不十分言語

 夢と現実の狭間のような気分の中――僕はゆっくりと目を覚ました。

 カーテンが朝を堰き止めているおかげで室内はまだ薄暗く今日という日を迎えていない。そんな朝。

 布団から一歩でも外に出れば冷たい空気が飴に群がるアリのように肌を包み込む。その分布団の中は春先の太陽のように心地よい温かさだった。今日はそんな朝。

 僕は朝が好きだ。夢見心地の中でウトウトと悩みも不安も忘れただ睡眠の心地よさだけを感じている時間はまさに天にも昇るような気持ち。空腹の時に食べる好物の最初の一口目をずっと感じているように幸せだけが僕を満たしている。そんな気分。

 暖かな光に包まれながらふわふわの雲に寝そべっているような気持ちのまま僕は寝返りを打ち横を向いた。

 そこにはただでさえ良い朝を更に良く――最高なものにする光景があった。子守歌のように心地好い寝息を立てまるでこの世の善部分しか知らないような澄み切った寝顔。

 それは僕の愛しの女性。これまでもそしてこれからも女性。

 誰かが言っていた。人は恋をすると世界がカラフルに見える――と。青い海や空はより一層美しい僕の知らない未知の青色に見え、道沿いに生える木々はその一本一本が満開の桜のように心揺さぶる。あの時、まるで初めて色というモノを見たかのように僕は世界の美しさに触れた。

 きっと初めて外に出たメアリーもこのような気持ちだったに違いない。知っていたが初めて見るカラフルな世界に心を躍らせたはずだ。

 だけどそんなメアリーと僕とには違いが一つある。メアリーにとっては色鮮やかなモノ全てが美しく見えただろうが、僕にとってそんな中でも一際輝いていたのは――もちろん彼女だ。

 出会ってから、交際し始めてから、互いに愛を誓い合ってから一体どれくらいの時間が過ぎたのだろうか? いや、それは大したことではない――少なくとも今は。

 僕は毎朝このカラフルな世界で起き夢と現実が同時に存在する時間に身を委ねる。そして隣でまだ眠る彼女を眺める。初恋のように純粋で甘く、初めて君に恋した時と同じ気持ちを胸に抱きながら。

 まるで差し出すみたいに僕との間に置かれた彼女の手へ、自分の手を伸ばすと下へ潜り込ませた。並々と液体の注がれたお椀を運ぶようにそっと。だがそれは握るというにはあまりにも優しすぎて触れるというにはしっかりと包み込んでいた。彼女の手から伝わる柔らかく温かな感覚。

 僕はそれを感じながらもう片方の手を彼女の頬へ伸ばした。そして起こさぬよう気を付けながら滑らかな肌へ触れる。肌と肌が触れ合うと彼女はむずがゆそうに顔を動かし唸るような声を出した(その仕草や声が愛らしいということはもはや言うまでもない)。

 その反応に起こしてしまうのではと思い一度手を離したが、依然スヤスヤと気持ちよさそうな寝顔に心の中でホッと安堵のため息を零す。

 そしてもう一度手を下ろした。これまで何度触れたか分からないが、何度でも撫でたくなる。そんな魅力を秘めた頬。顔を合わせる度に思わず手が伸びてしまう。特に朝は。

 少しの間、そんな頬を撫でていると彼女の手が僕の手を軽く握り締めた。まるで赤ん坊が指を握るように優しく。そして頬を撫でる手の上に十分温められた手が乗せられた(これは頬と手の幸福サンドと名付けよう)。


