永劫の魔女(ただし死ぬ)
何の足跡もない純白の処女雪に、初めて自分が足跡をつけるという行為は、街中でならば言いようもない快感を生むものだ。それは街という人が多い場所で、その場所を誰も通っていないという驚き、そして自分がその道を初めて踏みしめていくのだという征服感があるからである。
ではこの、「白い森」の中ではどうなのか。
目の前に広がるのは何の足跡もない純白の雪である。ただしそれは途方もなく広がっている。誰も訪れることのない未開の土地。どこまでも広がる尖った木々。
この土地に足跡をつけていく行為は、ただ茫漠とした不安を煽るだけであった。
雪は絶え間なく降り続き、足跡をどんどん埋めていく。
文字通りの白い森を行くのは、小説家ヤマトと、剣士リンである。
あの依頼を断ることは、なかなかに難しかった。
路銀は殆ど尽きていた。次の村に行くには、どうしても賞金が必要だったのだ。
白い森に娘を捜しに行くのならこちらで準備はするとハッタは言った。そのおかげで二人は充分な装備でここに来ることが出来た。
スイートホームなる娘の居場所は現在二人が歩いている場所よりもさらに南の本当の南極圏である。ハッタから渡された地図には下の方にインクの染みが出来ている。これがスイートホームの――正確にはスイートホームが家を離れた時に着ていた服の位置を示している。この技術はほんの一年前に確立されたもので、必要な魔法具は驚く程値が張る。
「しかしあの金持ち、娘に酷い名前を付けたもんだな」
ヤマトが呟くと、吐き出された息がすぐさま白く凍る。
「全くね。多分新婚ほやほやの頃に出来た子で、幸せボケで付けたんでしょう。でもあの様子じゃ、夫婦間はもう冷め切ってるわね。娘を捜したいってのも世間体を気にしてのことだろうし。金持ちは大変だわ」
ほう、とヤマトが感心したように息を漏らす。その息もすぐさま凍りついた。
「お前、他人の家庭事情を推し量れるのか」
「あんなの見りゃあすぐわかるわよ。多少の人生経験を積んでればね」
ヤマトはそれを聞くと何故か舌打ちし、リンは首を傾げた。
そこからさらに延々と歩き、殆ど未開の地であろう南極圏まで進んだ。この辺りにはもう木々はなく、ただ白い大地が広がっている。寒さは文字通り殺人的なまでに厳しく、今着ている防寒具を一枚でも脱げば凍死するだろうと思われた。
ヤマトは地図を見て、ここがスイートホームの反応がある場所だと確認した。
しかし、果たして六歳程度の子供が一人でこんな場所まで辿り着けるのだろうか。この疑問に対してハッタは誘拐されたのだと言い張った。その場合何故置手紙があったのかという大きな疑問が生じるが、ハッタはそんなことは気にしていないようだった。
「誘拐するにしても、こんな場所に連れてくる? ここ、本当に何もないわよ」
「いや――そうだ。白い森の奥と聞いてずっと引っかかっていたが今思い出した。『魔法民族源流論考』だ」
「はあ? 伝わるように話してくれない?」
「本のタイトルだ。どの国でも禁書になっているが、俺は読んだことがある。元々この大陸には魔法を使える民族と使えない民族がいて、強引な民族融和によって現在の形になったのだという説を提示し、それぞれの民族の源流はどこなのかを考察している。今の通説は最初から全ての民族が魔法を使えたというもので、それを揺るがすことは民族のアイデンティティを破壊しかねない。ディーナ国の王族の祖先が開いたと主張するアイージ朝を批判したり、他にもかなり過激なことも書かれているから、今のご時世じゃ禁書になるのも当然だな。物書きには肩身が狭い時代だ」
「それで、それとここと何の関係があるのよ」
「その中で『果ての民』と呼ばれる、魔法が使える民族のルーツがここだとされている。極限の環境に適応しようと魔法が生まれた云々だそうだ。その本が書かれたのは二百年前だが、その当時には『果ての民』の生き残りを自称する人間がいて、作者が取材している。その話によればこの地には原始から続く都市が残っているという。詳しくは語られなかったが、作者はその都市は永劫残るだろうと書いている」
