第5話 いつも世界はこうなんだ
――ああ。どうしていつも世界はこうなんだろう。
サクヤが中学生の頃のこと。妹コノハへのいじめをどうにかしようと、職員室に殴り込みに行ったことがあった。扉を勢いよく叩き開けると、濁った大人たちの視線がざぁっとサクヤに集まった。
「先生! 私もう我慢できません! 私たちの学年にいじめがあります! いじめっ子はたぶんA子とB子とC子! それとD男も怪しいです! なんとかしてください!」
緊張していなかったと言えば嘘になる。サクヤは年上の高校生だって殴り倒すような少女だったが、大人の怖さはまた別だ。当時まだ気がついていなかったが、それは権力への恐れ。大人は喧嘩をしない。喧嘩をせずとも相手を負かす方法を知っている。
なら、逆にそれを利用すればいい。陰湿ないじめっ子は喧嘩じゃ勝てない。サクヤにしては機転の効いたアイデア。
だが、
「
担任だった初老の教師が「しかたなく」といった感じで前に出た。サクヤの父親と同い年くらいとは思えない、疲れと無気力が顔に染み付いた男だった。
「先生、あの――」
「静かにしなさい。
「でもいじめが!」
「はあ……以前に君のご両親にも話したがね、磐長、この前また同級生に暴力をふるったそうじゃないか」
「え? いやそれは、あいつがコノハの悪口を言ってたから……あの、私のことはどうでもいいんです。いじめっ子をどうにか――」
「どうでもよくないな。この間の職員会議でも次になにかあれば君を停学処分にしなくちゃならないと話したんだ。どんな理由があっても暴力を振るうような生徒を放置するわけにはいかない」
教師は有無を言わせなかった。その目は敵意に輝いていた。
「人をいじめるのはよくて、いじめた奴を懲らしめるのはダメなんですか!? なんでそうなるの!?」
「だいたいいじめとは何かね。証拠でもあるのか。はっきり言ってな、君の言葉はこれっぽっちも信じられんよ。不良娘の言葉を信じて生徒たちを追求するなど、マジメな生徒たちがかわいそうだ」
「何がマジメよ! 人のお弁当を捨てたり、トイレの個室で上から泥水かけたり、机に暴言書きまくるのがマジメだっていうの!?」
「被害妄想だ。手に負えん。まったく君のお父様も大変だな。弁護士にもなって育てた娘がこれじゃあ――」
「なんでパパが出てくるの!? パパは関係ないでしょ!!?」
サクヤには掴みかからないようにするのがやっとだった。ギリギリ踏みとどまれたのは、それでもなおコノハへのいじめを止めるには教師の力を借りるしかなかったからだ。
とはいえ――今にして思えば、
「あのクソジジイ……総入れ歯になるまでぶん殴っとけばよかった……」
結局は教師の協力を取り付けることはできず、コノハは不登校になり、めぐりめぐってサクヤは馬を走らせていた。人生万事塞翁が馬というが、あたっているのは馬に乗ってることだけだ。
「そういえばあの人の名前も聞いてないんだっけ……」
サクヤを助けてくれたあの青年。態度は少々ぶっきらぼうだったが、見ず知らずのサクヤを命がけで助けてくれた。喋る巨人。空から降り注ぐ氷柱。まだ頭の中で整理がついてはいないが、一つだけ確かなことがある。あの青年は、このままではきっと死ぬ。
「ああ。どうしていつもこうなのかな……?」
あの人は、いい人だった。そのいい人が死のうとしている。
コノハもいい子だった。だけど追い詰められ、殻に閉じこもることを余儀なくされた。
いじめっ子たちやサクヤを鼻であしらった教師たちは何のお咎めもなくのうのうと生きているのに。
世界はいつもこうだった。
できることなら引き返して助けに行きたい。しかしそれが助けになるどころか、青年の好意を裏切ることになるくらい、サクヤにもわかっている。
それよりも今は助けを呼びに馬を走らせること。乗馬は慣れないがまっすぐ走らせるくらいはなんとかなった。とにかく急いで、一秒でも早くイナンナという人に連絡を――
「……誰か来る?」
地平線の向こうに動くものが見えた。かと思うとどんどんと近づいてくるそれは、サクヤに向けて手を振っていた。
「団長ーーー! ご無事でしたかーーー!」
視力2.0のサクヤの瞳がその姿を捉える。一見人間の女性のようだが、頭頂部からすらりと獣の耳のようなものが伸びている。人間? あるいはあの怪物のお仲間? とはいえ敵意は感じられない。
などと考え込んでいるうちにもう、彼女はすぐ手を触れ合えるほどの距離にきていた。
「……って、あれ? 団長じゃ、ない?」
「もしかしてあなたがイナンナ!?」
「私の名前を知っている……それに乗ってる馬は団長の……やっぱり団長?」
そう言って目を細めるイナンナはなんとも頼りなかったが、時間がない、サクヤは必死に状況を伝える。
「その団長って人、まだ向こうで戦ってるの! でっかくてキモい巨人に追われてた私を助けてくれて、でもいきなり空から氷柱が降ってきて! それで私を逃がすために一人で残って……」
「氷柱?
