あなたの名前(僕たちの名前)

 ヤマトがいなくなったところで、既に家に帰っているリンの生活に何の支障も出るはずがなかった。

 イリスという同居人が一人増えたが、家事全般を手伝ってくれているのでクズリは助かっている。リンは家事をしないので特に関係はないが、クズリがこれでさらに研究に没頭しそうで少し心配だった。

「リンちゃん、ずっと元気ないみたいだけど大丈夫?」

 ヤマトが姿を消して一週間程経った日の朝、朝食を用意したイリスがリンの顔を見てそう言った。

「そんなことないわよ」

「嘘はよくないわね。前と違って覇気が全くなくなってる」

「そりゃ、ずっと家に引きこもってったら覇気もなくなるわよ。そろそろ魔物の討伐依頼でも受けるとするわ」

「私が言いたいのは、そういうことじゃないんだけどな」

 困ったように笑いながら、イリスは呟く。

「ヤマト君がいなくなってからよ。リンちゃんの様子が変になったの」

「ばっ! 馬鹿言わないでよ! あんな奴が一人や二人いなくなってもあたしには何の関係もないって!」

「ほら」

 頬を緩ませ、イリスが指を差す。

「ヤマト君の話題が出た途端、元に戻ったじゃない」

「それは――」

 よくわからない。ヤマトと一緒にいた頃のリンは、常に勝手なヤマトの相手をして怒鳴り散らしていた。だから、今のリンは元に戻っただけなのではないか。

 しかし、それにしても以前より覇気を失っている。

「でも――アイツは自分でこの国を出るって出ていったじゃない。あたし達が気にする義理はないし、追いかけていっても迷惑なだけでしょ」

「ヤマト君の様子が変だったことは気にならない?」

 そう――それがずっと気がかりだった。リンはイリスに言われて漸くこの疑問に向き合った。今まではヤマトのことを考えないように努めていたので、頭の奥に押し込めていたのだ。

「うん――確かに」

 リンもイリスも、ヤマトのことを何も知らない。

 気になるのはあの少年だ。ヤマトのことを『お兄ちゃん』と呼び、助けを求めた。これに対してヤマトは自分には家族はいないと答えている。

「アイツが表情を変えたのは、あの子が自分を『ゼロニゴウ』って呼んだ時だった」

 ここまで二人で話し、少年に話題が及ぶとリンはそう言った。イリスはリンがちゃんとヤマトのことを見ているのだと感心する。

「『ゼロニゴウ』――『02号』ってことかしら。自分を番号で呼ぶってことはあの子は奴隷――?」

「いつの時代の話よそれ。今の時代奴隷なんていないわよ」

リンが言うとイリスは時代は変わるものね――と呟いた。見た目が子供なのでどうもちぐはぐだが、リンはもう慣れていた。

 玄関の呼び鈴が鳴る。クズリはさっきまで起きていたが、徹夜したから疲れたと言って寝てしまった。

 リンは仕方なくまだ食べかけの朝食を置いて玄関に向かった。

 ドアを開けると、小柄な黒いスーツを着た男が立っていた。

「クズリはいるか?」

 横柄な口振りだったのでリンはむっとして訊き返す。

「アンタ誰よ。パパに何の用?」

「お前、クズリの娘だな。子供は知らなくていいことだ。さっさとクズリを出せ」

「パパは今寝てるわ。用があるならまた今度にして」

 ドアを閉めようとすると、男は隙間に足を滑り込ませてそれを阻止した。

「叩き起こしてこい。今日こそ話をつけてやらないと困るんでな」

「いい加減にしなさいよ。憲兵呼ぶわよ?」

「大層な口を利いてくれるじゃないか。どけ! 俺が直接叩き起こしてやる」

 力を込めてドアを開けようとする男。リンは相当頭に来ていたので、ドアを一気に開け放ち、急に力のやり場を失いふらついた男の腹を蹴ってやった。

「どぅおふ!」

 加減して蹴ったつもりだったが男には充分強烈な力だったらしく、奇声を上げて後ろに吹き飛ぶ。

 ――コイツ、全く話にならない。

 強いのは口だけである。現に今は腹を押さえてひいひい言っている。

「クソアマがアアアアア! 覚えてろよ、次来る時はミュトスを連れてくるからな!」

 男はそう捨て台詞を吐いて、走って逃げていった。

「リン――」

 後ろで小さな声がし、振り向くとクズリが呆然として立っていた。

「さっきの客、何て言ってた?」

「パパに話があるって。それで寝てるから今度にしろって言ったら起こせってしつこいから追い払ったわ」

「いや、最後だ。最後の言葉」

「次はなんとかを連れてくるって」

「ミュトス――か?」

「そうそう、そんな名前だったわ」

 あっけらかんとリンは言ったが、クズリはそれを聞くと一瞬で青ざめた。

「本当なら――終わりだ」

 様子を窺いにイリスが来ると、クズリは二人に向かって真剣な面持ちで口を開いた。

「二人共、この家を出なさい。逃げるんだ」

「はあ? 何言ってんのよパパ?」

 そもそも、リン(とヤマト)はイリスと一緒に逃げるためにこの家に来たのだ。

「クズリ君、まずは落ち着きなさい。さあこっちへ」

 イリスは静かに言ってクズリをダイニングへ誘導する。半ば心身喪失状態のクズリは大人しくそれに従った。

 クズリを椅子に座らせ、イリスはコップにブランデーを入れて渡した。クズリは気を保つためにそれを飲み干し、大きく息を吐く。

「じゃあ、話してみて。なんで私達にここから逃げるように言ったの?」

「そうだね……。リンも座って、ちょっと長くなるから」

 リンとイリスが対面の席に座ると、クズリはゆっくりと話し始めた。

「ドラゴンの研究に没頭して、この家の財産を使い果たしたのは、イリスちゃんも聞いてるだろう。僕はそれでもまだ研究を続けたかった。今のテーマは、ドラゴンの火炎器官がどういう魔法機関なのかということなんだが、それはやはり金がかかる。にっちもさっちもいかなくなってた頃、あるところから資金援助の申し出があった。向こうの研究に協力するなら、いくらでも金を出すというものだった。その研究というのもドラゴンに関連するものだというので、僕はその話を受けた。最初は僕の持ってるデータを見せるだけでよかった。ところが半年程経つと、僕は相手の研究機関に呼ばれた。そこでは――ああ!」

