急性受愛欠如症

 ここ最近、心が満たされないというか何事にも身が入らなくてずっとどこか上の空。心ここに有らず。何をしても面白くないし毎日が面倒だ。起きるのも寝るのもご飯を食べるのも何かを考えるのも、全部――面倒。それに段々と世界から色が消えていってる気もする。

 もしかしてなのかもしれない。

 そう思い会社に相談すると病院へ行く日を貰った。

 そして私は今日、都内の病院に来ていた。


「西崎さーん。西崎 優菜さーん」


 看護師に呼ばれた私は重い足取りで診察室に入った。ドアを閉めると眼鏡をかけた若い医者の前にある椅子に腰を下ろす。医者は事前に記入したデータをタブレットで読んでいた。


「最近、やる気が出なくて心が満たされないとのことですがいつ頃からでしょうか?」

「二~三週間前だったと思います」


 小さく今にも消えそうな私の声が答える。

 それは自分で自分の声を聞きながらなんとも弱々しい声かと思ってしまうほどだ。


「今はお一人で住まれてますか? それともご家族や恋人さんとでしょうか?」

「一人ですね。一ヶ月ほど前に別れちゃったので恋人もいません」

「その恋人さんとはどれほどお付き合いしていましたか?」

「確か、一~二年ぐらいだったと思います」

「なるほど……。ちなみにペットなどは飼われていますか?」

「いいえ。うちはペット禁止なので」

「お友達とは最近、遊ばれましたか?」

「最近は全然。みんな忙しくて中々時間が合わなくて」

「分かりました」


 医者は問答する度にタブレットに記入しながら頷いていた。

 そして最後に何かを書き終えるとペンを置いて体ごと私の方へ向いた。


「恐らく、受愛欠如症じゅあいけつじょしょうだと思われますので、点滴をしましょうか。今日はお時間の方は?」

「大丈夫です」

「でしたら……。三十分でもいいと思うのですがお時間があるということでしたら一時間程度した方が良いと思います。どうしましょうか?」

「一時間の方がよくなるんですか?」

「そうですね。西崎さんは、急性受愛欠如症だと思われますので一時間かけてじっくりと愛を点滴していただくといつも通りに戻ると思いますよ」

「じゃあ一時間で」

「分かりました」


 医者はタブレットに色々と記入した後、私の方に差し出してきた。


「こちらは愛点滴を受けることへの同意書ですのでこちら方にお名前をフルネームでご記入ください」

「はい」


 医者が手で教えてくれた場所にペンを走らせる。書き終えるとタブレットを返した。医者はチェックをさっと行うとそのタブレットはデスクに置いた。


「新垣さーん!」


 その声に呼ばれ若い看護師が奥からやってきた。


「愛点滴一時間ね。よろしく」

「分かりました」

「では西崎さん。あとは彼女が引き継ぎますので別室へどうぞ」

「はい。ありがとうございます」


 立ち上がり一礼をした私は看護師に連れられ個室に向かった。中に入ると心地よい温度設定でそこには二用ソファと一人用ソファ、ベッドに畳、ソファクッションなどが置かれていた。


「お荷物はこちらのカゴにどうぞ。すぐに準備いたしますのでその間にお好きな場所を選んでいてくださいね」

「はい」


 看護師はそう言うと部屋を出て行った。

 一人残された私はカゴに持っていた荷物を入れどれにしようかざっと部屋を見渡す。正直、どれでも良かった。だから一番最初に目に止まったソファクッションに腰を下ろした。

 それから少しして先ほどの看護師がハート型に赤い液体が入った輸液容器の点滴を持って戻ってきた。それを私の側に設置する。


「何かお好きな背景などありますか? 森だとか砂浜だとか海だとか川だとか」

「それじゃ、森で」


 どれでもいい。


「はい。少々お待ちくださいね」


 点滴を準備し終えた看護師は部屋の入り口に行き壁に設置されていた操作パネルをいじり始める。すると壁一面三百六十度全部が森に変わり、どこからか小鳥の囀りや木々が風に揺れる音が聞こえてきた。それはまるで本当に森の中にいるようだった。その瞬間、どうでもいいという気持ちに埋もれた驚きが一瞬だけ顔を見せるがすぐに消えていく。

