聖母の逆襲(前編)
「ママ、ただいまぁ」
うっとうしい梅雨が明け、蒸し暑さが増してきた初夏。細川
「さ、入って入って、彩夏さん。暑かったでしょう?」
「お義姉さん、お世話になりまぁ~す」
駅前で出迎え、ここまで車を運転してくれたのは、兄嫁の
影の薄い印象は、兄が初めてこの家に連れてきたころと変わりない。兄はこんな貧相な人が好きなのかと若干拍子抜けしたものだ。とはいえ、井上家の若奥さんとしての評判はそれほど悪くない。今一つ覇気に欠けるのと、いまだ子どもを授からないのがネックだが、結構な働き者らしい。そういえば、玄関も掃除が行き届いていた。
「お帰り、彩夏。ああ、だいぶ大きくなったねぇ」
「うん、歩くのもしんどくなってきた」
居間でのんびりとテレビを見ていたのは、母親の
「あたしもついにお祖母ちゃんかぁ……」
「ママ、しばらくの間、よろしくお願いします」
「いいんだよ、ここはあんたの家じゃないの」
「そうですよ、ゆっくり休んで、元気な赤ちゃん産みましょうね」
梨沙子が冷えた麦茶を運びながら、にっこりとほほ笑んだ。聖母のような優しい笑顔だった。
「わぁ、すっかりきれいになっている!」
居間の隣の和室は、埃一つないほどきれいに磨き上げられ、小さいベッドとカラーボックスが一つ置かれているだけ。もとは祖母が使っていた部屋だったが、十年前に亡くなった後は、物置部屋のようになっていた。そこが全て片づけられている。以前はモノがごちゃごちゃあって、そのせいか薄暗く埃っぽかったのだが、今は明るく、居心地の良い空間だ。
彩夏は早速スーツケースを開けて、着替えや化粧品などの私物を取り出した。
「彩夏ちゃんのお部屋だった二階にしようかなとも思ったんだけど、妊婦さんに階段の上り下りさせるのはちょっと……ね。それに、ここだったら私もお義母さんもすぐ動けるじゃない?」
祖母がいたころは、背の高い箪笥が窓を遮っていたが、それもなくなっているので、窓から庭がよく見える。その庭も、きれいに手入れされていて、今はユリやトケイソウなどがきれいに咲いているのが見えた。反対側は家庭菜園のようだ。何かの苗が植えられている。
「あの畑……お義姉さんが?」
「うん、おいしい夏野菜があると嬉しいと思って。ナスやトマト、ズッキーニもあるの。もう、いくつかは食べごろだし……そうだ! 彩夏さん、ラタトゥイユは好き?」
「え、好き!」
「じゃあ、今日の晩ご飯はそれにしましょうか。後は、キュウリとツナのサラダにして……メインはお肉とお魚、どっちがいい?」
「お肉食べたい!」
「そう、じゃあチキンの照り焼きなんてどう?」
「うわ~、大好き!」
おしゃべりをしながらも、梨沙子の手は止まらない。彩夏の荷ほどきを手伝い、着替えの服を畳んだりハンガーに吊るしたりしている。手早く作業を済ませると「それじゃ、買い物行ってくるわ」と部屋を出て行った。
窓からは爽やかな風。まだ日は高いが、彩夏はベッドに寝転ぶと、そのまますやすやと寝息を立て始めた。
――里帰り出産にして、本当に良かった……
彩夏と夫の
慎吾と細川家の義父母は、当初こそ「何もそこまで……」と乗り気ではなかったが、彩夏の拝み倒しが功を奏して、出産後の床上げまで実家で過ごすことが決まった。
何よりも、実母の「うちは女手がいますから」の一言が効いた。細川家は義母一人なのに対し、井上家は実母と兄嫁がいる。何かあってもすぐ手助けできるというのが利点だった。
実際、上げ膳据え膳の妊婦ライフは、本当に楽で快適だった。朝はゆっくり寝ていられるし、起きれば梨沙子が朝食を用意してくれる。朝食が済むと、ノンカフェインドリンクを出してくれるので、それを飲みながら母と二人で朝のワイドショーなどを見て過ごす。その間に梨沙子は掃除や洗濯を済ませ、二人の昼食の用意をしておく。十時半になると、彼女は身支度を整え、パートに出勤する。毎日十一時から午後三時まで、駅前のファミレスが梨沙子の職場だという。
彩夏は何もする必要がなかった。家のことはすべて梨沙子がしてくれる。昼食も用意しておいてくれるし、夕方になれば一番風呂に入れる。風呂上りには手の込んだ夕食も出てくる。
その間にも、兄や帰ってきた父・
「ほんと、こんなに楽してていいのかなぁ~」
