その夜1

「課長、遅いな……」


会社入口の壁にもたれて時間を確認すると、19時半を過ぎた。


課長はあれから人が変わったように働き始めていたけど、それでもまだ終わりそうもないみたいで、私がオフィスを出た時も忙しそうにしていた。

ここ最近の遅れを取るには今日半日じゃ無理だろうから、仕方のない事だろうけど。


さっきまで午前中の事を根掘り葉掘り聞いていた千歳が一緒に居てくれてたんだけど、ケンさん(千歳の彼氏さん)から連絡が入って、一足先に帰ってしまった。


「私も帰ろうかなぁ」


別に約束もしていない。私が勝手に待っているだけ。

それに、長時間ここにいるせいで、何度か呼び込みの兄ちゃんに声も掛けられたし、ヒールで立っているから足も疲れて来た。


「よし、帰ろう!」


踵を返し、数歩歩いた所で「中条?」と声を掛けられ足を止める。


ゆっくり振り向くとそこには、目を丸くして不思議そうにこちらを見ている課長の姿。


「……お疲れ様です」


「お疲れ様。どうした?こんな所で。大分前に帰ったハズじゃ?」


「えぇっと…た、たまたま?通りかかって、みたいな?ハハハ」


素直に『待っていました』って言えば良いのに何故か言えなくて、咄嗟に嘘をついてごまかす。


「あんれ~?お姉さん、やっとカレシのご登場~?良かったね~、ずっと待ってたもんね~!」


突然、大きな声でそう叫んで私の横をウインクをしながら通り過ぎて行った人がいた。


(あれはっ!)


さっき妙にしつこかった呼び込みの兄ちゃんっ!?なに余計な事を言って去って行くんだよっ!!


クスクスクス、と周りから笑い声が聞こえて、私は恥ずかしさの余りうつむいた。夜だから真っ赤な顔は見えなかっただろうけど。


「俺を待っててくれたのか?」


そう言いながら課長がこちらへ歩いて来る。たまたま通りかかったなんて嘘ついて、だけどあっさりバレて。めっちゃ恥ずかしい!


「……はい」


恥ずかしさのあまりうつむいた顔を上げられない。

すると、目の前で立ち止まった課長の温かい掌が、私の頭を撫でた。


(え?)


また昼間の様に暴走するんじゃないかと思って慌てて顔を上げる。

だけど、課長は優しく微笑んでいるだけだった。


「あ、あの」


「ん?」


「いえ、なんでも……」


「そうか?」


「はい」


「じゃあ、帰ろうか」


「はい……」


私たちは並んで歩き出す。

横目で課長を見ると、至って普通。昼間の様に呼吸が乱れたり、興奮している様子はない。


(なんだ)


そんな課長を見て、私はガッカリと肩を落とした。


(ん?なんでガッカリ?)


こんな人がいっぱいいる状態で昼間の様になったら、大変なのに。何故か、そうなって欲しかった自分もいる。


(んん~?)


自分の感情がよく分からない。


「どうした?」


数歩先を歩いていた課長が振り向いた。


「あ、いえ、なんでもないです」


「そうか?」


「はい」


タタッと小走りで課長元へ駆け寄った。何を話すでもなく、ただ二人、並んで歩く。

私は人よりも歩くスピードが遅いんだけど、課長はその速度に合わせてくれている。


(優しいな……)


和矢はスタスタと自分のスピードで歩く人だったから、並んで歩くのに苦労した。


(いつも私は小走りで和矢に付いて行ってたっけ)


だから、この課長の優しさ、気遣いがとっても嬉しい。


課長は、恋人は作らないんだろうか?


いつかの千歳じゃないけど、仕事が出来てお金持ち。顔も良くてスタイルも良いし、何より優しい。傍から見れば申し分ない人だ。今はちょっとアレだけど、普段の課長だったら引く手数多だろうに。


「腹、減らないか?」


「へ?」


再度考え込んでいた私は、課長に何か言われたような気がして聞き返した。


「え?なんですか?」


「ずっと俺を待っていてくれたって事は、夕飯まだなんだろう?腹減らないかと思って」


「え、ああ…そう言えば空いた様な……」


課長を待っている間にカフェオレは飲んだけど、それ以外は口にしていなかったから言われてみればお腹が空いて来た。


「良い時間だし、メシ食って行くか」


「あ、はい」


「よし。じゃあ、どこが良いかな。女性が喜ぶ様なお店をあんまり詳しくないんだけど、どこかあるか?」


「えっと……」


女子が喜ぶ様なお店?どうしよう、私も何も思いつかない。行きつけが居酒屋の私に聞かれても、正直困る。


「あの、課長にお任せします」


「え?良いのか?」


「はい。私が決めちゃうと居酒屋とかになってしまうので」


女子力の欠片もなくて、言ってて恥ずかしいな。


「居酒屋?ああ、あの泥酔事件の?」


「うっ…はい……」


イヤな事を思い出させてくれるっ!余計に恥ずかしくなっちゃったじゃないか!


「よし、そこに行こう」


「へ?」


「その居酒屋に行こう。確か、ここから近かったよな?」


「はい。あの信号を右に曲がってすぐです」


「じゃ、行こう」


「え、あ、ちょっ!」


課長が私の腕を引っ張って歩き出す。


「い、いいんですか?」


「ああ、構わないよ。こないだ迎えに行った時に焼き鳥がうまそうだったから食べてみたい」


確かにあのお店の焼き鳥はめっちゃ美味しい。でも、課長が居酒屋でご飯を食べる姿なんて想像ができない。もうちょっと上品なお店(全国の居酒屋さんごめんなさい)の方が良いんじゃないの?


そう言ったら、


「そんな事はないよ。学生の頃はよく居酒屋で飲み会とかもしたしね」


だって。


私は、課長がそれで良いのなら、と、後は何も言わずに黙って手を引かれながらお店の暖簾のれんをくぐった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る