つまりヤマトはこの地には今もその都市が残っており、スイートホームはそこにいると考えているのである。リンはそれは流石に行き過ぎた考えではないかと思ったが、ヤマトの輝く目を見ると思わず口を噤んでしまった。ヤマトは今、好奇心を剥き出しにして子供のように興奮している。
「今俺達がいるこの場所が娘の位置と同じということは、平面では同じだが実際は違うということだ。つまり、上、あるいは下に目的はある」
地下都市だッ――思い切り地面を指差し、ヤマトが叫ぶ。
「あそこに山がある。この雪だから縦穴ならすぐに埋まる。山の斜面にある横穴が入口かッ」
山は大して高くない。傾斜も緩やかで、殆ど丘のようなものだった。
ヤマトはそちらに向かって早足で歩き出し、リンが溜め息を吐いて後に続く。
山をぜいぜいと荒い息でヤマトが登り、リンは後ろで息一つ乱さずについていく。馬鹿馬鹿しい考えだとは思ったが、魔法具の反応が同じ位置からするのだからヤマトの言い分にも一理あるかもしれないと無理矢理自分を納得させた。魔法具を仕込んだ服だけがあの場所で雪の下に埋もれているのではないかという可能性は考えないことにした。
山の周囲をぐるぐると回りながら登っていくと、二人が登り始めた反対側の斜面でヤマトが立ち止まった。
「見ろ、洞窟だ」
ヤマトは斜面を指差し、自慢げに口角を吊り上げる。
「はあ? 何もないじゃない」
リンは呆れ返ってその斜面を見る。そこにはただ斜面が広がるばかりで、ヤマトの言う洞窟などどこにもない。
「何を言ってるんだお前は。ここにちゃんとあるだろうが。ランタンを出せ」
「だからアンタが何言ってんのよ」
リンが訳がわからずに言うと、痺れを切らしたのかヤマトはリンが持っている荷物の中からランタンを取り出し、灯をつけて斜面に向かっていった。
すると突然、ヤマトの姿が斜面に吸い込まれ、消えた。
「何をしている。早く来い」
斜面の中からヤマトの声がし、リンは迷った挙げ句に同じ場所から斜面に突っ込んだ。ぶつかるかと思うと何にも触れることなく前に進み、気付くと暗い洞窟の中にいた。後ろを振り向くと先程まで自分が立っていた雪山が見える。
「行くぞ」
ヤマトはそう言うとランタンを下げて先に進んでいった。
「何なのよもう!」
リンは混乱しながらランタンを取り出して後に続いた。
もはやヤマトが当初の目的を忘れているのは明らかだった。ヤマトはただ、本に書かれていた果ての民の都市を見つけることを目的としていた。スイートホームなどというふざけた名前の子供は、ただの都市への道標でしかなかった。
リンは完全に浮かれているヤマトの後を追いながら、冷静に思考を巡らせていた。百歩譲って地下都市があるとしても、スイートホームは金持ちの家に生まれたただの子供であり、それが何故こんな場所に辿り着いたのか。
リンは果ての民という言葉は知らなかったが、ヤマトの口振りからしてそのことが書かれた本は禁書とされるようだ。ヤマトが何故禁書を読めたのかという疑問は一旦置いておくとして、スイートホームがその情報を得られたということはまず考えられない。
そもそもヤマトが読んだという本にも都市のことは詳しく書かれていなかったという。当て推量で白い森を越えてこんな極地まで来ることは、常識的に考えても子供の力を考えてもありえないことだ。
ハッタの主張する誘拐説にしても、この土地に小さな子供を連れてくるのはあまりに危険であるし、今まで金の要求がないというのもおかしな話だ。
洞窟は下りになっていた。分かれ道はなく、一本の道が右に左に曲がりながら下に向かっていく。
やがて道は平坦になり、ランタンが必要ない程に明るくなった。壁一面が光っているのだ。
「いよいよ都市が見えてきたな」
ヤマトが壁を見ながらにんまりと笑う。
「こんな技術は聞いたことがない。元始の魔法といったところか」
ランタンを消し、二人は奥に進んでいく。ここでも道は左右に折れ曲がり、先がなかなか見えない。
