奥様の逆襲(中編)

 ――どんな女か見てやろう。

 そんな下衆な気持ちで入会した教室は、しかし思いのほか居心地が良かった。それは、ターゲットだったはずの澄子さんの人柄の良さもあったのだろう。また、どういうわけか澄子さんがサヤのことを気に入ったフシもある。気が付けばレッスン後のお茶を一緒に楽しんだり、旅行のお土産をもらったりするようになっていた。

 同じ教室のお稽古仲間としてなら、とても居心地の良い関係だったのではないか。そんなことも考えるようになったのも無理はない。

 「実は私ね、北海道に山林を持っているの。将来はそこでプチホテルをやりたいのよね。だからそのために、テーブルコーディネートを学んでいるのよ」

 教室の新年会を終えた後、二人だけで行ったホテルのバーで、澄子さんはサヤにそう打ち明けてくれた。

 「えー、澄子さんスゴい!」

 「私の叔母がね、遺してくれたの。叔母は子どもがいなかったから、姪の私を可愛がってくれてね。何にもないド田舎なんだけど、春は山菜が採れるし、秋はキノコがいっぱい生えているの」

 五十を迎えてなお、新しいことに取り組もうとする澄子さん。誰にでも分け隔てなく、親切で穏やかで、こんな自分にも優しく接してくれている。年上の女性にありがちな上から目線も全くない。

 ――私はこんないい人から、夫を奪おうとしていたのか……

ほだされたのかもしれない。でも、この人に比べ、自分の思い上がりが嫌になる。

 「ねぇ、サヤさん。春になったら見に来ない? 私の山林」

 「え、いいんですか?」

 「もちろんよ。何にもないけど、自然だけは豊かなの。運が良ければキタキツネの親子も見られるのよ」

 「わぁ、見たいです!」

 「じゃあ、一緒に行きましょう。予定、空けておいてね」


 五月も半ばと言うのに、遠くには残雪が見える。

「澄子さん、あれは? 大丈夫なんですか?」

大きい道路から脇道にそれると「この先私有地につき立ち入り禁止」と書かれた通行止め用の柵が見えた。澄子さんは車から降りると、その柵の鍵を外し、再び車に乗り込んで車を発進させた。

「そう、ここからが私の私有地なの。こうしておかないと、勝手に山菜とか取りに来る人がいるのよね~」

「え~、そうなんですねぇ」

「少しくらいならおすそ分けしてやってもいいけど、中には根こそぎゴッソリ引っこ抜いていく人や、ゴミを放置するような質の悪いのもいてね。一度なんか、焚き火した跡があって肝を冷やしたわよ。山火事になったらどうすんのよー!って」

「うっわ、最低!……って、おっとっと」

「あらら、気を付けてね。道が悪いから」

先ほどの舗装された道とは違い、ただの砂利道は結構揺れる。澄子さんはハンドルをしっかり握りながら、その砂利道を飛ばしていく。

程なく見えたのは、大きな木々に囲まれた一軒の廃屋。街中の公園並みに広い敷地内は、もう長いこと耕していないらしい畑だったらしい。建物が相当古いのは素人目に見ても分かる。長いこと誰も住んでいないのだろう。窓には板が貼られ、誰も入れないようになっている。隣にはだいぶ朽ちているガレージ。かなり大きいのは、農機具用のためだろうか。片隅には古タイヤやさび付いた自転車などが積み上げられている。

「こんなところに、ぽつんと一軒家……」

「あらやだ、サヤさん。どこかのテレビ番組みたいなこと言って」

澄子さんがころころと笑う。

「叔母は七十までここで一人暮らしでね。犬を飼って、畑を耕して、のんびり年金暮らししていたの。ただ、そのあと脳卒中で倒れてね。こんな辺鄙なところだから発見が遅れて、命こそ取り留めたけど、麻痺が残って施設で八年ほど暮らして亡くなったの」

さび付いた自転車やスコップなどは、その叔母の持ち物だったのだろう。サヤはぐるりと周囲を見回した。

「ここを改築するんですか?」

「そうねぇ、土台が腐っていないならそうしたいけど、無理かも。ま、ダメなら取り壊して一から立て直しかな? さ、コーヒー淹れましょ」

そんなことを話しながら、澄子さんは車からアウトドア用品を次々と取り出した。

「手慣れてますね~」

「そりゃ、何度も来ているから。あの家は今、電気も水道も使えないのよ」

澄子さんはコーヒーミルやケトル、小型バーナーなどを次々と取り出していく。

「よし、最後は水ね。ちょっと待っててね。この先に湧き水があるの。これで淹れるとおいしいのよ。今汲んでくるから」

澄子さんは空の大きなペットボトルを手に、すたすたと廃屋の裏手に進んでいった。

一人その場に残されたサヤは、スマホを取り出した。やはり電波は通じないようだが、ラインにはおびただしい数の彼からのメッセージが並んでいる。

一昨日、敏夫には「もう、会いません」とだけ伝えた。

だが彼はそれを受け入れず、何度もラインでメッセージを送ってきた。

「待ってくれ」「話を聞いてくれ」「妻とは本当に別れるから」と、追いすがるような内容から「他に男ができたのか」「俺は絶対別れないぞ」「無視するな」「既読スルーするな!」と、次第に怒気を含んだ言葉遣いになっていくのも薄気味悪かった。百年の恋も一気に冷めるとはこのことか。

 要するに敏夫は、手元に若くてきれいな女を侍らせたいだけなのだ。妻とは離婚せず身の回りのことをしてもらい、自分だけは見た目のいい女と面白おかしくひと時を過ごせればいい。……なんて不実な男だろう。

「あなたの奥様と会いました。とてもいい人なので、彼女をこれ以上裏切ることはしたくないのです。だから、別れます」

 そう返信したものの、当然ながらここでは送信できない。サヤは送信を取り消した。

 「サヤさん、お待たせ~~。ごめんね、遅くなっちゃったぁ!」

 息を切らして澄子さんが戻ってきた。見れば片手に水の入ったペットボトル、もう  片方の手には何やらいろいろな草が入っているスーパーのレジ袋を提げている。

 「いや~、湧き水のすぐそばに、もうこんなに山菜が生えていたのよ! つい夢中になって採ってきちゃった。ちょうどポケットにレジ袋入れていたし、ラッキー!」

 子どものように喜びはしゃぐ澄子さんに、サヤは涙が出そうになった。

 「この山菜でちょっとしたごちそうを用意するわ」

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