 その間に看護師は点滴と一緒に持ってきていた箱を私の近くで開け中身が見えるように傾けた。


「もし音楽が聴きたくなったらこちらをお使いください。邦楽から洋楽、環境音などありとあらゆる音楽を取り揃えています。お気づきだと思いますが既に景色に合わせた音がありますのでそれをお楽しみいただいても構いません。それと動画サイトや映画、ドラマなどもありますのでお好きなのをお選びください。ただし点滴終了と同時に終わってしまいますのでご注意を。それとイヤホンとヘッドホンの有線とワイヤレスをそれぞれご用意してますのでお好きなのをどうぞ。もしスピーカーでお聞きになりたい場合は直接流すもしくはBluetoothで室内に設置されたスピーカーと繋げますのでお好きなのをどうぞ。この部屋完全防音になっておりますのでその辺りはご安心ください」


 看護師は説明し忘れたことがないか考えていたのか一瞬止まった。

 だけどすぐに笑みを浮かべ話を始める。


「何かお飲み物は飲まれますか?」

「いえ、大丈夫です」

「わかりました。あちらの冷蔵庫に水とお茶などが入っていますので喉が渇きましたらどうぞ。ですがアルコール類がないのと二本目から料金がかかりますのでそちらはお気を付けください。では早速、点滴の方を始めさせていただきます」


 その言葉に私は腕を差し出した。少しして看護師の声と共にチクッとした痛みが一瞬だけ腕から伝わった。今の私からすれば取るに足らないどうでもいい程度の感覚。

 そして看護師は点滴をチェックすると立ち上がった。


「それではリラックスしてお過ごしくださいね」


 そして一度頭を下げると静かに部屋を出て行った。

 静まり返った部屋の中、点滴筒にぽた、ぽた、ぽた、と一定のリズムで落ちる愛はチューブを通り私の腕に流れていく。それをただぼーっと十分ほど眺めていた。

 そしてその後はヘッドホンに手を伸ばし音楽を聞き始めた。ロックやポップス、ヒップホップやレゲェなどありとあらゆるジャンルを聞きながら点滴筒をただぼーっと眺める。その間は何かを考える気にもなれなくて仕事で疲れ切った夜みたいにひたすらぼーっとしてるだけ。こんなの本当に意味があるのかなんて疑問もたまに浮かんだがすぐに消えた。

 だけど二十分程経ったぐらいから変化を感じた。それはロウソクに火が灯るように微かだけど幸福感が胸の中に滲み出してきた気がした。

 それから更に約二十分後。温かな光に、例えるなら神様の光に包まれたような心地よい気持ちをぽかぽかと感じ始めた。

 そして一時間後……。ノックのあとにドアが開き看護師さんが部屋へ入ってきた。


「ご気分はどうですか?」


 私と目が合った看護師さんはニコやかな笑みを浮かべそう訊きながら近くまで足を進めてきた。


「はい。とってもいいです」


 それはスッキリと目覚めた朝のように清々しくて、心から愛し合う人へ向けられるような深い愛情に満たされ、心の奥底から幸せが込み上げてくる感覚。一時間前のどんよりした重い雲のような気分が嘘のように今は最高に晴れやかな気分だった。全てか上手くいくと心から信じられる希望に満ち溢れた気分。


「良かったですね。顔色も随分と良くなられましたよ」

「そうですか? ありがとうございます」

「それでは点滴の方外させていただきますね」


 看護師さんはそう言うと私の腕に手を伸ばし針を抜いた。そして輸液容器を点滴スタンドから外したりとしている間に私は立ち上がり最高の気分で気持ちのいい伸びをする。

 それから看護師さんの指示で部屋を出て、支払いなどを済ませると病院を出た。


『さぁて。明日も仕事だけど頑張っていこう!』


 そんな前向きなことを考えながら帰路についた。

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