先を歩いていたヤマトが左に曲がっていく道を進み、リンの視界から消えると驚きの声を上げた。リンは慌てて駆け出し、その後を追う。
それまでも洞窟は広く、天井も高かったが、今二人が見ている景色は桁が違った。先が一気に開け、巨大な空間が広がっている。端がまともに見えない程の奥行きで、果てしなく広い。空間が広すぎて円形か角形かもわからない。天井はもはや天井と呼ぶことすら躊躇わせる高さで、見上げると目が眩みそうだった。壁と天井は例によって光っており、地下とは思えない明るさである。その空間に一歩踏み入ると、空気の暖かさに驚いた。南極圏であることを完全に忘れる程過ごしやすい温度だった。
そしてその空間には、いくつもの石造りの建物が並んでいた。民家と思われるものから公共施設と思われるものまで、大小様々な建物が建っている。
「見ろ、悪趣味女」
「ええ――見てるわよ」
「地下都市だ。果ての民の都市だ。俺は本から得た情報を元に、自分の足で歩き、自分の頭で考え、自分の目でこの都市を見た。こんな――こんな幸福なことがあるか」
ヤマトは歓喜に震えていた。
リンはぎょっとしてその様子を一歩引きながら窺う。
「最初は何もなかった。やがて俺は本を知った。そしてそこから延びる道で、俺は確かな現実を手にしたんだ」
その言葉は完全に独り言で、リンは思わず首を傾げた。ヤマトはそれに気付くと顔を顰めて口を噤んだ。
「あなた達のどちらかは、この都市の人間の末裔なのかしら?」
落ち着いた、しかしあまりに幼い声が響く。
近くの石造りの建物の中から、小さな子供が優雅な足取りで外に出てきた。その歩き方はとても年相応のものとは思えず、気品に満ちていた。しかし見た目が幼子なのでかえっておかしく見えてしまう。着ている服は簡素な白いローブで、とてもこの都市の外には出られないだろうと思われる。真っ赤な髪が首の辺りまで綺麗に伸びているので、女だろう。
「子供、今年で六歳、娘。あなた、スイートホームね?」
リンが声をかけると、子供は大仰に溜め息を吐いてみせた。
「この都市に辿り着いたのはあなた達が初めてよ。入口は普通の人間には見えないから、みんな外で死んだわ。でも何でこの場所がわかったの?」
「魔法具だ。服に仕込んである」
「聞いたことのない技術ね。最新式なのかしら。迂闊だったわね。服はちゃんと燃やしておくんだったわ。さらに迂闊だったのは、あなた達が入口を見つける前に気付かず、ちょうど眠ってたことね」
「質問に答えて。あなたはスイートホームなの?」
「それならまずは最初の質問に答えてほしいけれど――まあいいでしょう。そうね、この子の名前は、スイートホームよ。変な名前ね。でも彼らがここまで熱心にこの子を捜すとは思わなかったわ。死んだことにして、後継ぎなら新しく作ればいいのにね。あ、でもあの夫婦仲じゃ互いにセックスもお断りかしら」
ふふふと笑う子供に、リンは強烈な違和感を覚えた。どう考えても今年で六歳になる子供の言葉だとは思えない。
さらに言うなら、子供は自分のことを『この子』と言っている。まるで自分はスイートホームではないとでも言いたげな調子だ。
子供は一歩二人に近付く。すると二人の胸の辺りから、甲高い音が響き渡った。首に下げた金属片がその音を発しながら、ひとりでに浮き上がり二人の目の先で止まる。
『確認 永劫の魔女』
金属片にそう文字が浮き上がり、力を失い再び首から胸にぶら下がった。
「ほう」
防寒具を乱雑に脱ぎ捨て、ヤマトが嗜虐的な表情を見せる。
「そうか。『生まれ変わる』のなら、幼い子供の姿でも納得がいく。どういう仕組みかは後でゆっくり話してもらおう」
「最悪ね」
リンが慌てて防寒具を脱いでいると、子供――永劫の魔女が苦しげに言った。
「あなた達、すぐにここから出てその魔法具を遠くに捨てなさい。命は大事でしょう?」
「相当の自信があるようだが、相手が悪かったな」
すぐにでも魔法が放てるように身構えるヤマトに対し、永劫の魔女は自嘲気味に笑った。
「自信なんてないわよ。私が今までに何回殺されてきたと思うの? 見たところあなた達は善良そうだから、忠告はしてあげた。私の言う通りにしないのなら、あなた達の命は長くないわ」