 クズリは頭を抱える。イリスがコップにブランデーを注ごうとすると、クズリはそれを手で制した。

「そこでは、ドラゴンの養殖の研究をしていたんだ!」

「嘘――そんなこと、可能なの?」

 リンが訊くとクズリは首を横に振った。

「普通に考えれば無理だ。捕獲、飼育共に困難。だが、連中は、エラノスはそれを本気で考えていた」

「エラノス?」

 どこかで聞いた覚えがある。思い出そうとしたが、クズリが再び話し始めたのでそちらに集中することにした。

「後で教えられたんだが、エラノスはミィ国内の秘密結社だ。目的は不明だが、強大な技術と兵器をいくつも持っている。連中はドラゴンを大量養殖して生体兵器にするつもりだった」

「でも、そんなの無理よ。そうでしょ?」

「エラノスには、ドラゴンを昏倒させるだけの兵器と、体内から精子と卵子を取り出し人工培養するだけの技術があった。さらには薬物の投与で行動のコントロールを可能に出来るとも言った。その証拠として見せられたのが、ミュトスだ」

 先程の男が脅しとして使い、クズリが震え上がった名前である。

「何なの? そのミュトスって」

「生体兵器――そう連中は呼んでいたよ。見た目は人間だが、エラノスが一から作ったものらしい。ミュトスは投薬によってエラノスに忠実な生体兵器として使用されていた。その力は――化け物だ。僕はもうこんな危険な組織とは関わることは無理だった。だから絶縁しようとしているんだが、連中は仲間になれと迫ってくる。それで最近は家にも使いの者が来るようになってね。だから、二人は逃げなさい。ミュトス相手じゃ手の打ちようがないよ」

 リンはおもむろに立ち上がり、二階へと歩いていった。肩を落とすクズリを見て、イリスが全てを悟ったかのように微笑む。

「教えて」

 背後からリンの声がし、クズリが振り向くと、全身をドラゴン製の鎧で固め、背中にミィブラックの牙を削って作られた大剣を差したリンの姿があった。

「そのふざけた奴らの居場所はどこ? 話をつけてやるわ」

「馬鹿を言っちゃいけない! 相手がどれだけ恐ろしいかお前はわかってない!」

「でもね、クズリ君」

 イリスがクズリの腰に手を置いてから、リンの許に歩いていく。

「こんな話を聞かされて、黙って逃げられると思う?」

「手を貸してくれる? イリス」

「ええ勿論。居候の恩は返させてもらうわ」

 さあ――二人がクズリに詰め寄る。

「教えて」

 クズリは力なく首を振った。

「わかった――僕も一緒に行こう」

 クズリを道案内に、二人は家を出て中央街から離れていく。

 中央街と外壁の中間地辺りに、陽が暮れかけた頃に着いた。この辺りは人も少なく、治安も悪い。そこで街道を外れ、細い道を何度も曲がって小さなビルの前に辿り着く。

「思ったよりも小さいわね」

 リンが言うとクズリは青い顔のまま見た目はね――と口を開いた。

「地下に広大な施設が広がってる」

 三人はビルの中に入り、リンとイリスはその閑散とした光景に驚いた。奥に扉と、上へ伸びる階段がある以外には何もない。

 階段を下りる足音がする。相手側には三人が侵入したこともお見通しらしい。

「おや、クズリじゃないか。漸く仲間になる決心がついたかね」

 黒いスーツに身を包んだ男が、柔和な笑みを浮かべてこちらを見ている。先程の小柄な男とは雰囲気がまるで違い、老成された狡猾さを滲ませている。リンは長年の経験から、ただ者ではないことを察した。

「ソロリさん――今日は直接断りに来たんだ」

 クズリが言うと、ソロリと呼ばれた男は短く笑った。目は全く笑っていない。

「それで子供を連れて泣き落としか? いいかね、君はエラノスの資金援助を受け、さらにはエラノスの秘密を知ってしまったのだよ。仲間になる以外の道は――言わなくてもわかるだろう?」

「受けた援助金は必ず返す。秘密は漏らさない。これなら問題ないでしょ。わかったらもう二度とパパの近くをうろつかないで!」

「これは気丈な娘さんだ。だが、その様子だと君は既にクズリからエラノスの秘密を聞いているのではないかな?」

「それは――」

 言い淀んでから、この場では即座に否定しなければならないことに気付いたが、もう遅い。

 咄嗟にイリスに助けを求めたが、当のイリスはクズリの後ろに隠れて目に涙を浮かべている。

「そうら、やはり君も知っている。秘密を知った以上、エラノスに忠誠を誓ってもらうしかないんだがね」

「誰がこんな怪しいとこに忠誠を誓うか!」

 リンが怒りに任せて抜刀すると、ソロリは鼻を鳴らした。

「仕方がない。そちらがそのつもりなら――」

 ソロリが手を叩くと奥の扉が開き、中から何人もの武装した男達が出てきた。数はおよそ二十。部屋中に広がり、リンを囲っている。

 リンはにやりと笑う。

「こっちは最初っからそのつもりよ」

 男達が五人一斉に剣を向けて迫る。リンは至極落ち着いて身を屈め、右側から来る三人を下から薙ぎ払う。刃がリンに届く前に三人は吹き飛んだ。勢いそのまま、返す刀で左側の二人を斬り伏せる。相手も鎧を着ているので致命傷にはならないが、気絶させるには充分な打撃だった。