「よくわかんないけど、彼が言うにはまじゅつしってのが居るんじゃないかって」
途端にイナンナの表情が青くなる。警戒した犬のように耳がピンと立ち上がる。
「魔術師……そんな、あれは巨怪じゃなかったの……? でもあの足音は確かに……他に気配もなかったし……もし潜んでいるとしたら……待って、もしかして……!」
サクヤのことなど忘れてしまったかのようにぶつぶつと呟くイナンナが、急に顔を上げる。
「巨怪の上に誰か乗っていませんでした!?」
「と、とろる……? あのでかいののこと? そういえば何か……フリアエとか呼ばれてる女の子が肩に乗っかってたけど。まさかあの子が魔術師なの?」
「フリアエ!?」
一人娘が妹を道連れに井戸に飛び込んで焼死したのを目撃したみたいな驚愕と絶叫。それと事態が飲み込めていないサクヤでさえ不安になる、目に見えての動揺。
「
「えっと、とにかく彼を助けに行ったほうが――」
「あなた状況わかってんですか!?」
イナンナの怒声。ただサクヤはその程度ではひるまない。
「わかんないわよ! 最初からぜんっぜんわけわかんない! でも彼には命を助けられた! イナンナを呼んでこいって託されたの! サダムってとこまで戻れって! ねえ、さっき団長って言ってたよね。彼が団長なんでしょ? ていうことは部下もいっぱいいるんでしょ? そいつら連れて早く彼を助けに――」
「来ませんよ、助けは」
半ば自棄気味にフリアエが吐き捨てる。
「たしかにアベルは団長で、部下もいっぱいいます。もともと私もそのために市に戻ったんです。シャリオール副団長の隊を連れてくるために。けど、無駄足でした。避難民保護を優先するため兵は動かせない。副団長もその指揮を行うから、私一人でどうにかしろと。ま、あなたに言っても仕方ないことですけど……」
「どういうこと? なんで副団長が団長の命令を聞かないの?」
「貴族派閥のシャリオール副団長は平民出の団長が気に食わないんです。ただでさえ団長の一家は……とにかく、巨怪一匹ならぎりぎりどうにかなるはずだった。でもフリアエまでいるなら、はあ、運の尽きってやつですか」
「……じゃあ結局、このままあいつは放っておくってこと?」
「まさか。アベル一人で死なせたりしない。あなたはこのまま真っすぐに進んでください。しばらくするとサダム市の防壁が見えます。後はお好きに、サダムで暮らすなりさらに東へ進むなりしてください。ああそういえば東部はこれから収穫期ですね。子も産める女手は重宝されるでしょう。それじゃ」
「それじゃって……」
呼び止める間もなく、ハイヤという鋭い掛け声を残してイナンナはサクヤの来た方向へと走り去っていった。最後の言葉は彼女なりの善意の助言なのか、お前は逃げた先でのうのうと暮らしてろという嫌味なのか、出会って数分のサクヤには判断のつけようがなかった。
ただ一つ確かなこと。それは相変わらず。
彼女は、このままではきっと死ぬ。
死ぬ人間が二人に増えただけだった。
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