リンが大剣を抜き構えると、永劫の魔女はやれやれとでも言いたげに肩を落とした。
ヤマトが指で永劫の魔女の頭を指し示し、口を開こうとする。例の拷問魔法だとリンにはすぐわかった。直接的なダメージは与えられないが、苦痛を与え動きを鈍らせることは出来る。その隙にリンが一気に叩けということだろう。
しかしリンがいつでも動けるように神経を張り詰めていると、ヤマトは詠唱を口にする前に身を翻して永劫の魔女から離れるように走り出した。
「ちょっとアンタ! 何考えてんの!」
「何をしてる! 早く離れろ! 見えないのか!」
ヤマトの言葉を理解する前に何かがリンの身体を弾き飛ばし、リンは全身が痺れるような感覚を味わいながら後ろに吹き飛んだ。
背中を地面に強かに打ちつけながらも、リンは素早く受け身を取って体勢を立て直した。
リンの目の先には小さな子供が一人立っているだけである。何らかの魔法を使ってリンを吹き飛ばしたのか。だが永劫の魔女が呪文を唱えたのは聞こえていない。聞こえない程小さな声だったとしてもそんな時間はなかったはずだ。
永劫の魔女は大きく跳び上がった。身体強化魔法を使ったことは明らかで、その跳躍は二人の背丈の倍近くあった。しかし、ジャンプの頂点に達した後も永劫の魔女は地面に落ちてこない。空中にしっかりと立ち、二人を見下ろしていた。
「一体、どういう魔法なの?」
まるでヤマトの魔法のような得体の知れなさである。ヤマトは味方ならば心強いが、敵に回ることを考えて恐怖に襲われることがリンは何度かあった。
「手だ」
息を切らしながらヤマトがリンの隣に駆け寄る。
「巨大な両手があのガキんちょの指示で独立して動いている。恐らくはずっと天井に潜ませておいたんだろう。お前を引っ叩いたのは右手で、今ガキんちょが乗っているのが左手だ」
「あなた、何者なの?」
上空から永劫の魔女がヤマトに訊ねる。
「入口を見つけたのもあなたね。この魔法は『見えざる手』。その名の通り見えないっていうのが売りなのに、なんで見えるのかしら?」
「俺はヤマト。小説家だ。見えるものは見える。詳しいことは知らん」
「おかしな子ね」
永劫の魔女は興味深げにヤマトに視線を送った。
「本当に、亡くすのが惜しいわ。今からでも私の忠告に耳を貸す気はない?」
「ないな」
永劫の魔女は溜め息を吐き、憂いを含んだ目でヤマトを見下ろした。
ヤマトは舌打ちをし、リンの反対側に走り出した。恐らくは見えざる手がヤマトを狙って迫ってきたのだろうが、リンには何も見えない。
まず間違いなく、今の狙いはヤマトの方だ。見えない手を見ることが出来るヤマトを早々に潰せば、見ることが出来ないリンは簡単に料理出来る。
ヤマトの足は、あまりにも貧弱だった。長旅に耐えるだけの力こそあったが、全力で逃げる速さなど高が知れている。加えて身体強化魔法がまるで使えないとなれば、見えざる手に追いつかれるのはあっという間だった。
捕まるかと思われたその時、リンがヤマトに剣の切っ先を向けて突進を始めた。目を見張る速さで距離を詰め、ぶつかろうかという刹那に急ブレーキをかけて止まる。
「お前にしては悪くない考えだが、やはり悪趣味馬鹿女らしい手荒さだな」
冷や汗を拭いながらヤマトが荒い息を整える。
「手は?」
「上に逃げた。さてどうしたものか。俺様はこれ以上逃げ回るのは御免だ」
「ようは魔力を具象化させる魔法でしょ? だったらある程度の傷を与えれば消えるはず」
「馬鹿が。そんなことはわかっている。手っ取り早いのは俺様の魔法で吹っ飛ばすことだが――」
ヤマトが言い淀む訳はリンにもよくわかっていた。拷問用以外のヤマトの魔法の限度は三発。永劫の魔女の魔法がこの見えざる手だけだとは言い切れないこの状況でその貴重な一発を使うことはかなり危険である。
「直接あいつに魔法をぶっ放してケリをつけられないの?」