 一瞬の一方的な斬り合いを見てたじろぐ残りの男達を、構える隙も与えずにぶちのめしていく。慌てて襲いかかってくる者もいたが、リンがそんな隙を与える訳もなく順番に昏倒させていった。

 あっという間に、武装した男全員が地に伏した。

「ほう!」

 ソロリがその光景を見て、周章する様子もなく感嘆の声を上げる。

「クズリの娘は剣士だと聞いていたが、ここまでとは! 素晴らしい。君が――欲しくなったよ」

 下卑た笑みを見せるソロリに、リンは全身が粟立つのを感じた。

「ちょうどいいことに、最近01号が回収出来てね。02号にはないレベル1魔法が使えるから、君達を傷付けることなく調教出来る。今呼んでいるから、すぐに来るよ」

 扉の奥から、ボロボロの服を着た男が現れた。黒い髪に、死んだ魚のような目。

「なっ――」

 毎日のように突き合わせてきた顔。見間違えるはずもない。だがその印象は、大きく異なっている。

 ヤマトが、変わり果てた姿で目の前にいた。

「アンタ――なんでここにいんのよ?」

 リンが声をかけても、目の焦点をこちらに合わせようとしない。

「なんとか言いなさいよ。急に国を出るとか言って、それでなんで――」

「01号」

 ソロリの愉悦を含んだ声に、ヤマトは初めて反応を見せた。

「その女をいたぶれ」

「了解」

 何の感情も含まれない声を発し、ヤマトは右手をリンの頭に向ける。

「嘘――」

 この予備動作は今までに何度も見てきた。

「オオイカズチ」

「うああっ!」

 頭全体を震わせるような電流が走る。一瞬思考が吹っ飛ぶが、リンの頭の中では苦痛にパニックになりながらも様々な思いが駆け巡る。

「ホノイカズチ」

 胸に手を向け、ヤマトが淡々と呟く。リンは苦悶の声を上げて膝を着いた。

 ――ヤマトは、これまで一度としてリンにこの魔法を向けたことはなかった。

「ワカイカズチ、ツチイカズチ」

 左手、続いて右手。

 ――それは共に旅をする者としての信頼だと、リンは勝手に思っていた。

 腹に手を向けるヤマトの顔には、以前のような愉悦はない。

「クロイカズチ」

 ――現に、ヤマトはリンに憎まれ口を叩き、本気で怒った時も、リンに魔法を向けようとはしなかった。

 崩れ落ちるリンを足で蹴って仰向けにし、股間に手を向ける。

「サクイカズチ」

 ――ヤマトは人を痛めつけて喜ぶろくでもない男だが、リンに対してはどこか違った。そう、思っていた。

「ナルイカズチ、フスイカズチ」

 左足、右足。

 リンは絶えず上げていた苦悶の声を絶叫に変え、止め処なく涙を流した。

「続行か」

 ソロリに目を向け、ヤマトが訊く。

「いや、充分だ。ご苦労だったな01号」

「そんな――ヤマト君がミュトスだったなんて――」

 クズリは未だに床で嗚咽を漏らしながら痙攣するリンを見て、恐怖に駆られながらそう呟く。

 そうだ――リンは滅茶苦茶になった頭の奥底で記憶を呼び起こす。ヤミ決闘の決勝で、対戦相手がヤマトを見て「エラノス」と口にしたのだ。

「その様子だと君達は01号と面識があったようだね。01号は我々の許から脱走し、行方をくらませていたが、偶然にこれまた脱走した02号が発見してね。01号の時の教訓から、02号には強力な帰巣命令が埋め込まれている。勿論01号にも今は同様の命令を埋め込んだがね」

 ソロリが手を叩くと、再び扉の奥から武装した男五人が現れた。

 クズリを二人、イリスを一人の男がそれぞれ後ろ手に縛り、床に倒れたままのリンを残った二人の男が無理矢理立たせて同様に縛った。

 イリスは縛られると途端に声を上げて泣き出した。これには縛った男も困ったようで、ソロリに目配せをする。

「そうだな、クズリとその娘は地下に連れてこい。その子供はどこか適当な部屋に入れておけ」

 イリスを縛った男はそれを聞くと、泣き続けるイリスに顔を顰めながら先に扉の奥に進んでいった。

「さて、君達親子には、これから我がエラノスの素晴らしさを理解してもらおう」

 ソロリが扉の奥に入ると、クズリとリンも男達に引っ張られて後に続く。ヤマトはその場で直立不動のままだ。

 扉の奥は上下に伸びる階段があるだけだった。上からしゃくり上げる声が聞こえてくるので、イリスはそちらに連れていかれたようだ。

 ソロリは階段を下っていく。二人も男達に連れられ、同様に危なげな足取りで階段を踏みしめていく。

 階段は異様に長かった。それも折り返しがなく、ただ真っ直ぐに下に向かっていく。

 漸く下に着くと、そこは地下とは思えない程明るかった。天井中にランプのようなものがいくつもぶら下がり、煌々と光っている。

「魔力をそのまま光に変換したものだよ」

 ソロリは二人に説明するように言った。リンは依然うなだれたままで、声は聞こえていたが殆ど意味は理解出来ていなかった。ソロリはその様子が癪に障ったのか、スーツの下から注射器とアンプルを取り出すと、その溶液をリンに打ち込んだ。

