第4話 助け舟 or 泥の舟
地元じゃ負け知らず。
磐長サクヤの名前を出して震え上がらない悪童はいなかった。喧嘩っ早く、殴り合えば常勝、かわいい顔に騙されて返り討ちにあった野郎どもは数しれない。
もちろんそれは通常のハカリの範疇でのこと。一対一の喧嘩なら勝てる。だが二対一になれば厳しく、三人以上はもう無理だ。逃げる時はきっちりと逃げる。それこそ不敗伝説の秘訣。
まして、わけのわからない巨人の化け物相手など逃げる以外に選択肢はない。
ずっこけた際に助けを求めた少女は最悪のシリアルキラーみたいなセリフを返してきた。ただ、化け物は彼女が言葉を発したことそのものに驚いたらしい。そのスキに何とかまた距離を取ることができたが――
「あばははははあ! あばははははあ!! 待で待で~! 捕まえぢゃうぞお~!」
ドシドシドシ、大地を震わす足音が背に追いすがる。どこまでも続く草原をサクヤは必死で逃げていた。
捕まればどうなる? むごたらしい死。あの化け物の強烈な臭気を放つ口の中で噛み砕かれて、骨や内臓がすり潰される極限の痛みをじっくりと味わいながら、それで終わり。
「そんなの絶対いやああああああああああああああああ!」
まだコノハにサヨナラも言ってない。いやそもそも死ぬつもりは毛頭ない。コノハを見つけるまでは死んでたまるものか!
と、闘志を胸に燃やしてはみるが、人間の体力には生理学的な限界が存在する。乳酸をたっぷり蓄えた両足は重く、酸欠で頭がズキズキと刺すように痛む。コノハのことだけを考えて意識を集中させるが、それでも倒れるまで時間の問題だった。
(頑張れ私、お姉ちゃんは諦めない! お姉ちゃんが諦めたら背中を見てる妹はどうなるの!? 今は見てないけど! とにかく頑張れ私! 頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ!!!)
必死に己を鼓舞するサクヤは気がついていない。自分の動きが死にかけた蝶のようにへろへろと定まっていないことに。
「なんだが動ぎ遅ぐなっでぎだな~! あばははははあ! いいぞいいぞお!」
怪物――二つ目巨怪(トロル)が歓喜によだれを撒き散らす。周囲に霧散する臭気がいっそうサクヤの気力を奪った。
(あ、やば――)
なんとか整えてきた呼吸が乱れる。後は総崩れで、両手と両足の動きがばらばらにほつれ、視界がグワシと揺れる。心臓の激しい鼓動だけが、引きちぎられんばかりに痛む耳の奥に響いていた。
転ぶ。そう思った。
「おいそこの女! 諦めるな! こっちだ!」
鋭い声がサクヤの意識を貫いた。視界の端、白い馬に跨った男が手を振っている。
「あで、まだ新じい人間だ~」
巨怪の注意がそれ、スピードが落ちる。一方でサクヤは、瞬く間に肉体の炉に炎が灯るのを感じていた。もちろん一時的なブースト、このまま走ればすぐに反動が来るだろう。だが今はその一瞬で十分。
白い馬の男、アベルが馬を寄せて手を出し述べる。
「並走する! 飛び乗れ!」
「そ……」
「なんだ!? なにか言ったか!?」
「そこの女ってなに!?」
「はあ!?」
「私は磐長サクヤ。そこの女、なんて失礼な呼び方やめてよ。でも助かった、ありがとう!」
「あ、ああ! 一気に逃げるぞ、掴まれ!」
地を蹴り、アベルの手を借りてサクヤは馬に飛び乗った。馬上は思っていたよりも高く肝が冷える。が、それ以上にどっと安心感が湧いてくる。助かった……!
アベルが手綱を緩めると、馬は一息で速度をぐんと上げる。振り返れば巨怪がみるみる引き離されていくのが見えた。
「あで!?? あであで!?!? なんでだああああああ!? 返ぜよおおおおお! 俺の晩ごばんだぞおおおおお!?」
ビリビリと空気を震わす叫び声も、みるみる小さくなっていく姿では間抜けなものだった。
「あいつの足じゃ追いつけねえだろう。もう大丈夫だ。しかしなんであんなところをうろついてた? サダム市への避難民か?」
「さだむし……? よくわからないけど、気がついたらこの草原にいたの。コノハ……妹を探してて」
「まあいい。西部からの避難民は全てサダム市を通るはずだ。尋ね人のことは後でゆっくり――」
アベルに緊張が走る。サクヤも、後ろからまわした両腕越しにそれを感じた。
「なに!?」
「……クソっ、イナンナ! これは流石に話が違うぞ! 手ぇ放すなよ!」
アベルが手綱を引き、嘶きと共に白馬が急停止する。振り落とされないようサクヤは必死に両腕に力を込めた。いきなりなにすんのと文句を言いかけた瞬間、
ドスッ! ドスドスドスッ!
