に行くと港があり、その近くに、チケットが使える映画館はあった。

 その映画館は、日本人になじみのない国の映画を流すことで、知られていた。


 バスならば、大学前からだと十二駅あるので、なかなかの距離である。

 前にもらった時は下宿先の隣人にあげてしまったが、今回は自分で使うことにした。

 そして、いつ行こうかと手帳をめくったとき、私はあることに気がついた。

 この一年間、丘の上にある大学と中腹にあるアパート、そして丘の下にあるショッピングモールを行ったり来たりするだけで、丘の周辺からまったく出ていなかった。

 長期連休中も、大学で蟹の神経細胞の研究をするか、ショッピングモールでアルバイトをして過ごしていた。


 翌日、研究室を出て、大学前からバスに乗った。

 丘をりて行くと、右手に自分の下宿先が見え、くだり終えたところで、左手にショッピングモールが現れた。

 大きな川沿いの道をバスは真直ぐに進んで行った。

 途中で、いまの下宿先を紹介してくれた不動産屋が目に入ったが、知らない間に看板が新しいものになっていた。


 バスが橋を渡ると、右手にレンタルビデオ店が見えたのだが、ここまでは、たまに来ていた。

 ここから先が、一年ぶりであった。



 魚寺というバス停から、のぼりの坂道に差しかかった。

 たまに通っていたタバコ屋は廃業していたが、一年前より更に汚くなっていた洋傘屋は、まだがんばっているようだった。


 バスから見える、一年ぶりの景色があまり変わっていないなと思った瞬間、私の脳内に、ふしぎな映像が浮かんだ。



 私の行く先には、何もない暗黒の空間が広がっており、私が近づくにつれ、デジタルの欠片たちが降り注ぎ、私に違和感をおぼえさせない風景を生み出していく。

 一年前とまったく同じ景色にすることもできるのだが、私に不信感を抱かさせないように、ところどころ変えながら・・・・・・。


 同時に私の後ろでは、デジタルの欠片たちが桜の花の散るように、パラパラと崩れ落ちていき、私が遠のくにつれ、何もない暗闇に変じていく・・・・・・。


 実際に、世界が私の想像したとおりであろうとも、そうでなかろうとも、あまりちがいはないのではないか。

 日の光が心地よいバスの内で、私はそう考えた。

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