 途端にリンの意識が明瞭になり、感覚が何倍にも研ぎ澄まされた。

「何したの」

 リンが睨むと、ソロリは満足げに頬を緩めた。

「人の話をちゃんと聞けるようにしてあげたのさ。気付け薬だと思ってもらえればいい」

 果ての民の都市とは違い開けている訳ではなく、狭い通路があちこちに延びている。

「ミュトスについて一番よく知っている人間に会わせてやろう」

 ソロリはそう言って歩き出す。

 何度も通路を曲がり、小さな扉の前でソロリは足を止めた。

 扉を開けると、中はランプが一つあるだけの暗い小さな部屋だった。そこに異様に背の高い、恐ろしく猫背の男が机に向かって一心に何かを書いていた。

「ビクター、お客様だ」

 ビクターと呼ばれた猫背の偉丈夫はこちらを振り向き、切れ長の目を細めてソロリを見た。

「何の用だ」

「こちらの二人にミュトスについて教えてやってほしい」

 ビクターはリンとクズリを値踏みふるように見て、難しい顔で椅子に深く腰かける。

「事実のみを話す。ミュトスは我々のプロジェクトチームが一から作った。肉体自体に魔法言語を埋め込み、簡略な詠唱で強力な魔法を放つことも目的にしたのが、最初のプロジェクトだ。だが、生きた人間に魔法言語を埋め込むことは不可能だった。そこで培養するという結論に至った訳だが、ならば魔術的に強力な存在としなければならない。そこで行ったのが蠱毒を模した選出だ。まず男を百人、一つの部屋に入れて殺し合わせる。次に女を百人、同様に殺し合わせる。残った一人の男は絞め殺し、断末魔に溢れる精液を採取し、女の方は殺してから卵子を採取する。その精子と卵子を人工子宮内で授精させ、手を加えながら培養していく」

「――狂ってるわ」

 リンが呟くと、ソロリはそれを一笑に付した。ビクターはくすりともせずに話を続けていく。

「遺伝子レベルで手を加えながらの培養だったが、成長するまで気長に待つことは出来ないとそこの所長殿が言った。そこで急激に成長を早め、一箇月で現在と同じ姿まで成長させた。それが01号、五年前のことだ。そのせいで計算上寿命は四分の一にまで縮まってしまったが、その代わり異様な学習能力を持っていた。一週間で成人と同じ量の知識を持つようになり、この頃は少ない投薬で完全にコントロール出来ていた。

 01号は失敗作だ。拷問用のレベル1魔法はほぼ無制限に撃てるが、破壊及びその他のレベル2魔法の発動限界が三発と極端に少ない。それに加え、二年前に01号はエラノスを脱走した。従順だったので投薬を最小限に止めたことが裏目に出た。

 その教訓を活かして開発したのが02号だ。レベル1魔法を搭載せず、レベル2魔法の発動限界の向上を理念に開発し、発動限界は十発にまで伸びた。ただ問題は、強すぎる自我を持つことだ。投薬を限界まで増やすことでコントロールは出来たが、一週間前には脱走を許してしまった。これ以上投薬を増やすと廃人になる可能性があるので今後は所長殿次第だ」

 話は終わりだ――相変わらず難しい顔でそう言い、ビクターは背を向けて机に向かった。

「彼は優秀だが、私には少々反抗的でね」

 部屋の外に出て、扉を閉める。ソロリは急にリンの方を向き、薄ら笑いを浮かべたまま口を開いた。

「勿論、我々の薬学はミュトスだけのために開発されたものではない。ただの人間に対しても有効だ。そこで、クズリの娘さん」

「リンよ」

「ではリン、君の力は素晴らしい。我々としては君のような兵士が一人でも増えるとありがたい。そこで、君をコントロール出来るかを是非とも試したい」

「待ってくれ! リンに手を出さないでくれ!」

 クズリは慌ててソロリに詰め寄ろうとするが、男達に引き止められて前に踏み出すことが出来ない。

「予想通りの反応で嬉しいよ。そこで、私から最大限の譲歩をしよう。我々はリンに投薬をしないことを誓う。代わりに君はエラノスに忠誠を誓い、ここで研究者として働く。そして、リンもクズリの身の安全を保証して欲しいならエラノスに忠誠を誓い、我々の兵士として働く」

「ふざけんな! それじゃお互いが人質じゃない!」

 リンが怒鳴ると、ソロリは笑いもせずに真顔でそうだと答えた。

「ここまでエラノスのことを知ってしまったのだから、もはや道はそれしか残されていないのだよ。この条件を飲めないようなら、リンには実験台になってもらうしかないし、クズリは言わずもがなだ」

 さあどうする――ソロリに迫られ、リンはやけに冴え渡った頭で考えを巡らせた。

 だが、どれだけ考えてもこの状況を打開する策が見つからない。この男四人とソロリを足だけで倒すことも考えたが、リンとクズリの後ろに控える男達はどれも隙がない。

 それに――ヤマトもどうにかしなければならない。

 今のヤマトは薬の力でエラノスに従わされている、以前の面影もない状態だ。それでも、それだからこそ、リンは一緒に旅をしてきた身として、あの男を放っておく訳にはいかない。

 ヤマトは口が悪く自分勝手でどうしようもない男だが、確かに生きた人間だった。少なくともリンはそう思っている。

 だが、今のヤマトは死んでいる。

 ヤマトが今の状態を望んでいないことは、はっきりと断言出来る。

 しかし、どうすればいい。

 冷水を浴びせられたように澄み渡った頭でも、答えは出ない。

「リンちゃん、声を出さずに聞いて」

 頭の中に直接イリスの声が流れ込んできた。リンは驚いて声を出しそうになるが、ぐっと堪える。

「『見えざる目』と『見えざる耳』で状況は把握しているわ。子供の振りをしてたおかげで見張りは緩かったから、詠唱するのは簡単だった。ちなみに今は『見えざる口』でリンちゃんだけに話してるの。ヤマト君には見えてしまうから彼がいなくなるまで出せなかったのよ。『見えざる手』は既に出してあるから、今からそっちに向かうわ。脱出するわよ。わかったら咳払い」