「んー。――なに?」


 目は瞑ったまま儚く眠たそうな声が静かに響く。


「ごめん。起こしちゃったね」

「ぅん。いいよ」


 その唸るような声はまだ眠たそうだった。だけど開いた寝惚け眼で微笑むその表情は額縁で飾りたい程に愛らしい。


「なーにニヤけてるの?」


 無意識のうちにそんな表情になってたのか。彼女の幸せサンドの手は僕の手から離れるとそのまま僕の顔へ伸びてきた。そして撫でるように頬を軽く摘む。


「君が可愛かったから――つい」

「ふーん」


 まんざらでもないと言うように鼻を鳴らした。


「愛してる」


 それはそんな彼女を見ていると自然に出てきた言葉。息をするように自然と。


「――私も」


 摘むようにしていた彼女の手は言葉と共に優しく僕の頬を撫でる。

 僕は彼女に対しては想ったことを出来るだけ口にするようにしてる(もちろん全てではないが)。だけど最近、不安というか――どれだけ想いを忠実に伝えられてるんだろうって思うことがある。

 残念と言うべきか幸いにもと言うべきか人間にはテレパシーがない。だから僕は彼女の、彼女は僕の心を聞くことはできない。それはつまり僕の気持ちをそっくりそのまま百%完璧に伝えることは不可能ということ。しかも厄介なことに人は嘘をつく。口を噤むだけではなく平然と(上手い下手は個人差があるが)心にない事を言ってのける。

 だから他人の心を知ることは出来ない。ということは言葉となった僕の気持ちが彼女に届くころにはどれ程か小さくなっている可能性は十分にあるということ。

 言葉にしないと伝わらないが言葉にしたところで完璧には伝わらない。言葉は意味以上を伝えられないんだ。感情量と言うのか、深さと言うのか、温度と言うのかは分からないけど言葉では(どの言語を用いても)伝えられない部分がそこには存在する。気持ちはあれどそれを伝えるには言葉では足りない(何てもどかしいんだ)。

 それどころか時には言葉に込めた意味さえも届かない場合がある。全く逆の意味として受け取られてしまう場合が。自分は相手の好きな物を好意と共に送ったつもりだが相手に届いたのはその人の好まない物(そこから感じられるのは当然悪意だ)。

 そんなことが言語を用いても起こり得る。

 そう考えると僕ら人間が高度なコミュニケーションを取る為に使ってる言語も思った以上に伝わらないのかもしれない。

 でもとりあえず今回は、というか僕から彼女へ送る愛を込めた言葉に関してはその心配(逆の意味で届く心配)はないだろう。

 だけどやっぱりこの十分とはいえない言語でどれだけ僕の気持ちが伝わっているのかは疑問でありどこか不安さえ感じる。『愛してる』その一言にどれだけ僕の気持ちが詰め込まれているのだろうか? マリアナ海溝チャレンジャー海淵よりも深いこの愛情はどれだけ伝わっているのだろう。もしかしたら彼女にとってはサウスサンドウィッチ海溝やもっと浅い海溝だったかもしれない(もちろんどの海溝かは重要じゃない。重要なのはちゃんと正確に伝わっているかどうか)。

 僕は、僕にとって彼女が世界中のどのモデルや女優より美しくて素敵に見えているのかを伝えたい。このはち切れんばかりの――この言葉なんて器に、ましてや『愛してる』なんて一言に収まり切らないこの愛を一滴残らず砂漠のように乾き切るまで伝えたい。

 だけどそれを伝える術を僕は持っていない。言葉じゃあまりにも足りなさ過ぎるから。

 彼女の滑らかな肌に触れた時の感触も。彼女を抱きしめた時の温もりも。寝顔や寝起きの可愛さだって完璧には伝えられない。

 もしかしたら一割も伝わってない可能性だってある。

 実は人間という生物は思った以上に意志疎通の出来ない生き物なのかも。ただ(意思疎通が)出来てる気になってるだけ。未完成の言語を扱い広く、だが浅い意思疎通をしているに過ぎないのかもしれない。

 だとしたらなんと愚かなんだろうか? だとしたら言わなくても分かるとはとんでもない理想論なのかもしれない。言っても伝わるとは限らないのに言わずしてどうやって伝えると言うのだろう? そんなのはテレパシーを持っていないと無理だ。

