奥様の逆襲(前編)

 五月の北海道は冷涼を通り越し、少々寒いくらいだ。見渡す限り、田畑が広がるのどかな一本道を、澄子さんは楽しそうにドライブしている。

 「サヤさん、退屈じゃない? 乗り物酔いとかしていないわよね?」

 「大丈夫です。それよりも、北海道って本当に広いんですねぇ」

 「ふふ、なーんにもないけど、土地だけは広いからねぇ」

 彼女はいつにも増してご機嫌だ。小柄な体に似合わず、大ぶりのSUV車を鼻歌交じりで運転している。こんなワイルドな一面もあるのかと、サヤは今さらながら彼女の人となりに感服する。

 「あ、あのサイロが見えてきた。…ってことは、あと30分くらいで着くわね。着いたらコーヒーでも淹れましょうね」

 「はい」

 サヤはちらりと自分のスマホに目をやった。昨日から、ラインにはすさまじい数の通知が来ているので、通知をオフにしている。

 「あ、ここって圏外?」

 「あー、そうかもね。北海道内の山間部って、大手の携帯会社でもつながりにくいところがあるのよ。誰か連絡したい人でもいる?」

 「いいえ、大丈夫です。むしろ、いちいちラインとか来ないから静かでいいかも」

 「あらあら。でもそうかも。私も鬱陶しい旦那から離れてリフレッシュできるしね、うふふ…」

 澄子さんとは知り合って約二年になる。いつもにこやかで、朗らかで、娘ほど年の離れたサヤに対しても年上ぶったことは言わず、一人の友人として対等に付き合ってくれる。

 今日は澄子さんに誘われ、春の北海道でドライブ旅行としゃれこんだのだ。

 サヤはスマホの電源を切った。これで万が一、彼から電話がかかって来ても、ラインが来ても大丈夫だ。

 

 ――そうだ、もう彼とは別れるのだ。そして、澄子さんに洗いざらい打ち明けて謝ろう。

 サヤは、不倫相手の妻の横顔を見ながら、そう誓った。


 澄子さんの夫・敏夫との関係は、四年ほど前にさかのぼる。いわゆる「パパ活」で知り合い、食事や酒を一緒に楽しむ仲だった。不動産会社を経営している敏夫は羽振りが良く、見た目が華やかなサヤを着飾らせて連れ歩くのを楽しんでいた。もともとそれなりの育ちらしく、振る舞いはスマートだし成金のようなガツガツしたところもない。

 彼に妻がいることは知っていたし、家庭を壊す気などなかった。なのに、気が付けば不倫関係に陥っていた。体の関係が進むにつれ、敏夫は時折妻への愚痴などをこぼすようになっていった。

 「僕らの間には子どもができなかった。不妊治療もしたが、結局途中でダメになってね。その頃から妻とは溝ができ、すれ違うようになっていったよ……今じゃ家の中が冷え切っているんだ……」

 帰宅しても出迎えてくれるのは飼っている犬だけ。食卓を共にすることもない。彼女は趣味の集いだ何だと出歩くことが多く、会話も必要最小限。サヤがそんな話を聞くうちに「自分ならそんなことはしないのに」と思うようになるのも無理はなかった。

 「彼の支えになりたい」。それはやがて、敏夫と結婚し、彼の子を産みたいと思うまでに至った。友人たちが相次いで結婚したり出産したりするのを見て、焦りを覚えるようになったのも一因だ。

 しかし、敏夫はそんなサヤの願いをのらりくらりと交わすばかり。しびれを切らしたサヤは、敏夫の妻にこっそりと接近してみようと思い至った。もちろん、彼には秘密でだ。


 「今日からご一緒させていただきます。よろしくお願いいたします」

 作り笑いで先輩たちに挨拶すると、みな意外にも人懐こそうな笑顔で受け入れてくれた。

 「こちらこそよろしくね」「若い人が来てくれてうれしいわ」「ウチは和気あいあいとしているから~」

 とあるホテルの一室を借りて月に二回行われる、テーブルコーディネート教室。澄子さんはそこの生徒の一人だった。敏夫との会話の端々から妻の名前が「澄子」ということを知った。そして彼女が通っているという習い事の教室を、SNSなどを頼りに調べ上げ、敏夫には内緒で入会したのだ。

 一流ホテルの部屋で行うテーブルコーディネート講座。食器やカトラリーはそれなりの高級品だし、講師の女性は外交官の妻として欧米で暮らした経験を生かして教室を始めたという。集う生徒も有閑マダム風なのや、金持ちっぽいが職業不詳なオーラをまとう女たちと個性豊かな顔触れである。

職業不詳という意味では、サヤも同類だ。見た目は悪くないし、一応はモデル事務所に籍を置いているが、モデルのギャランティよりパパ活やギャラ飲みの方が稼げるのだから。

――で、彼の奥さんが……アレか。

そして、敏夫の妻と難なく顔見知りになれたのである。


「やっぱり若い人はセンスがいいわねぇ。和紙をこんな風に使うなんて、思いつきもしなかったわ、ねぇ先生?」

「そうですね。こういう和風テイストは外国の方が喜びそうよね」

「えー、そんなぁ。照れくさいですぅ」

澄子さんはサヤのつたないコーディネートを高く評価してくれた。そこに嫌味や悪意は全く感じられない。

――ただのオバさんじゃん。なんであの人はこんなのと離婚しないんだろ。

彼女の第一印象はそれだった。あの敏夫の妻だから、それなりに金はかかっているのだろうが、小金持ちのオバさんでしかない。髪も肌も年相応だし、体系も丸みを帯びている中年体形。

――アンタ、知らないでしょ。アタシはアンタのダンナと深い関係なのよ! アンタなんて、もう何年も彼に抱かれていないんでしょ!

そんなことを言い放ちたいのをぐっとこらえて、彼女と当たり障りのない話をするのが痛快だった。いつ彼女に本当のことを言ってやろうか。真実を告げたら、彼女はどんな顔をするだろうか。サヤはぞくぞくしながらその時を空想して悦に入っていた。

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