軽自動車ほどもありそうな巨大な半透明の氷柱が、二人のすぐ先に次々と降り注いだ。アベルが馬を停めていなかったら今ごろ全員串刺しにされていただろう位置。完全な偏差射撃。
サクヤの額に冷や汗がつたう。アベルが吠える。
「まだ来る! 走れ!」
弾かれたように馬がその場から離れ、案の定、もといた草地を氷柱が刺し穿った。そのままアベルはなんとか巨怪から距離をとる方向に逃げようとするが、次々と降り注ぐ氷柱を避けるうちにどんどんともと来た方向へと戻されていく。
「ねえなにこれ!? 突然の悪天候!? この世界の気候ワイルドすぎない!?」
「なわけねえだろ! 氷結魔術……それもこの長距離でこの精度、おまけに威力まで高いときた。おそらく旋風魔術との混合……相当な手練だな」
「まさかさっきのデカいの!? バカそうだったのに!」
「違えよ! 避けながら説明すんのも大変なんだから、ちょっと考えてから喋ってくれ!」
「そ、そんな言い方ないでしょ!? あっ、また飛んでくる!」
すんでのところでまた回避するが、ほとんどスレスレを氷柱が飛んでいく。ごう、という命を刈り取る音が耳元をかすめる。
「まずいな……」
事ここに至りアベルは気がつく。巨怪の方へ近づけば近づくほど氷柱の精度が上がってきている。単純な話だ。射撃の的が近いほど弾は当てやすい。完全に誘導されている。
「おい女! あの巨怪の近くで魔術師の姿を見なかったか?」
「サクヤだって言ってるでしょ! ていうか魔術師ってなに? 帽子かぶった髭面のおじいちゃんでも探してるの!?」
「魔術師に見た目は関係ない……クソ、素人に言っても無理か」
「なんなのその言い草! だいたい――」
「伏せろ!」
反射的に身をかがめる。と、さっきまで頭のあったあたりをものすごい勢いで氷柱が横切った。日頃の癖で喧嘩腰モードになりつつあったサクヤも思わず閉口する。
「……ごめん、私が悪かった。協力させて、どうすればいいの?」
アベルは深く息を吐く。状況は最悪だった。魔術師を倒そうにもおそらく二つ目巨怪が守っている。これは一人では太刀打ちできない。かといって逃げようにも氷柱が飛んでくる。今はジグザグに走って避けているが、そんな悠長な動きではいつまで立っても射程内から抜け出せない。それに馬の足も限界に近かった。ただでさえサダム市から飛ばさせてきた分があるのに、加えてこの無茶な挙動と二人乗り。むしろ頑張らせすぎているくらいだ。よく保ってくれている。
(せめて一人なら逃げ切れるんだが……)
ちらりと後ろに乗せた女を振り返る。さっきまで随分と喚いていたが、状況が飲み込めたのか神妙な目をアベルに向けている。アベルがこれまで見たこともないような美しい瞳だった。それに奇妙なデザインの服。まったくもって意味不明な女。
(ま、パニクって暴れ出さないだけ利口だったな……)
どうあれ二つに一つしかない。アベルは覚悟を決め、手綱を強く握りしめる。
「おい、女」
「サクヤです! 私にできることがあったら教えて! どんなことでもするから!」
「それはいい。今から俺の言うことをよく聞け」
「うんうん」
いかにもマジメ! に眉根に力を込めて頷くサクヤに、思わずアベルはため息が出る。こいつ、やっぱり状況わかってないんじゃないか?
「率直に言って俺たちは極めてマズイ状況にある。このまま二人乗りで馬を走らせてたら確実に逃げ切れねえ」
「なるほどなるほど」
「……だから、どちらかが馬から降りて敵の注意を引きつける必要がある。馬に残った方はできる限り早く応援を連れて戻る。簡単だろ」
「ふーむふむ……え? いやいやちょっと待ってよ! どちらかがって……どっち?」
「んなもん決まってる。それは――」
アベルの瞳が細まるのを見て、サクヤは今更のように思い出した。
そう言えばこの人、何者?
仮に正体がなんであったにしろ、この状況でサクヤを放り出さない理由がない。アベルは明らかに戦闘の訓練を受けた人間だった。それくらいはサクヤも察する。
それではここで問題です。喧嘩慣れした一般人と戦闘のプロ。この状況で生き延びるならどちらでしょうか。
「……おっけ。迷惑かけてごめんなさい。短い間だったけど、助けてくれてありがとうございました! それでは磐長サクヤ、不肖ながら精一杯おとりになります!」
声が震えないように気をつけつつ、なるべく嫌味っぽくない笑顔を作る。そもそも助けてもらった立場だ。感謝こそすれど、文句を言える立場ではない。
そのまま馬上から飛び降りようとするのを、目を丸くしたアベルの叫び声が制止した。
「てめっ何してんだよ!?」
「何って……えと、囮にですね……」
「ざけんじゃねえ! 俺の苦労を無駄にする気か!?」
「はぇ……?」
「待てよ? そういえばお前って馬に乗れるのか? いやこの際しかたねえ。馬は勝手にサダムまで戻る。そしたらイナンナって女に状況を伝えろ。それまでは死んでも手綱を離すなよ! わかったな!」
そう言うが早いか、アベルは手綱をサクヤに押し付けて、馬上から身を投げ出した。
あっ、と思う間もなく彼の姿はどんどんと後方に流れていく。倒れ込むように着地したのを見てサクヤは息が止まりかけたが、すぐに体を起こしたのを見て思わず声が漏れた。
「いいか! イナンナだぞ! 狐みたいな耳した臆病な奴だ! わかったな!」
なにか言い返す前に、アベルは飛来した氷柱を避けるため駆け出した。その背中に声を投げてももう届かないことくらい、サクヤにだってわかっていた。
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