 言われた通りに小さく咳をする。イリスの声はそれ以上聞こえなくなった。

「僕は――」

 クズリは何度も躊躇う素振りを見せながら、ようよう口を開いた。

「僕はこんな男だが、一応は父親だ。リンが無事なら――仮令あなた達の言いなりになるのだとしても、無事なら、僕は――」

 リンは大きく溜め息を吐く。

「パパ、あたしを勝手にこんな奴らの言いなりにさせないでよ。それにパパもこんなところで働くこともないわ。ほら」

 来た――目にも止まらぬ速さで、宙に立ったまま浮いたイリスがこちらに迫り、リンとクズリの後ろに控える男達を跳ね飛ばして止まった。

「ギリギリ見えざる手が通れる広さで助かったわ。さあ、早く乗りなさい」

 空中を足で叩き、そこに見えざる手があることを示す。リンは今回は躊躇うことなく、すぐにその上に乗った。

「パパ、早く乗って!」

「乗ってて何に?」

「いいから乗って!」

 リンが怒鳴るとクズリは困惑したままリンに倣って足を上げ、下ろすとそこに確かな感触があることに驚き、そのまま見えざる手に乗った。

「な、何だ、どうなっている!」

 ソロリが目に見えて狼狽し始めている。確かに人畜無害なように見えた子供が、空中に立ったまま恐ろしいスピードで飛行してきたらそれはもう慌てるだろうとリンはほんの少しだけ同情した。ただし心中を占める殆どの感情は滑稽な姿を見たことによる優越感と可笑しさだ。

「ええい! ミュトスを呼べ! 01号と02号両方だ! 奴らを生きて帰すな!」

 クズリが乗ったことを確認したイリスは見えざる手を発進させた。とんでもないスピードで飛び立った見えざる手は、複雑に曲がりくねった通路を全くスピードを落とさずに飛んでいく。

「ちょっとイリス! こっちは来た方じゃないじゃない!」

「大丈夫よ。出口は自分で作るから。それよりリンちゃん」

 進行方向に目を向けたまま、イリスは言う。

「ヤマト君のこと、どうするつもり?」

「それは――あんな奴――」

「はっきり言いなさい!」

 言い淀むリンをイリスは一喝する。そのおかげで余計なものが吹っ切れたリンは、あらん限りの声を張り上げる。

「助けたいわよ! アイツがこんな奴らの言いなりになってるなんて胸糞悪い! でも――」

 最後の方はどうしても小さくなってしまう。

「アイツ、あたしのことを忘れてる。きっと、奴らに記憶を消されてる」

「いい? リンちゃん。人間の記憶は脳が死なない限り『消える』ということはないの。今の彼は記憶を思い出せなくなっているだけ。なら、無理矢理思い出させてやればいいのよ」

「どうやって?」

「それは私にもわからないわ。あなたの方が彼と一緒にいた時間が長いんだから、可能性があるならあなたの方よ。そろそろ上がろうかしら。詠唱を始めるわ。長くなるから、その間に考えを纏めておきなさい」

 イリスは息を大きく吸い込むと、小さな声で詠唱を始めた。

「三つの民があった。

 三つの罪があった。

 燃え立つ炎を使う民、それは天上より盗みし罪業。

 流れゆく水を使う民、それは留まらぬものを留めた罪業。

 天稲光る雷を使う民、それは天上に近付きすぎた罪業。

 天帝は三つの民に言う。

 捨てよ。されば元素の怒りを治めよう。

 炎の民、これを断る。

 水の民、これを断る。

 雷の民、これを断る。

 しかれば天帝、炎、水、雷の元素を捨て、裁きを天下に落とす。

 三つの民滅び、天下は鎮まる。

 天帝、他の民を見、幾百年。

 また別の民、炎を使う。

 また別の民、水を使う。

 また別の民、雷を使う。

 罪は消えず、怒りは再び湧き立つ。

 元素は自由。

 民は皆愚民。

 天帝はまた三つの民に言う。

 捨てよ。されば元素の怒りを治めよう。

 炎を使う民、これを断る。

 水を使う民、これを断る。

 雷を使う民、これを断る。

 しかれば天帝、何と仰せられるか。

 恐ろし恐ろし。

 今、我は三つの元素をここに集め、それを捨てる。

 怒りよ吼えよ。

 色の無き神の裁きは必ずその身を滅ぼそう。

 放て」

 イリスは天井を仰ぎ、手をそちらに向ける。

「エレメンタルブラスト」

 世界は一瞬、純白に染まった。

 音は何もしなかった。元の景色が戻ってきた時、リンは思わず自分の鼓膜が破れてしまい、そのせいで何も聞こえなかったのではないかと疑った。

 イリスが手を向けた天井からは、夕暮れに赤く染まった空が見えていた。それはもうよく見えた。これでもかという程はっきりと見えた。

 まず、ここは地下である。階段をかなりの間下りてきたから、相当の深さだろう。そこから、空が見えている。つまり――リンは努めて冷静に考える――地上までを覆っていた岩盤を一撃でぶち抜いたのである。

 それも、辺り一体まるっとを、である。今見えている光景は、空を遮るものを探す方が難しい。

「アンタ、やっぱりただ者じゃないのね――」

 イリスは小さく笑い、見えざる手を上昇させた。見えざる手のスピードは速かったが、それでも地上からの深さは相当なものだということはわかった。

 地下では上を下への大騒ぎとなっていた。指揮を取るソロリもかなりの周章狼狽ぶりだったが、他の者達に比べればましな方だった。突然天井が抉れ空が見えたのだから、それこそ天地がひっくり返ったかのような混乱である。

「ミュトスだ! ミュトスに奴らを追わせろ!」

「しかし01号は元より、02号でもあの速度には――」

「御機嫌よう、エラノスの皆さん」

 突如どこからともなく子供の声がする。イリスの「見えざる口」によるものだが、彼らには何のことやらわかるはずもない。

「私達の要求を言わせてもらうわ。クズリ君とリンちゃんから手を引き、即刻この組織を解散すること。それからもう一つ、ヤマト君――ミュトスを引き渡すこと。この条件を飲めないのなら、さっきの魔法で上空からこの施設を完全に破壊するわ。十分待ってあげる。それまでに答えが出ない場合は、お楽しみ」