「出来ないことはないがまず死ぬぞ。死ねば褒賞はなしだ。それに間にあの手が割って入れば防がれる。今あいつが乗っているのは手首近くだから、指を曲げればあの身長なら完全に隠せる。クソがっ。やってみせてくれやがった」
忌々しげに永劫の魔女を見上げてヤマトが毒づく。リンにはただ永劫の魔女が宙に立っているようにしか見えないが、ヤマトの目からは姿が指で隠れて見えるのだろう。
「なら、あたしがいく」
リンは剣を構え、上空の永劫の魔女を睨みつける。
「アンタ、あたしの目になりなさい。どこから手が来るのか、どこに手があるのかを声で教えて。そのくらい出来るでしょ?」
「大声を出すのは好きじゃないが、仕方ないな」
ヤマトは少し上を指差し、手の居場所を教える。
「お前から見て十一時の方向、距離十メートル、上方三メートル。次からは『お前から見て』は省略するぞ。ガキんちょの方は見えるだろうから、そっちは勘でいけ」
「オッケー。すぐに――決める!」
一気に駆け出し、手との距離を詰める。その間に手は大きく旋回し、リンから離れていく。ヤマトはその動きを見て逐一声を張り上げて方向を伝えた。
手の速度はそれ程ではなかった。直線で追いかければリンに分があるが、何せ手は上下左右自由自在に飛び回る。ヤマトは何度も舌を噛みそうになりながら、リンに方向を伝え続けた。
「ああもう! 埒が明かない!」
リンが声を上げると、ヤマトが突然走り出した。永劫の魔女の姿がよく見え、相手からもこちらの姿が見える位置で立ち止まり、声を張り上げる。
「おいガキんちょ、今から俺様が放つ魔法はその手ごとお前をぶち抜く。運がよければ死なないだろうが、命の保証は出来んぞ」
右手の掌を永劫の魔女に向け、その手の後ろに左手を押しつける。交差するように両手を向けた形になる。
「一時の方向真っ直ぐ、俺を狙ってくる!」
ヤマトがそう叫んだことで、リンはこの男の考えを理解した。囮となり、手を自分に向けさせたのだ。さらにはリンと見えざる手と自身を同一直線上に並ばせた。
リンは即座に駆け出し、刺突の構えのままヤマトに迫っていく。
全力で突っ込んでいくと、剣の先に確かな手応えを感じた。勢いを緩めることなく剣を突き出し、手応えは刃の根元近くにまで及んだ。やがて感触は消え、ヤマトがにやりと笑う。
「消えたな。よくやった」
「後はあいつを痛めつければいいのね」
二人は永劫の魔女を見上げ、そして固まった。
永劫の魔女は小さく何かを呟いていた。そしてヤマトには、言葉が紡がれていくに従って永劫の魔女の小さな手に尋常ではない大きさの魔力が集まっていくのがわかった。
「あいつ――いつから詠唱を始めていたんだ」
この予兆は、既にヤマトの魔法するも凌駕する巨大な魔法であることを示していた。範囲も、威力も、桁違いだ。
「詠唱を止めればいいんでしょ!」
リンは足に魔力を集中させて力を高め、大きく跳躍した。永劫の魔女の頭上まで達し、大剣を振りかぶる。
しかし永劫の魔女は一瞬でリンのはるか頭上まで移動した。
「なっ――」
左手の速度は右手とは比べ物にならない程速かった。ヤマトは一瞬の逡巡の後、両手の親指と人差し指を立ててそれぞれを合わせ、顔の前で長方形を作った。
「ツクヨミ」
空間から光が消える。その言葉の直後、永劫の魔女は詠唱を終えた。
「エレメンタルブラスト」
一瞬、世界が白に染まった。
リンは何も見えなくなった中で死を覚悟した。しかしその身体は何事もなく地面にぶつかり、背中を強打してリンは呻き声を上げた。
「一体、どういうこと?」
永劫の魔女は完全に真っ暗になった空間で重力に従い落下を始め、困惑した声を発した。今の魔法が正しく放たれたのなら、この都市は全壊し、地面は大きく抉れ巨大なクレーターが出現するはずである。しかしヤマトが何かを呟いた途端に残った見えざる手も消え、今永劫の魔女は地面に着地した。都市の灯りは既に元に戻っている。
「わずかな時間、俺の視界内のあらゆる魔法を消滅させる魔法だ。いつまで寝ている。さっさと行け、悪趣味女」
「うっさいわね! そんな魔法があるなら最初から使いなさいよ!」
悪態を吐きながらリンは立ち上がり、剣を構えて永劫の魔女へと迫る。
