継母の逆襲(前編)

 「藤田奈々(二十二歳)、覚せい剤で逮捕!」「CMも即刻契約解除か」「のしかかる違約金は誰が?」

 売店の店頭に並ぶスポーツ新聞や週刊誌。おどろおどろしい見出しが並ぶのをちらと横目で眺めつつ、その中年女は駅構内を通り抜け、空港カウンターへと向かう。

 明るい栗色の髪。大ぶりのサングラス。ベージュのパンツスーツは生地が柔らかく、カジュアルさを程よく残した造りになっている。スーツのインナーはシンプルな黒のTシャツ。ピアスとペンダントは葉っぱをモチーフにしたお揃いのデザインになっている。シンプルだが、それなりに金はかかっているようだ。

 女は空港のカウンターで搭乗手続きを済ませた。

 佐野翠、五十七歳。行き先はハワイ。

 どうせ今頃は、翠が住むマンションに報道陣が集まっているのだろうけど、そんなのはとっくにお見通しだ。別に逃げるわけではない。ハワイに留学に行くという、れっきとした目的があるのだ。

小一時間後、飛行機に乗り込んだ翠は、ビジネスクラスの機内でのんびりとくつろぎながら、一冊だけ購入した週刊誌をめくる。巻頭記事は例の事件についてだ。あどけない笑顔を見せる昔の写真の隣に、連行されている今の写真を並べるなど、編集者の悪意に満ちた見せ方があざとい。

周囲に彼女を知る人はいない。彼女が今まさに話題になっている、元・人気子役の女優・藤田奈々の母親だったことなど、今この場に乗り合わせている人も、客室乗務員も、誰も知らないのだ。

――もう、二十二年も経つのか……あっという間よねぇ。

 

奈々の実の母親は、夫・健介の浮気相手だった。翠が不妊治療で奮闘しているときに、二十歳そこそこの娘とよろしくやっていたらしい。明るく染めた髪に濃い化粧が印象的だったが、目鼻立ちは整っており、けっこうな美人だった。

とはいえ、子どもができたのは夫にとっても予想外だったらしい。おおかた避妊具に針で孔でも空けていたのではないか、とは後の彼の弁だった。

浮気相手は「子どもができたから産む。離婚して私と一緒になってほしい」と言い、夫は夫で「離婚はしたくない、子どもは堕ろしてほしい」の一点張りだった。

二人がさんざん言い争う中、翠がようやく口を開き、二人の今後について要望を出した。

・離婚はしない

・子どもは産むことを許す

・生まれた子どもはこちらで養育する

「それって、アタシから子どもを奪うってこと?」

食ってかかる浮気相手に、翠は冷酷に告げた。

 「私は妻として、あなたに慰謝料を三百万円請求します。しかし、この条件を飲んでくれるなら、その請求は取り消します」

「そんな……」

青ざめた浮気相手に、翠は今度はやさしく微笑んで淡々と説得する。

「その若さで、一人で子育ては難しいでしょう。その上に慰謝料の支払いが加われば行き詰まることは確実です。だけど、生まれる赤ちゃんには罪はないわ。産みたいのでしょう? 下手に中絶して、後に赤ちゃんが埋めなくなった女性の話も聞くでしょう? 大丈夫、私たちが責任をもって大事に育てます。それに、大きくなって物事の分別がつくようになったら、その時は『私が本当のママよ』って再会すればいいのよ」

浮気相手の女は、黙り込むしかなかった。


半年後、女の子が生まれた。「奈々」と名付けられ、翠は我が子同様に可愛がって育てた。離婚したくないという夫を上手く立て、産みたいと言い張る浮気相手の要望を聞いてやる。しかしその一方で浮気相手から実質的に子どもを奪い取り、養育費をびた一文出さずに済んだ。健介はこれで当分翠に頭が上がらないだろう。

もっとも、当の健介は娘の存在に「こんな可愛い子、堕ろさなくて良かった」と自分の言ったことも棚に上げてメロメロになっていった。

確かに奈々は可愛らしかった。乳幼児健診などに連れて行くと、医師や看護師、他のお母さんたちが「可愛いわねぇ」と声をかける。翠は、多忙な育児の合間を縫って、いくつかの事務所に電話をかけ、資料を取り寄せ始めた。


奈々のデビューは、生後四か月。おむつのCMポスター撮影が彼女の初仕事だ。ここでも夫は有頂天で喜んでいた。翠が打診したのはキッズタレントの事務所。幸いなことに、すぐに契約を結ぶこととなり、仕事は途切れることなく続いた。おむつの次はミルク、離乳食、そして子ども服やランドセルなど、幼稚園に上がるころには下手な大人より稼ぐようになっていった。

「……お前には本当に感謝しているよ、翠」

ある日の夜、奈々を寝かしつけて居間に戻ると、健介がしみじみとそうつぶやいた。

「俺が悪いのに、お前は奈々を我が子同然に育ててくれている」

「いいのよ。それに奈々にキッズモデルをさせるのを反対しなかったでしょ」

「それは、お前がマユカに会わせるためにって……」

浮気相手で奈々の生みの親であったマユカは、奈々を翠たちに引き渡した後、行方をくらましていた。子どもを奪われ、当てにしていた養育費ももらえないことで望みがないと感じたのか、それは分からない。一応、夫の不始末を詫びるのと、産後の体をいたわるための意味を兼ねて、ある程度まとまった金を渡してはある。しかしマユカからは、詫びの一言もなかった。

「俺が言えた義理ではないんだが、あんな女に会わせることはないんじゃないか?」

「それでも、奈々には本当のことを知る権利はあるし、マユカさんは実の娘と会う権利はあるわ。奈々がモデルをやっていれば、いつかどこかで、マユカさんが気づいてくれるでしょ」

もっと現実的なことを言えば、今や奈々は我が家の稼ぎ頭になりつつある。最近では事務所側も厚遇してくれるようになり、ギャラも上がり専属マネージャーが付くようになった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る