聖母の逆襲(後編)

「あ~あ、帰ってからが心配だなぁ~」

「何バカなこと言ってるの。そりゃ、ここにいてくれるのは嬉しいけど、あなたにはあなたの家族がいるんだから」

 なんだかんだで実家暮らしは二カ月近くになる。慎吾はこまめに立ち寄り、顔を見せてくれるものの、その都度「そろそろ帰ろうよ」と促すようになってきた。いい加減、実家に入りびたりの妻に内心不満もあるのだろう。

「彩夏さん、大丈夫よ。もう子育ても慣れたでしょ?」

「そうだよ、俺もちゃんと育休取って面倒見るからさ」

 梨沙子が優しく促すと、慎吾もうんうんとうなずく。夫は知らないとはいえ、この優しい義姉のサポートがないと、先行きが不安でしょうがない。

「私一人でこの先、やっていけるのかなぁって……」

 母親の不安が、我が子にも伝わったのか、唯人がぐずり始めた。おむつじゃないし、ミルクはさっき上げたばかりだし……と、焦る中、梨沙子が「ちょっと待ってね」と言いながら優しく抱き上げ、ゆっくりあやしつつ背中をとんとんと叩き始めた。程なく、泣き声は止み、息子は小さなあくびをして眠りについたようだ。

「ほぉら、泣き止んだ。おねむでご機嫌斜めだったのね」

「すごぉい、さすがお義姉さん」

「やぁねぇ、これじゃ、どっちがお母さんだか」

 梨沙子がほほ笑む。その笑顔と物言いに、一瞬だが不自然なものを感じた。

「ほら、こっちが唯人ちゃんのママですよぉ~」

 梨沙子がそう言って、再び唯人を彩夏の腕に戻そうとしたその瞬間だった。いきなり唯人が火のついたように泣き出した。先ほどのぐずり方とは桁が違う。彩夏はおろおろするばかりだった。彩夏が慌てて抱きあげ、軽く揺らしたりしても泣き止まない。

「ああ~、もう泣かないでよぉ~」

「おいおい、どうしたぁ?」

 泣きたいのはこっちだというのに。そういえば、最近はこんなことが増えた気がする。彩夏だと激しく泣くのに、梨沙子が抱くとおとなしくなる。時には彩夏を見た途端、顔をゆがめて泣き出しそうになる。こんな状態で実家を離れて、まともに子育てができるのだろうか? しかし、帰らねばならないのも事実だ。息子は相変わらず、抱っこすら拒むがごとく、のけぞってギャン泣きを続けている。慎吾も懸命にあやしてくれているが、ちっとも収まらないようだ。

 お宮参りは体調不良を口実に行かなかったものの、次の「お食い初め」はぜひ出てほしいと義父母や夫には言われている。だからもう帰らなくてはならないのに、こんなに泣くのでは先が思いやられる。


 彩夏の不安は的中した。実家から帰ってきて以来、唯人は昼夜を問わず泣きじゃくる。夜中であってもお構いなしで、睡眠時間も削られる。いつもなら、優しい義姉が助けの手を差し伸べてくれたり、自分の代わりにあれこれ手伝ってくれたりしていたが、もうそれはない。助けてほしいのに、どうしようもない。部屋の中は散らかっているし、家事もままならない。気が付けば、泣き止まない我が子を抱えたまま、自分も涙を流していた。

 実家に助けを求めようとスマホを手にしたときだった。

「だめよ、彩夏さん。いつまでも実家に甘えていてはいけないって言ったわよね」

 背後には義母の秀美が立っていた。


                *


 今日のお食い初めの席で義妹は盛大にやらかしたらしい。らしい、というのは、先ほど義母の久美子が半泣きで梨沙子に電話をかけてきたからだ。要領を得ない話し方にイラつきながらも詳細を聞くと、彩夏がヒステリーを爆発させ、我が子をその場に放置したまま、お食い初めの席から逃げ出したというではないか。

 会場のホテルまでは車で三十分程度だ。梨沙子はひとり、上機嫌で運転しながらこれまでのことを振り返っていた。

 産後うつや育児ノイローゼなど、こういう状況を示す言葉はいくつでもある。が、出産後の我が子の面倒をすべて人に丸投げしておいて、今さら何もできないとべそをかいても自業自得だろう。


 三カ月前のことだ。義妹が里帰り出産をしたいと言い出し、夫も義母も二つ返事で引き受けた。梨沙子の思惑など考えてすらいない。

「大丈夫よぉ、梨沙子さんがいるんだし」「そうそう、何かあったら助けてもらえばいいんだから」

 能天気に言い放った二人に何を言っても無駄だろう。どうせ自分たちは何もしないくせに。

 しんどいのは数カ月だと覚悟を決めた梨沙子は、とにかく自分を殺し、この里帰り期間は家事育児に専念することにした。そして、産まれた甥っ子が実の母親よりも自分になつくように仕向けたのである。