「この魔法は冷却時間が長い。この都市の灯りも一瞬だが失われるし、俺様にとってはいささか危険だった。まあ――」
リンの大きく薙いだ大剣が永劫の魔女に直撃し、その小さな身体は呆気なく吹き飛んだ。
「最初からお前を信用しておけばよかったな」
身体を守ろうと咄嗟に出した左腕、あまりにも貧相な多くの肋骨、地面に最初にぶつかった右肩、その他多数の骨が折れ、永劫の魔女はもはや身動き出来ない状態となっていた。
リンは思わず顔を顰め、大剣を背中に収める。
「あんまり、気分のいいもんじゃないわね」
「そういうものなのか?」
「中身は悪人でも、見た目は子供よ。あんたやっぱり、どっかずれてるわね」
ヤマトは鼻を鳴らし、首に下げた金属片を外し手に持った。倒れた永劫の魔女の許まで歩いていき、まだ生きていることを確認する。
「さて、これで金と名声が手に入る訳だ」
「駄目……よ。あなた……達が……」
虫の息の永劫の魔女の掠れた声に耳を貸さず、ヤマトは金属片を口の前に運ぶ。
「永劫の魔女討伐完了」
金属片が眩い光を放ち、炸裂した。
その衝撃は凄まじく、ヤマトの顔は焼け爛れ、声も上げずに頭から後ろに吹っ飛んだ。首にかけたままだったリンの金属片もまた爆発し、ドラゴン製の鎧越しに衝撃がリンの胸を襲った。鎧がなければ即死していたはずだ。現にリンの肺は悲鳴を上げ、呼吸がまともに出来ていない。
ヤマトは金属片が光を放った刹那、それを前に放り投げていた。地面に落ちた金属片からは記号の群れが現れ、複雑に形を変えながら展開されていく。
――魔方陣!
朦朧とする意識の中、何とか立っていたリンはそれを目にして驚きを露わにした。現代では詠唱魔法が主であり、魔方陣を用いた魔法を使える人間はごく一部しかいない。使われるのは通信機が主だが、技術者の数の少なさから高価なものばかりだ。そしてその一部の人間の殆どは、国家直属の組織に所属している。
しかも、あの金属片に組み込まれていたのは自立構築式である。外部からのアクセスで内部に仕込まれた魔方陣をその場で構築する――普通に行われる魔方陣の構築が人の手によるものであることから、リンは自立構築式という名称は知らなかったがこの技術が恐ろしくレベルの高いものであることは認識していた。
魔方陣が完全に構築されると、その中から一人、また一人と人間が現れ、総勢五人が姿を見せたところで魔方陣は収縮した。
最初に現れたのは重武装した兵士で、それが四人目まで続き、最後に現れたのは学者然とした老年の男である。
「私は施術にかかる。お前達はそいつらを始末しろ」
了解――と四人の兵士が声を上げる。
――一体どういうことなの!
リンは苦しい呼吸の中で必死に頭を働かせた。あの男は兵士達に、恐らくリンとヤマトの始末を命じた。だが、これはどう考えてもおかしい。
何故なら、兵士達は紛うことなきディーナ国の兵士だからだ。
ディーナ国は永劫の魔女の討伐を条件に褒賞を出した張本人である。その国の兵士が永劫の魔女を始末するなら話はわかるが、褒賞を受け取るべきリンとヤマトを始末しようとしている。
リンはふらつく身体で大剣を構えた。今は考えるよりも、自分の身を守るのが先だ。
しかし相手は国の兵士。ダメージを負ったリンで、この四人を相手に出来るのか。
「オオイカズチ」
突如奥で悲鳴が上がり、兵士達が慌てて振り向く。
永劫の魔女の方に向かった男の頭を、今や二目と見られない顔となったヤマトが右手で掴んでいる。悲鳴が止み、恐らく男が気絶したであろうところでヤマトが手を離し、水を掬うように両手を合わせる。
「ミズハノメ」
手から水が溢れ、ヤマトはそれを永劫の魔女の全身にかけていく。永劫の魔女の頭から足先までかけた後で、顔を洗うように自分の顔に手を当てて水を浴びせた。
手をどけると、顔は以前と同じ傷一つないものに戻っている。
「おいガキんちょ」
立ち上がる永劫の魔女に向かってヤマトが声をかける。
「お前の言い分を聞いてやる気になった。助けてやったんだからこいつらを片付けるのを手伝え」