 声はそこで途切れた。

「所長! このままでは――」

「ええい黙れ! ミュトスを使い奴らを殲滅しろ!」

「しかし所長、先程の魔法の威力はミュトス以上です!」

「ミュトスの簡易詠唱の速さに勝るものはない! 01号には魔法無効化魔法も搭載してある。撃ち合いになれば必ずこちらが勝つ!」

 ソロリはそう叫び、奇蹟的に無事だった階段を走って上る。

「来るわよ。どうやら和解する気はないみたい」

 地下の様子を「見えざる目」と「見えざる耳」で窺っていたイリスは、そう言ってリンに戦闘準備を促す。

 現在見えざる手はそれ程高くない高度で止まっている。

「リン、イリスちゃん、本当にミュトスと戦うつもりなのかい?」

「戦うんじゃないわ」

 リンの目に、建物の外に出てくる二人の姿が映った。ヤマトと、やはり以前にヤマトに助けを求めた少年だった。

「助けるのよ」

 二人がこちらを見上げたのを合図に、リンは見えざる手から飛び降りた。

 着地し、ヤマトの死んだ目を真っ直ぐに見つめる。

「命令なので、あなたを殺します」

 幸せそうな笑顔を見せて、少年はリンに手を向ける。

「楽しいなあ。久しぶりに人を殺せるぞお」

 けらけらと笑う少年に対し、ヤマトは何の反応も見せない。

「アンタ達、こんなことを望んじゃいないんでしょ」

「01号は待機。02号、殲滅せよ」

 ヤマトが言うと、少年は右の掌を地面に向け、それをゆっくりと上へ引き上げた。

「ヴァーユ」

 周囲を猛烈な風が襲った。リンは吹き飛ばされそうになるのを堪えるために身を屈めるしかなかった。

 ――まずい。

 空中に浮いている以上、見えざる手がこの暴風の影響を一番受ける。しかし今はイリスとクズリの心配をしている場合ではない。既に嵐の中――少年とヤマトが立っている辺りには風は吹いていないらしい――少年が手をこちらに向けている。

 リンは身を屈めたまま前方に駆け出した。風を避けるには、影響を受けていない二人に近付くことだと判断。

 少年の腹目がけて大剣を小さく振りかぶる。ヤマトの魔法は三発まで。少年はビクターの言葉が正しければ十発まで魔法を放つことが出来る。魔法の威力を考えればどちらも脅威だが、目下一番の脅威は少年の方だ。

 少年はリンの大剣を身体に当たる瞬間に身体を捻ってかわした。リンに隙が生じた瞬間、少年はリンの足下を払う。力は微々たるものだったが、この強風の中リンの体勢を崩すには充分だった。風に煽られ、リンは吹き飛ぶ。

「ミュトスは身体強化魔法を使えない。代わりに僕には、人間を超えた動体視力と反射神経が搭載されている。あなたの攻撃はあたらないよう」

 漸く風が止んだ。リンは上空を見るが、イリスとクズリの姿はどこにもなかった。

 少年が右手の指先を上に立て、掌をこちらに向ける。その掌をこちらに向けたまま、左に倒す。

「インドラ」

 眩い閃光。空気が破裂する音。

 それは雷だった。真っ直ぐにリンに向けられていた以上、放たれる前に逃げ、照準を合わせないようにするしかない。しかしリンが動いたのは、少年が詠唱を終えた後だった。リンはその身を襲う衝撃を覚悟した。

 しかし、少年の魔法はリンに届かない。

「左手が駄目になっちゃったわね」

 リンの目の前に、イリスが立っていた。見えざる手を犠牲にして、少年の魔法を防いだのだ。

「ありがと、イリス。パパは?」

「遠くに避難させてあるわ。じゃああの子は私に任せて、ヤマト君のとこに行ってあげなさい。いい? 恥ずかしがらずに素直になりなさいよ」

 顔を赤らめながらも、リンは小さく頷いた。

「わかった」

 リンは大剣を背中に納め、右手で拳を作る。

 イリスは見えざる手の右を待機させておいた上空からこちらに移動させ、構える。

「それはなあに?」

「あなたにも見えるのね。ミュトス――本当に興味深いわ」

 見えざる手は旋回しながら少年に迫るが、少年はそれを正確に目で追い、手を向ける。

「インドラ」

 雷がわずかに見えざる手をかする。見えざる手はまだ顕現し続けている。

「ヤマト君が『冷却時間』という言葉を口にしたことがあるわ。どうやらあなた達は、一回魔法を使ってから再度放つために、ある程度時間を置かないと駄目なようね」

 今度は一直線に、見えざる手が少年に向かう。少年は手を向けるが、その口から詠唱が紡がれることはない。

 見えざる手が少年を捉えた。潰さないが身動きの取れない力加減で少年を掴む。

「リンちゃん!」

 リンはその声を合図に一気にヤマトに向かって駆け出した。

 ヤマトは少年が掴まったのを見ると、両手の親指と人差し指を顔の前で合わせ、長方形を作った。

「ツクヨミ」

 言った瞬間、見えざる手は消え、少年が解放される。

「そうか――ヤマト君にはあの魔法があったわね」

 イリスは素早く詠唱を始めるが、ミュトスの詠唱の速さに敵うはずもなかった。少年はイリスに手を向け、けらけらと笑う。

 リンは真っ直ぐヤマトに向かっていた足の方向を一瞬で変え、少年に向かっていく。

 少年は右手で拳を作り、それを一気に開いた。

「アグニ」

 イリスに向かって、巨大な炎の塊が飛んでいく。

 リンは火球を止めようとしたが、どうしようもない上に間に合わない。

「イリス!」

「大丈夫よ、このくらい」

 上空から声がした。見ればイリスが宙に立っている。リンは既にこの異様な光景を見ても、見えざる手の上に乗っているということを理解出来るようになっていた。

「私も一応身体強化魔法は使えるの。まあ、この身体じゃ負担が大きいから、無理は出来ないけど」

 イリスは上に跳んでかわした後も詠唱を続けていた。空中で詠唱を終え、見えざる手を再び発動させたのだ。

 見えざる手を下ろし、リンの横にイリスが並ぶ。

「これで四発。ヤマト君は一発。先は長いわね」

「イリスがあの子を掴まえると、アイツが魔法でそれを解放する、か」

「そうね。恐らく今ヤマト君に出されている命令は、あの子のサポートのはず。魔法を放てる限界があの子が十発、ヤマト君が三発だという以上、攻撃のメインはあの子。それに向こうは私のあの魔法を警戒しているから、ヤマト君はその魔法を打ち消すことを目的にされている。『見えざる耳』で聞いてたから、間違いはないはず」