 育児については徹底的に予習した。ミルクを与えるときは自分が日ごろ使っているタオルケットで包んで梨沙子の匂いを教えた。寝かしつけの時も、タオルケットですっぽり包み、安心できるようにさせた。一方で、彩夏の衣服には香りの強い柔軟剤を使って洗濯してやった。赤子には柔軟剤の匂いは刺激が強く、不快になるのは分かっていたから。自分になつくように仕向け、義妹を疎んじるように促し続けた。通常の家事やパート務めに加わっての夜中の授乳やおむつ替え、夜泣きはきつかったが、歯を食いしばって耐えた。パート先の同僚には少しだけ事実を話したが、みな憤慨してくれたし、できるだけ楽ができるようにと配慮してくれたのがありがたかった。

 もっとも、そんな梨沙子の思惑以上に、彩夏は何もしなかった。家のことも、我が子の育児も、だ。しかも、義母までちゃっかり丸投げときたものだ。それゆえに、唯人は素直に懐いてくれたのだ。

 次第に唯人が梨沙子になつく反面、彩夏が抱き上げようとするとぐずるようになっていった。母乳を与えようとすれば吸い付くが、今一つといった感じである。おかげで彩夏は、胸が張って痛いとこぼしていた。

 極めつけが、夜泣きが頻繁に出始めた生後二か月前後。あやして落ち着いたところで、彩夏に引き渡すその瞬間、梨沙子は赤子の尻を小さくつねったのである。心地よく眠りに入った赤子には、晴天の霹靂だろう。それを何度か繰り返すことで、赤子は彩夏に抱かれると嫌な思いをすると学習し、本能で彩夏を拒むようになる。


 そんな状況で戻っての子育てだ。おそらく、ここひと月ぐらいは夜泣きも激しく、義妹夫婦もすっかり疲弊していたのだろう。このタイミングでのお出かけや外食。どうせ晴れ着を着せるのも車に乗せるのも相当難儀したに違いない。

 ホテルのレストランでお食い初めの会席を開くことは細川家の義母から聞いて知っていた。梨沙子はとっくに細川家に根回しを済ませていたのである。出産当日、細川家の面々を車で送迎の際に「彩夏さんが初産でナーバスになっている」「不調で臥せっていることも多いので自分がサポートをしている」とそれとなく伝え、何かあった時のためにと連絡先を交換していたのである。

 彩夏がのんべんだらりと過ごしている間に「今日は唯人ちゃんがご機嫌でした」「今日はミルクを完飲!」とこまめに報告を続けた。

 実の母親よりもこまめな対応をする梨沙子に、細川家の者が違和感を覚えたのは当然である。彼らが察するのは時間の問題だった。

 ――彩夏は育児を義姉に丸投げしているのでは?

 梨沙子自身はその疑問を敢えて否定した。その上で「私はまだ子どもがいないから……今のうちに子育てを勉強しておけって、あちらのお義母さんも……」と返した。

 この一言が決定打となったであろうことは容易に想像がつく。そして「あの娘は細川家の嫁失格」との烙印を押されたであろうことも。秀美は嫁の不出来を梨沙子に詫び、「今後は、甘えないようしっかり見張っていく」と伝えたのだ。

 それゆえ、さすがの義妹も梨沙子に助けを求められない。むしろ「今まで何をしていたのか」と、日々夫や義母に叱責されながらのストレスフルな子育てになっていたはずだ。


 車はホテルの前に到着した。梨沙子は駐車場に車を預け、フロントを通り抜ける。フロント脇に大きな鏡があった。自分がことのほか、嫌な笑顔を浮かべていることに気づく。おっと、いけない。これじゃ悪だくみにほくそ笑む魔女みたいだ。

 レストランは二階の「よし寿」。彼女はそのまま足を進めた。入口側の従業員に声をかけると、「楓の間」を案内された。「細川家ご一行様」と書かれたそれを見つけるよりも前に、唯人が激しく泣いている声が聞こえてきた。それに、何やらもめているらしい女性たちの声。涙声混じりなのは、たぶん久美子だ。おおかた「娘を甘やかすからこうなった」とでも言われているのだろう。

 シミュレーションは完璧だ。まずは、心配そうな表情。そして唯人を見つけるや否や、聖母のほほ笑みで駆け寄ってやるのだ。実の母よりも、はるかに頼れる伯母として。

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逆襲 塚本ハリ @hari-tsukamoto

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