「その言い方はないんじゃない? 私を再起不能にしたのはあなた達でしょ。それにしてもあなた、本当に何者なの?」
「何度も言わせるな。小説家だ」
永劫の魔女は呆れたように笑うと詠唱を始める。
兵士達が二人に辿り着くよりも早く、永劫の魔女が詠唱を終える。
「インパクトショット」
手を向けると兵士達の前で魔力が炸裂し、全員が吹き飛ぶ。
永劫の魔女は休みなく詠唱を続け、兵士達が起き上がると同時に詠唱を完了させた。
「見えざる手」
巨大な不可視の両手が出現し、右手が兵士を掴んで捻り潰す。一人ずつ順番に、血飛沫を上げて潰されていく。リンの目からは突然身体が潰れて死んでいくように見える。からくりを知っているリンでさえ不気味に思ったのだから、仲間が次々に怪死していく兵士達は凄まじい恐怖を覚えただろう。
最後の一人が潰れて死ぬと、ヤマトはずっと顰めたままの顔をさらに不機嫌そうに歪めた。
「仕方はない、か」
永劫の魔女は後ろを向き、気絶したままの学者風の男に向き合った。
「これで――やっと一つ終わる」
「待て」
ヤマトは見えざる手が男を掴んだの見て、永劫の魔女を制した。
「そいつを殺す前に、お前の言い分を聞かせてもらおう。この状況に至った理由を、お前は知っているんじゃないのか?」
「あたしも興味がある」
二人の許まで覚束ない足取りで歩いてくるリンを見て、なんだ大丈夫そうじゃないか――とヤマトは軽口を叩いた。
「全然大丈夫じゃないわ! 今漸く何とか声が出せるようになったとこなの! あんたそいつと自分を治すくらいならまずあたしを治しなさいよ!」
「次使ったら三発目だ。もうお前を治すために倒れるのは御免被る」
永劫の魔女はそれを見て楽しげに笑った。
「そうね――」
永劫の魔女は大きく息を吐くと、天井を仰ぎ見た。
「話しましょう。全て」
一気に、永劫の魔女の表情が険しく変わる。
「話は今から三百年前にまで遡るわ。私は、当時既に廃れた『果ての民』の生き残りだった。その頃にはまだこの都市にも人がいて、私もここで暮らしていた。でも、その頃のこの都市は怨恨が全てを支配していたの」
「アイージ朝か」
ヤマトが言うと永劫の魔女は驚いたようにそうだと答えた。
「アイージ朝は果ての民完全撲滅を密かに掲げ虐殺を繰り返したと『魔法民族源流論考』に書かれていた」
「物知りね。私達の間で言われていたのはその通りよ。アイージ朝への怨恨こそが全てで、大人は皆子供にその憎しみを伝えていく。そしてその怨恨は、ディーナ国へと続いていったの」
ディーナ国はアイージ朝から続いていると標榜している。
「恥ずかしい話だけど、私は当時ディーナ国打倒を声高に叫び、仲間を募ったの。アイージ朝に続くディーナ国こそ我らの怨敵、それを討ち滅ぼすことこそ祖先よりの使命――ってね。
そして集まった果ての民を率いて、ディーナ国に攻め入ったの。でも当時果ての民はもう殆どいなかったし、私に賛同してくれる仲間もそれ程いなかった。当然あっという間に鎮圧されて、全員処刑された。
私は最後まで呪詛の言葉を吐き続けた。我らの無念は必ずや果たされる。この憎しみを糧に何度でも蘇り、お前達を必ずや滅ぼす――とね。
その時のディーナ国の王――グコラ帝は、それを聞いて笑ったわ。そしてこう言った。『チャンスをやるから、やってみろ』と。
その頃のディーナ国では、不老不死の研究が盛んに行われていた。そして生み出されたのが、永劫の呪い。これは相手の魂をこの世界に縛り付け記憶を保持させ、術者が死なない限り何度でもその魂を転生させるの。魂の記憶は肉体が成長するまでは発露しないけれど、記憶が目覚めるとそのことを知らせる装置も開発されていた。
これは一人の王が永遠に国を治めるために使われるはずだった。けれど実験体になった王族の証言から、その用途に使われることはなくなった。何故なら記憶を保持するということは、死の記憶も残ってしまうということだからよ。死ぬっていうのは生易しいものじゃない。その記憶を何回も味わうという非人道さから、王に使うことは出来なかった。
