短編集「ジンベイザメ」

青切

ジンベイザメ

 嫌がる恋人を連れて、私は近所の水族館に出かけた。

 ひとつひとつの水槽を、時間をかけて、ながめる私。

 一瞥いちべつしただけで、次に進もうとする恋人。

 彼女が服の袖を引っ張っても、私はなかなか動かなかった。


 その水族館で一番おおきな水槽は出口付近にあった。

 高さは八メートルを超え、さまざまな魚が泳いでいた。

 しかし、来館者たちの視線は、その水槽の主に集中していた。

 ジンベイザメに。


 私も彼のゆっくりとした泳ぎに合わせて、少しずつ首を動かしつづけた。

 優雅という言葉は彼のためにあるのだろう。

 恋人が何かを言ったり、私の腕をつかんだりしたが、私は適当に相手をして、ジンベイザメの様子を振り出しに、抽象的な事柄について、あれこれと考えた。


 やがて私が満ち足りた気持ちになり、我に返ると、恋人の姿が見あたらなかった。

 怒って帰ってしまったのだろうと思い、水族館を出て、駐車場に向かった。


 しかし、そこにも恋人はいなかった。

 携帯電話を見たが、彼女からの着信はなかった。

 着信がなかったどころか、彼女のアドレスが携帯電話から消えていた。


 これはどういうことだろうと思った瞬間、私は、自分が彼女のなまえを忘れてしまっていることに気がついた。

 顔もあやふやにしか思い出せなくなっていた。

 髪は短かったか、長かったか。

 目は一重だったか、二重だったか。

 眼鏡はしていたか、していなかったか。

 今日、どんな服を着ていたか。


 私は自分を落ち着かせるために車へ乗り、ドアを閉めた。

 すると私は、恋人と水族館に来たということ以外の、彼女に関する全ての記憶が、どこか遠くへ行ってしまったことを自覚した。



 自宅に戻ったが、彼女と結びつくような物は何もなかった。

 キッチンの壁に、いつ誰が描いたのか分からない、蟹の落書きは見つけたが。

 友人や知人に話をしても、みな何も知らなかった。



 三年後、私は職を変え、ベトナムに赴任することになった。

 今の街には、就職のために住みついたので、おそらく、この土地に戻ることはないだろう。

 くだんの水族館には、恋人がいなくなってから行っていなかったが、気持ちの整理をつけるため、日本を離れる前日に訪れることにした。



 ベトナムへ一緒に行く妻には何も言わず、一人で家を出た。



 私は受付で入場券を渡すと、目的の場所を目指して、すたすたと進んでいった。

 そして、出口付近の水槽を見上げたが、例のジンベイザメはいなかった。


 隣にいた若い男女の話をまとめると、次のようなことがあったらしい。

 一月前にジンベイザメは急死したとのこと。

 原因は不明とのこと。

 胃の中から、若い女のものと思われる白骨が出てきたとのこと。

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