「今乗ってる手のスピードなら、あの子の魔法もかわせるでしょ?」

「ものによるわね。さっきみたいなのなら詠唱が終わってからでも身体強化魔法でもかわせるし、雷の魔法だったら常に動いていないと無理。それに最初の風の魔法だったら、見えざる手の制御が出来なくなるから厳しいわね」

 少年が手をこちらに向けたことで会話はそこで途切れ、リンはヤマトに向かって疾駆し、イリスは見えざる手を駆って少年の背後に回った。

 少年はイリスを目で追いながら右の掌を下に向け、それを上に引き上げる。

「ヴァーユ」

 吹き荒れる風。リンはその場で足を踏ん張り、イリスはその詠唱を聞くと即座に見えざる手を地面に下ろし、自身も見えざる手から降りて身を屈め、早口で詠唱を始める。

「インパクトショット」

 魔力の塊が少年に向かって高速で発射され、少年に達したところで炸裂する。

 少年は後ろ向きに吹っ飛び、もんどりうって地面に身体をぶつける。

「なるほど、その魔法、自分が決めた対象の周りには風の影響が及ばないのね」

 少年がこの風を受けていれば、さらに大きく吹き飛ばされていた。少年がふらつきながら立ち上がると、辺り一帯を襲う風は止んでいた。

「僕は――」

 少年は何度も目を閉じ、頭を掻き毟った。

「厭だ――厭だ――あああああッ!」

「な、何なの?」

 リンが少年の方を振り向き、困惑する。

「強すぎる自我と、ソロリは言っていたわね。薬が切れたのか、この子の自我が勝ったのかはわからないけど、初めて会った時のこの子は助けを求めていた。望まないことを無理矢理やらしたら、当然反動も大きくなる」

「じゃあ、アイツも?」

 ヤマトの方を向き、リンが声を上げる。

「それは無理だね」

 下卑た笑いを含んだ声がリンの希望を打ち消した。ソロリが半ば自棄に見える笑みを見せ、建物から出てきた。

「01号は既に薬なしでは死んだも同然だ。二度と失敗を繰り返さぬよう、こんな失敗作には廃人になってもらったのだよ。薬が効いている時だけ我々の命令に忠実で、それ以外ではただ呼吸するだけのゴミクズだ」

 高らかに笑い、ソロリは苦悶の声を上げ続ける少年に近付いた。

「さあ02号、お前も01号と同じにしてやろう。たっぷり薬をくれてやる」

 スーツの下から注射器とアンプルを取り出し、狂ったように笑うソロリ。

「やめ――て」

「はァ! 今にそんな口も利けなくしてやる! さあ! 楽しいお注射の時間で――」

 まともな言葉はそこまでで、ソロリは奇声を上げて吹き飛んだ。

「我慢の限界だわ。全くろくでもない世の中になったわね」

 イリスが見えざる手を飛ばし、ソロリを吹き飛ばしたのだった。

「リンちゃん、私はこのお馬鹿さんとヤマト君の弟の面倒を見ておくわ。あなたは、ヤマト君と真正面から向き合ってあげなさい」

 リンは頷き、ヤマトに向かって一歩ずつ歩いていく。目の前まで近付くと、リンは少し見上げる形でヤマトの目を見ようよした。しかしヤマトの死んだ目はリンを見ようとはせず、伸びているソロリと苦しみ続ける少年に視線を向けていた。

「ちょっとアンタ」

「02号負傷。司令官負傷。命令なし。待機」

「人の話を聞けっ!」

 胸倉を取ると、漸くヤマトはリンと目を合わせた。

「目標接近。01号レベル2発動限界二。レベル1で対処」

 ヤマトは右手をリンの頭に向ける。

「オオイカズチ」

 強烈な電流が走ったかのような衝撃。リンは思わず声を上げながらも、何とかその場で踏み止まる。

「か弱い乙女にこんなことして、ただで済むと思ってんの」

 右手で拳を作り、身体強化魔法は使わずに全力でヤマトの頬を撃ち抜く。

 ヤマトは思い切り後ろに倒れた。仰向けになったヤマトに馬乗りになり、リンは何度も顔に拳を放つ。

「アンタはいつも勝手なのよ。人にだけ荷物持たせて自分は楽するし、自分のことは何も話さないし、急に国を出るとか言い出すし、それでいなくなったと思ったらこんなところにいるし、ホントに勝手。そんな奴に今まで付き合ってきたあたしはホントに馬鹿だと思うわ。でもね」

 無理矢理ヤマトの目を自分に向けさせ、躊躇うことなく言葉を吐き出す。

「おかげでアンタがいないと調子が狂うようになっちゃたのよ! どうしてくれんの! 責任取りなさいよ!」

 荒い呼吸を整える内に、目から熱いものが流れ出ていた。

「アンタ自分を小説家って言ってたわよね。大して売れてないから、売名のために永劫の魔女討伐に名乗りを上げたんでしょ。なんだってここを出て小説家になんてなったのよ。話しなさいよ。全部話しなさいよ」