もうわかったでしょう? 私はその呪いをかけられた。そして殺され、どことも知れない世界を彷徨い、再びこの世界に生まれたの。
最初の頃は、まだ復讐心は残っていたわ。自分をこんな目に会わせた、憎きディーナ国を必ず滅ぼすと心に誓って生きていた。ディーナ国は私を永劫の魔女と名付け、金と名声を餌に討伐を促した。私は結局国を相手にする前に、雇われた勇者に殺された。
私に呪いをかけるように指示したグコラ帝の頃、ディーナ国は最盛期。だけど徐々に力は弱まり、グコラ帝はその頃の栄光に縋るために神聖化されていった。グコラ帝の生み出した王家の敵、永劫の魔女を永遠に討ち続けることが王家の繁栄へと繋がる――そんな思想が生まれ、永劫の魔女は何度も何度も永劫の呪いをかけられ、何度も何度も殺された。
私はね、もうほとほと嫌気がさしたの。生きるのも厭だし、死ぬのも厭。でもそれが永遠に繰り返される。気付けばディーナ国を滅ぼそうなんて気は、すっかりなくなっていた」
大きく大きく溜め息を吐き、永劫の魔女は長い話を一旦止めた。
「まだわからないことがある。何故王家は俺達を殺そうとした。金が惜しかったのか?」
「こういう状況になることを恐れたからよ。私が永劫の魔女を討伐しにきた相手に余計なことを吹き込み、相手がそれに同調しては困る。今の時代は果ての民でさえタブーだしね」
ヤマトは見えざる手に掴まれた男を見る。
「お前にその呪いとやらをかけたのはこいつなのか?」
「ええ。三十年前にはもっと若かったけれど」
「――そうか。目を瞑っておいてやる」
ありがとう――永劫の魔女が小さく笑うと、見えざる手は男を潰した。
「さて、困ったことになったな。俺達もディーナ国に反逆したとみなされる。勿論金も名声もなしだ」
「ホント、アンタと組んだあたしが馬鹿だったわ。まさかこんなことになるなんてね」
「俺様がいたから助かったんだろうが」
「アンタがいなけりゃここに辿り着くことはなかった!」
言い争う二人を見て永劫の魔女は申し訳なさそうにうつむいた。
「ああもう! こうなったらこの子も連れて三人で逃避行よ!」
「えっ?」
リンの言葉に永劫の魔女は耳を疑う。
「えっじゃないわよ。あたし達はもうディーナ国から反逆者扱いになってるんでしょ? あの魔法具を渡される時に指紋を取られてるから、この国にいるのは危険じゃない。アンタあたし達にあんな話をしたんだから、こうなることを見越してたんじゃないの? いいわよ。アンタの思惑通りになってあげるわよ」
「私はそんなつもりは――」
「ここに一度魔方陣が展開された以上、この場所にいることすら危険だろうな。いずれにせよこの国を出なくてはならない。それにお前の見えざる手の左、それは移動にうってつけだろう。俺達も歩いて逃げるなんてのは疲れるからな。いい加減覚悟を決めろ。俺達はとっくに出来ている」
二人から力のこもった眼差しを向けられ、永劫の魔女は一瞬の逡巡の後意を決した。
「わかった。三人で逃げましょう」
三人は互いに顔を見合わせ、笑った。
「永劫の魔女って呼びにくいわね。スイートホームもあんまりだし。ねえ、何て呼べばいい?」
リンが訊くと永劫の魔女は迷う素振りを見せた。
「最初の名前はあまり好きじゃないのよ。あんな考えを持っていた時期の名前だしね。そうね――イリス。イリスでいいわ。何番目かは忘れたけど、一番気に入っている名前」
「オッケー。あたしはリン」
「彼はヤマト、小説家ね。じゃあよろしくね、ヤマト君、リンちゃん」
まるで年上の相手から呼ばれるような調子で、リンは違和感を感じつつも笑って応えた。イリスは見た目は完全に子供だが、中身な何度も生きて死んだ存在なのだ。
「で、どうする。何なら大陸を出るか?」
「あたしにツテがあるわ。そこならこの大陸の中で、ディーナ国も手が出せない」
ミィ国よ――リンが声を張り上げる。
それを聞くと、ヤマトは信じられない程に厭な顔をした。
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