聖母の逆襲(前編)

「ママ、ただいまぁ」

 うっとうしい梅雨が明け、蒸し暑さが増してきた初夏。細川彩夏さやかは大きめのスーツケースとバッグを運んでもらいながら、玄関の扉を開けた。古いながらも懐かしい実家。自分がいたころとは、多少しつらえも変わったが、それでもなじみ深い我が家だ。苗字こそ「井上」から「細川」に変わったが、やはりこの井上家も自分の家なのだ。

「さ、入って入って、彩夏さん。暑かったでしょう?」

「お義姉さん、お世話になりまぁ~す」

 駅前で出迎え、ここまで車を運転してくれたのは、兄嫁の梨沙子りさこだ。三年前に兄の康介こうすけと結婚し、今はここで両親と一緒に暮らしている。ほっそりした体つきに、化粧っ気のない地味な顔立ち。髪の毛は後ろで一つにくくっただけ。相変わらず、質素な雰囲気の女性だ。

 影の薄い印象は、兄が初めてこの家に連れてきたころと変わりない。兄はこんな貧相な人が好きなのかと若干拍子抜けしたものだ。とはいえ、井上家の若奥さんとしての評判はそれほど悪くない。今一つ覇気に欠けるのと、いまだ子どもを授からないのがネックだが、結構な働き者らしい。そういえば、玄関も掃除が行き届いていた。

「お帰り、彩夏。ああ、だいぶ大きくなったねぇ」

「うん、歩くのもしんどくなってきた」

 居間でのんびりとテレビを見ていたのは、母親の久美子くみこだ。以前より少しふくよかになり、髪も白いものが目立つようになった。久美子は「よっこらしょ」と言いながら立ち上がると、彩夏の膨らんだお腹を嬉しそうに見てほほ笑んだ。

「あたしもついにお祖母ちゃんかぁ……」

「ママ、しばらくの間、よろしくお願いします」

「いいんだよ、ここはあんたの家じゃないの」

「そうですよ、ゆっくり休んで、元気な赤ちゃん産みましょうね」

 梨沙子が冷えた麦茶を運びながら、にっこりとほほ笑んだ。聖母のような優しい笑顔だった。


「わぁ、すっかりきれいになっている!」

 居間の隣の和室は、埃一つないほどきれいに磨き上げられ、小さいベッドとカラーボックスが一つ置かれているだけ。もとは祖母が使っていた部屋だったが、十年前に亡くなった後は、物置部屋のようになっていた。そこが全て片づけられている。以前はモノがごちゃごちゃあって、そのせいか薄暗く埃っぽかったのだが、今は明るく、居心地の良い空間だ。

 彩夏は早速スーツケースを開けて、着替えや化粧品などの私物を取り出した。

「彩夏ちゃんのお部屋だった二階にしようかなとも思ったんだけど、妊婦さんに階段の上り下りさせるのはちょっと……ね。それに、ここだったら私もお義母さんもすぐ動けるじゃない?」

 祖母がいたころは、背の高い箪笥が窓を遮っていたが、それもなくなっているので、窓から庭がよく見える。その庭も、きれいに手入れされていて、今はユリやトケイソウなどがきれいに咲いているのが見えた。反対側は家庭菜園のようだ。何かの苗が植えられている。

「あの畑……お義姉さんが?」

「うん、おいしい夏野菜があると嬉しいと思って。ナスやトマト、ズッキーニもあるの。もう、いくつかは食べごろだし……そうだ! 彩夏さん、ラタトゥイユは好き?」

「え、好き!」

「じゃあ、今日の晩ご飯はそれにしましょうか。後は、キュウリとツナのサラダにして……メインはお肉とお魚、どっちがいい?」

「お肉食べたい!」

「そう、じゃあチキンの照り焼きなんてどう?」

「うわ~、大好き!」

 おしゃべりをしながらも、梨沙子の手は止まらない。彩夏の荷ほどきを手伝い、着替えの服を畳んだりハンガーに吊るしたりしている。手早く作業を済ませると「それじゃ、買い物行ってくるわ」と部屋を出て行った。

 窓からは爽やかな風。まだ日は高いが、彩夏はベッドに寝転ぶと、そのまますやすやと寝息を立て始めた。

 ――里帰り出産にして、本当に良かった……


 彩夏と夫の慎吾しんごが住むマンションは、ここから車で一時間半ほど。最初はマンション近くの産院で産むという話だったが、初産で不安だと実家に電話したところ、里帰り出産はどうかと言われたのだ。

 慎吾と細川家の義父母は、当初こそ「何もそこまで……」と乗り気ではなかったが、彩夏の拝み倒しが功を奏して、出産後の床上げまで実家で過ごすことが決まった。

 何よりも、実母の「うちは女手がいますから」の一言が効いた。細川家は義母一人なのに対し、井上家は実母と兄嫁がいる。何かあってもすぐ手助けできるというのが利点だった。

 実際、上げ膳据え膳の妊婦ライフは、本当に楽で快適だった。朝はゆっくり寝ていられるし、起きれば梨沙子が朝食を用意してくれる。朝食が済むと、ノンカフェインドリンクを出してくれるので、それを飲みながら母と二人で朝のワイドショーなどを見て過ごす。その間に梨沙子は掃除や洗濯を済ませ、二人の昼食の用意をしておく。十時半になると、彼女は身支度を整え、パートに出勤する。毎日十一時から午後三時まで、駅前のファミレスが梨沙子の職場だという。