梨沙子が剝いてくれたリンゴをかじりながら、彩夏はのほほんとつぶやく。
「いいのいいの、赤ちゃん産まれたら大変なんだから、今のうちにのんびりしておきなさい」
母ものんびり応える。
「ありがたいなぁ……お兄ちゃん、いいお嫁さん捕まえたね」
「そうねぇ、これで子どもができれば言うことなしなんだけどねぇ、こればっかりはねぇ」
「ねぇ、お義姉さんは不妊治療とかしていないの?」
「康介が嫌がるんだよ。そんなことしないで、自然にできるのを待つって」
「そんなこと言ったって、お義姉さんももうアラフォーになるじゃん」
「だからさ、お前がこうやって赤ちゃん産んだり、子育てしているのを見れば、あの子も少しは本気にしてくれるんじゃないかねぇ」
「だといいけどなぁ」
「それに、梨沙子さんだって子育ての予習になるんじゃない?」
「そうか、だといいね」
「そうだよ、そうに決まっているさ」
出産がこんなにきつく、辛いものだとは思わなかった。陣痛の痛み、出産の痛み、後産や会陰切開とその縫合の痛み、産後の子宮の収縮の痛み、とにかく何から何まで痛くてしんどかった。
それでも、生まれたての我が子を見れば、喜びも湧いてくる。駆け付けた夫と義母の
「男の子だぁ、大きくなったら一緒にサッカー観に行こうな」「彩夏さん、頑張ったのね」と口々に喜んでくれる。もちろん、両親や兄もニコニコしていた。が、一人足りない。
「あれ? お義姉さんは?」と兄に聞く。
「ああ、梨沙子なら家で留守番しているよ。後で車で迎えに来てもらうからさ」
康介はこともなげにそう言った。母もそれに同調する。
「そうそう。慎吾さんたちを駅前まで送ってあげないといけないからね。家で待ってもらっているの」
「あら、そんな。タクシー拾うから大丈夫ですよ。ねぇ、慎吾」
義母が断ろうとするも、母も兄も「いいじゃないですか、タクシー代がもったいない」と相手にしなかった。程なく、梨沙子が駆けつけてきた。
「すみませんねぇ」「いえいえ、お気になさらず」
そんな会話の後、三人は車に乗って駅に向かった。
しばらく話をしていると、看護師がやってきた。やり方を教わりながら、初の授乳だ。
「よっしゃ、お母さん頑張れ~」
「それじゃ、また明日ね」
「そうそう、明日から大変だからね」
「――あ、梨沙子からライン来た。二人とも二十三分の快速で帰ったから、もう一度こっちに迎えに来るって。じゃ、俺たちも帰るわ」
「うん、ありがとう」
家族四人で、新しい家族の誕生を祝えたのは嬉しい。が、そこで彩夏は気づいた。
――お義姉さんに、赤ちゃんの顔もまともに見せていなかったなぁ……
妊婦生活もきつかったし、出産はもっときつかった。しかし、赤ちゃんの世話に比べればはるかにマシだ。授乳とおむつ替えはもちろん、何かあるとすぐ泣きだすから、必死にあやさなくてはならない。だが、神様は彩夏を見捨てなかった。
「――そうそう、梨沙子さん上手ねぇ~。手際がいいわぁ~」
丁寧におむつ替えを済ませる梨沙子を、母が大げさに褒めちぎる。そう、退院後は大変だったが、以前にも増して梨沙子がサポートしてくれるのだ。
母は「出産後の母体は交通事故にあったくらい大変」という話を吹聴し、産褥期がいかに大変なのかを切々と説いた。梨沙子はそれを聞き、今まで以上に彩夏と、産まれたばかりの赤子の面倒を見てくれる。夜中の授乳も手伝ってくれたし、夜泣きがひどいときはずっと抱きかかえてくれた。
おかげで、夜中に起こされることもなくぐっすり眠れたのもありがたい。また、梨沙子の方もどんどん子育てが上達してきたようだ。毎日の沐浴、授乳、泣き止まない時の寝かしつけなども上手になってきた。
「上手よ、梨沙子さん。こうやって今から子育ての練習しておけば、本番でも大丈夫だわ」
「ほんとほんと、お義姉さん、いい練習台よね~」
一瞬、梨沙子の目がすっと細くなったように見えた。
「……自分の大事な息子を練習台呼ばわりはないでしょ?」
半笑いの声だったが、目は笑っていなかったように見えた。一瞬、梨沙子が怒ったのかと思った。
「ねぇ~、
くすくす笑いながら息子を抱き上げる梨沙子の表情は、いつもの優しい聖母に戻っていた。
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