継母の逆襲(後編)
「……こちらで働いていたんですか」
「久しぶりですね、田本さん。お茶でもどうぞ」
田本さんが軽井沢を訪れたのは、夏の避暑地シーズンをだいぶ過ぎ、観光客の姿もまばらになったころだった。
「知り合いのつてでね。ギャラリーでスタッフを探しているって言われたの」
ハワイアンキルトを展示販売しているギャラリーは静謐な空気が流れていて、都会の喧騒とは無縁だ。
対照的に、いつもはつらつとしている彼女が、いつになく落ち込んでいる。
「田本さんがいらっしゃるということは、あの噂、本当なんですね」
「ええ、本当です」
暗い顔で、しかしきっぱりと彼女は言い切った。奈々が所属事務所との契約を解除し、独立するというのだ。
「何度も説得したのですが、聞き入れてくださらなくて……」
子役には限界がある。そう話してくれた田本さんは、だからこそ仕事を十分に吟味してから引き受けている。だが、それが裏目に出たらしい。
「お父さんと『あの人』は、仕事が減った、もっと稼げるはずだ、と。そしてもっといい仕事を取ってこいの一点張りで……」
田本さんらしい配慮で悪しざまには言わないが、夫とマユカが欲をかいているのは分かる。それまで人気子役として売れっ子だったから、余計に焦りを感じるのだろう。
「それで、あの二人は自分たちで事務所を設けて、独立しようというのでしょうね」
「はい……」
「奈々はどう考えているのでしょう?」
「最近、私ともあまり話してくれないのです」
「ストレスでやけ食いとかしていませんか?」
「どうしてそれを……?」
翠はふっと笑った。
「血はつながっていないとはいえ、あの子の母親ですからね。最近、テレビであの子を見て、ちょっと太ったかなと思ったもので」
「……そうですか」
「田本さん、あなたには長いことお世話になりました。でも、もう彼女は私たちの手の届かないところに行ってしまいました。残念ですが、彼女の現在の保護者である藤田たちが独立するというなら、それしかないのでしょう」
「……はい、残念です」
「もし、彼女が元の事務所に戻りたいと言ったら、その時は口添えをお願いします。正直、今の私にはそれしか言えません。何だかんだ言って、生みの親には逆らえませんから……」
「はい……奈々ちゃんのこと、守り切れずに、すみませんでした」
涙ぐむ彼女を見送って、翠は茶器を下げた。
ギャラリーの小さい給湯室で後始末をしながら、なぜか彼女は鼻歌交じりで上機嫌だった。
ろくに業界のことも知らない健介とマユカが、奈々を強引に独立させたことは逆効果だった。大手事務所の看板がない子役上がり。しかも親の醜聞も絡んでは、スポンサーが二の足を踏むし、業界で干されても無理はない。
奈々が高校生になる頃には出演本数も激減し、彼女にまつわる話題もネガティブなものが増えた。業界で干されている噂話だけでなく、盗み撮りされた写真で「奈々ちゃん、ストレスで激太り!」報道も出た。
極めつけが、飲酒と喫煙の写真を撮られたことだった。当時の彼女は十八歳。未成年の少女が缶ビール片手に紫煙をくゆらせていたのだ。かろうじて契約していたCMは打ち切り、ちょい役で出演していたドラマは降板となった。おそらく、それなりの違約金を支払うことになるだろう。それでなくとも素人が作った会社だ。経営もずさんで火の車であることは容易に想像がつく。もしかしたら、こちらに助けを求めてくるかもしれない。
翠は即座に携帯電話を買い替えた。店員には「離婚した夫がしつこく電話してくるから」と言い、前の番号は解約した。さらに健介たちが訪ねて来ないよう、家を売り払った。売った金はそれなりの額になったので、半年ほどハワイのコンドミニアムで暮らすことにした。
――そういえば、昔ちょっとだけフラダンスを習っていたのよね……。
現地でフラのワークショップを申し込み、慣れない英語に戸惑いながら過ごす時間は楽しかった。もっとやりたいと思った翠は、本格的な移住を考えるようになった。大人向けのフラダンス留学があると知り、次はそれを目標に決めた。
半年ぶりの日本で買った週刊誌。グラビアページに、きわどい肢体をさらしている奈々の姿があった。おおかた借金返済のために脱ぐしかなかったのだろう。ネットで芸能ニュースを検索すれば、奈々に対する憐れみと同情と嘲笑が渦巻いている。パラパラとめくった後、翠はその週刊誌をゴミ箱に放り込んだ。
かつての人気子役が、お騒がせ女優と化すのには、そう時間もかからなかった。既婚者との不倫、自殺未遂、摂食障害にホストクラブでの乱痴気騒ぎなどを面白おかしく書き立てられる。
そして、最後に来たのが薬物事件だった。マスコミが、子役時代の奈々をよく知っている翠の所在を突き止めてやって来るのは時間の問題だ。だからこそ、翠はフラダンス留学という口実でこの国を離れるのだ。
二十二年前の夫の不倫。初めから許すつもりなどなかった。夫も、浮気相手も、そして不義の子である奈々も、だ。
奈々を見捨てたマユカだが、奈々が金の卵を産むガチョウと分かればすり寄って来ることは想像がついた。だからこそ翠は奈々を子役として売り出したのだ。
そして子役としての「賞味期限」が切れかける頃を見計らって、あの二人に奈々を託す。子役時代の稼ぎを知っている二人は有頂天になるだろうが、その頃にはもうピークを過ぎているのだ。奈々のギャラをあてにしていたであろう二人が焦って下手を打つのも計算済みだ。親が子役の稼ぎを骨の髄までしゃぶり尽くした挙句、莫大な借金を背負わせるような話は枚挙にいとまがない。それを知っていたからこそ、翠は一番おいしい時期を十分に食べ尽くし、残りかすを差し出したのだ。今の翠の資産だって、奈々の稼ぎからそれなりの金を抜き取り、自分の財テクに組み込んだ結果だ。
――もう少し堅実に過ごせば、せめて事務所を辞めて独立などしなければ、もう少しマシだったろうに……
せいぜい親子三人水入らずで、仲良く滅びればいい。
翠は機内サービスのワインを口にし、にんまりと微笑んだ。
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