 彩夏は何もする必要がなかった。家のことはすべて梨沙子がしてくれる。昼食も用意しておいてくれるし、夕方になれば一番風呂に入れる。風呂上りには手の込んだ夕食も出てくる。

 その間にも、兄や帰ってきた父・康一朗こういちろうの晩酌の用意やら何やらと、梨沙子は一人忙しく立ち回っている。

「ほんと、こんなに楽してていいのかなぁ~」

 梨沙子が剝いてくれたリンゴをかじりながら、彩夏はのほほんとつぶやく。

「いいのいいの、赤ちゃん産まれたら大変なんだから、今のうちにのんびりしておきなさい」

 母ものんびり応える。

「ありがたいなぁ……お兄ちゃん、いいお嫁さん捕まえたね」

「そうねぇ、これで子どもができれば言うことなしなんだけどねぇ、こればっかりはねぇ」

「ねぇ、お義姉さんは不妊治療とかしていないの?」

「康介が嫌がるんだよ。そんなことしないで、自然にできるのを待つって」

「そんなこと言ったって、お義姉さんももうアラフォーになるじゃん」

「だからさ、お前がこうやって赤ちゃん産んだり、子育てしているのを見れば、あの子も少しは本気にしてくれるんじゃないかねぇ」

「だといいけどなぁ」

「それに、梨沙子さんだって子育ての予習になるんじゃない?」

「そうか、だといいね」

「そうだよ、そうに決まっているさ」


 出産がこんなにきつく、辛いものだとは思わなかった。陣痛の痛み、出産の痛み、後産や会陰切開とその縫合の痛み、産後の子宮の収縮の痛み、とにかく何から何まで痛くてしんどかった。

 それでも、生まれたての我が子を見れば、喜びも湧いてくる。駆け付けた夫と義母の秀美ひでみも大喜びでやってきた。

「男の子だぁ、大きくなったら一緒にサッカー観に行こうな」「彩夏さん、頑張ったのね」と口々に喜んでくれる。もちろん、両親や兄もニコニコしていた。が、一人足りない。

「あれ? お義姉さんは?」と兄に聞く。

「ああ、梨沙子なら家で留守番しているよ。後で車で迎えに来てもらうからさ」

 康介はこともなげにそう言った。母もそれに同調する。

「そうそう。慎吾さんたちを駅前まで送ってあげないといけないからね。家で待ってもらっているの」

「あら、そんな。タクシー拾うから大丈夫ですよ。ねぇ、慎吾」

 義母が断ろうとするも、母も兄も「いいじゃないですか、タクシー代がもったいない」と相手にしなかった。程なく、梨沙子が駆けつけてきた。

「すみませんねぇ」「いえいえ、お気になさらず」

 そんな会話の後、三人は車に乗って駅に向かった。

 しばらく話をしていると、看護師がやってきた。やり方を教わりながら、初の授乳だ。

「よっしゃ、お母さん頑張れ~」

「それじゃ、また明日ね」

「そうそう、明日から大変だからね」

「――あ、梨沙子からライン来た。二人とも二十三分の快速で帰ったから、もう一度こっちに迎えに来るって。じゃ、俺たちも帰るわ」

「うん、ありがとう」

 家族四人で、新しい家族の誕生を祝えたのは嬉しい。が、そこで彩夏は気づいた。

 ――お義姉さんに、赤ちゃんの顔もまともに見せていなかったなぁ……


 妊婦生活もきつかったし、出産はもっときつかった。しかし、赤ちゃんの世話に比べればはるかにマシだ。授乳とおむつ替えはもちろん、何かあるとすぐ泣きだすから、必死にあやさなくてはならない。だが、神様は彩夏を見捨てなかった。

「――そうそう、梨沙子さん上手ねぇ~。手際がいいわぁ~」

 丁寧におむつ替えを済ませる梨沙子を、母が大げさに褒めちぎる。そう、退院後は大変だったが、以前にも増して梨沙子がサポートしてくれるのだ。

 母は「出産後の母体は交通事故にあったくらい大変」という話を吹聴し、産褥期がいかに大変なのかを切々と説いた。梨沙子はそれを聞き、今まで以上に彩夏と、産まれたばかりの赤子の面倒を見てくれる。夜中の授乳も手伝ってくれたし、夜泣きがひどいときはずっと抱きかかえてくれた。

 おかげで、夜中に起こされることもなくぐっすり眠れたのもありがたい。また、梨沙子の方もどんどん子育てが上達してきたようだ。毎日の沐浴、授乳、泣き止まない時の寝かしつけなども上手になってきた。

「上手よ、梨沙子さん。こうやって今から子育ての練習しておけば、本番でも大丈夫だわ」

「ほんとほんと、お義姉さん、いい練習台よね~」

 一瞬、梨沙子の目がすっと細くなったように見えた。

「……自分の大事な息子を練習台呼ばわりはないでしょ?」

 半笑いの声だったが、目は笑っていなかったように見えた。一瞬、梨沙子が怒ったのかと思った。

「ねぇ~、唯人ゆいとちゃん、『ボクは練習台じゃないでちゅ~』ってね」

 くすくす笑いながら息子を抱き上げる梨沙子の表情は、いつもの優しい聖母に戻っていた。

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