 ありったけの言葉を吐き出したことで、リンは呼吸も辛くなり始めていた。ヤマトの胸に力なく顔を埋め、朦朧とする頭で考えることは止める。

「ねえ――ヤマト」

 ヤマトは右手を上げる。リンはそれを感じていたが、もはやかわすことも出来ないだろうと悟った。胸で倒れるリンの頭に手が伸びる。

「ホノイカズチ」

 言った瞬間、ヤマトは苦悶の声を上げた。手が指し示していたのはリンの頭ではなく、ヤマトの胸だった。

「気安く――名前を呼ぶな。悪趣味女」

 ヤマトが、鋭い眼光でリンを見ていた。

「アンタ――」

「いいから、俺様の上からどけ。見下ろされるのは好きじゃない」

 リンは途端に顔を真っ赤にして離れようとするが、何故か身体に力が入らない。頭も依然朦朧としたままである。

「お前、薬を打たれたな。副作用だ。仕方がない、ちょっと頭を下げろ」

 リンは赤面したまま頭を下げる――つまりヤマトに密着しようかという程まで顔を近付けた。

 ヤマトは両手を水を掬うように合わせる。

「ミズハノメ」

 手から溢れ出る水をリンの頭にかけ、続いて自分の身体にもかけていく。一気にリンの頭の靄が晴れ、身体も軽くなる。

「この魔法を俺に搭載したのは、お前達の最大のミスだな」

 リンが立ち上がった後で、ヤマトがゆっくりと立ち上がり、見えざる手に捕らわれたソロリを見遣る。

「あらゆる傷を癒すこの魔法は、お前達のコントロールすらも無効化する」

「だが今まで蓄積された薬の影響からそう易々とは逃れられはしない! 貴様が正気でいられるのも今の内だ01号!」

「そんな!」

 リンが叫ぶと、ヤマトは呆れたように溜め息を吐く。

「そうなるだろうな。だが、俺は一度戻ってくることが出来た。ならばいずれ、もう一度戻ってくることも出来るだろう」

 ヤマトはイリスの方に歩き出し、少年の前で立ち止まった。

「お兄ちゃん――ごめんなさい、僕のせいで……ごめんなさい」

「泣くな鬱陶しい。エラノスは俺達で終わらすぞ。手伝え」

「なら、私も手を貸すわ。その前に中の人達は避難させた方がいいかしら? リンちゃん、ソロリは見えざる手で掴んであるから、それを連れて中の人達に避難命令を出させて」

 リンは不服ながらもソロリを連れて建物の中に入った。見えざる手がソロリを運んでいくので、ソロリは自由な身動きが全く取れない。

 中の閑散としたフロアから階段を上がり、二階の部屋で魔方陣が組み込まれた通信機から全フロアに放送を入れる。

「エラノスの馬鹿野郎共! 今からこの施設をあたし達が完全に破壊する。命が惜しい奴はすぐに外に出ること。ほら、アンタも何か言え」

 通信機をソロリの口元に持っていくと、ソロリは憎悪を滾らせた目でリンを睨んだが、大人しく従った。

「これは冗談ではなく本当だ。総員直ちに避難せよ」

 通信を切って階下に戻ると、既に多くの人間が下に続く階段から駆け上がってきていた。

 全員が外に出て来たが、その総勢は五十人程と思っていたよりも少なかった。施設から全員が避難したことを確認すると、イリスはもう一つの見えざる手に乗り、上空で詠唱を始めた。

 ヤマトは少年を助け起こし、肩を貸しながらイリスの近くから離れていく。

「エレメンタルブラスト」

 詠唱を終えた瞬間、地面が抉れ、巨大なクレーターが出現した。建物も、その下の施設も、跡形もなく消し飛んでいた。

「ガキんちょめ、俺達の出番が全くなしじゃないか」

 施設から避難した者達はその光景を見て完全に放心したようだった。

「さあ、これ以上馬鹿な研究はやめることね。じゃないとまたこうなるわよ?」

 見えざる手から降り立ったイリスが優しく笑いながら言うと、全員が激しく頷いた。

「ヤマト君、彼らはどうする?」

「放っておけ。こいつらにこの施設をもう一度作るだけの資金はない。わかったらさっさと散れ!」

 ヤマトが怒鳴ると、彼らは三々五々に散っていった。

「お前も消えろ。二度と顔を見せるな」

 依然見えざる手に掴まったままのソロリに向かってヤマトが凄む。

「01号――ククク、貴様はすぐに廃人に元通りだ。エラノスの許でなくては貴様は生きていけやしない!」

「ガキんちょ、こいつを放せ」

 イリスは肩を竦めると、見えざる手を開いた。

 ヤマトはソロリの頭に手を向ける。

「オオイカズチ」

「ひゃう!」

 ソロリは頭を押さえ、崩れ落ちる。

「失せろ。これ以上何も言わせるな」

 ソロリは歯をぎりぎり言わせながら立ち上がり、呪詛の言葉を吐こうと何度も口を開きかけたが、結局は何も言わずに足早に去っていった。

「おい愚弟」

 少年の方を向き、ヤマトが口を開く。

「僕、ですか?」

「ああ。エラノスはなくなった。いつまでも番号が名前というのは胸糞悪い。名前を付けてやる」

 ヤマトは少年の許まで歩いていき、頭の上に優しく手を置いた。

「『プラーナ』。文句はないな?」

 少年は最初目をぱちくりさせていたが、やがて満面の笑みでそれに応えた。

「ありがとう! お兄ちゃん!」

 ヤマトは照れるように顔を背け、そのままリンと目を合わせた。

「そろそろ、限界のようだ。俺は今から眠る。なんならこの場に放っておいても構わんぞ」

「そんなことしないわよ」

「そうか。なら、時間が経ったら起こしてくれ」

「わかったわ。必ず、起こすから」

 ヤマトは小さく笑うと、静かにその場に倒れた。

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