 だから僕は知りたい。この溢れんばかりの想いを一番君に伝えれる言葉を、方法を、僕は知りたい。宇宙の始まりがどうだったかよりも。宇宙の果てやブラックホールがどうなっているのかよりも。ワンピースが何なのかよりも。人体の謎に対する答えよりも。僕はそれが知りたい。


「何難しい顔してるの?」


 すると彼女は僕の頬を撫でながら少し眠気の覚めた声で尋ねてきた。


「いや、ただ。ふと僕の気持ちってどれくらい君に伝わってるんだろうって思って」

「何それ」


 ふふっ、と彼女は静かな朝に合った声で笑った。


「私にはちゃんと伝わってない?」

「多分」

「――でもそれでもいいじゃない?」

「どうして?」


 僕は首を傾げた(横になっていた所為であまり傾かなかったが)。


「だって一言で全部伝わったらつまんないじゃん。もしかしたらその一言で満足して何度も言葉を口にするってことが無くなるかもしれないし。それにそんな世界になったら今この世界に存在する沢山の不足を補う為の比喩表現とかが無くなっちゃうかもしれないよ?」

「でもやっぱり君への想いは全部伝えたいじゃん」


 彼女は少しだけ(考えに集中したからだろう)視線を他所にやった。そして最後はまた恍惚とする程に綺麗な瞳を僕へ向けた。


「じゃあ、その伝わる世界では出来なくてこの伝わらない世界では出来る伝え方ってなーんだ?」


 伝わらないから出来る伝え方? 突然の問題に僕はまだ回転が鈍い頭を動かす。だが少し黙って考えてみてもこれといった答えは思い浮かばなかった。


「さっき言ってた比喩とかそういうこと?」

「間違いではないけどそれじゃあ部分点しかあげられないかなぁ」

「じゃあ何?」

「正解は――伝えようと努めること。君がその言葉だけじゃ足りないって感じて私を抱きしめてみたり、私の頬に触れてみたり、何度も言葉を繰り返したり。そういう何とかして足りない分を補おうとしたり、消化し切れないもどかしさを絞り出そうとするのってそれだけでその人の気持ちが伝わらない? どうやったら伝わるか考えて工夫して。その姿勢がすでに伝えてるよね。もちろん君の求める完璧ではないけど」


 確かに言われてみればそうなのかもしれない。伝わらないからこそどう伝えるかを考える。時間を使って(言ってしまえば人生を、寿命を削って)。もし言葉で全てを伝えられたらそれらは無くなってしまうはず。

 僕は言葉ばかりに気を取られていたけど実際、想いを伝えるのは言葉だけじゃないのかもしれない。言葉が不十分だからこそそこが意味を成してくる。

 不十分言語なんて偉そうに言ったけどむしろ不十分だからこそいいのかもしれない。それで完成とまではいかなくとも十分なのかもしれない。

 不十分で十分。言葉にしてみれば矛盾しよく意味は分からないが何故かしっくりくる。


「だから今度はもっとこう――ロマンチックな比喩表現を交えて伝えて欲しいかなー。ほら君ってそういうの苦手だし」

「苦手なのにさせるの?」

「たまにはそういうのもいいでしょ?」


 彼女はそう言うと体を起こし大きく伸びをした。

 頬に残る手の感触を感じながらその姿を眺める。その姿はまるで……。まるで……。ロマンチックな比喩表現って何だろう?


「それじゃ朝ご飯食べようか。先に行ってるよ」


 僕の方へ上半身を向けた彼女は言葉の後に顔を近づけてきた。


「愛してるよ」


 そう不十分言語を口にするとそれを補うかのように頬へ優しい口づけをした。そして頬をぽんぽんと叩きそのまま部屋を出て行った。


「僕も愛してる。――朝の夢見心地でぼやけた頭でさえハッキリと分かるほどに」


 やっぱダメだ、静まり返った部屋にはぼそりとした声だけが響いた。

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