発我大根

古博かん

発我大根(ハツガ ダイコン)

 ある日、畑の真ん中で、一本の大根が自我を持ちました。


 なぜ急に自我に目覚めたのかなんて、誰にも分かりません。まるで雷鳴が轟いたように、ぴーんと大根の中に、何かが起こったのは確かです。ただ言えること、それは、今や大根はしっかりと自己意識を持っているということです。


「あ、そんなに強く引っ張らないでください」


 収穫にやってきたおばあさんに、大根は丁寧にお願いしました。おばあさんは、束の間きょとんとした表情を見せたものの、大根のお願いどおり、丁寧に優しく扱ってくれました。

 丁寧に収穫された大根は、丁寧に洗われて、選別されます。自我を持った大根は、少し大きすぎて形もイビツだったため、おばあさんの家にしばらく留め置かれることになりました。


「あら、立派な大根ね」

 少し育ちすぎかしら、と言いながら、その家のお嫁さんが自我を持った大根を台所の脇のスーパーの袋に取り分けました。


(はて、これは熟成期間なのか?)

 大根は、袋の中で考えます。

 そのまま、二日経ちました。


 大根はまだ、リビングに隣接した台所の大きなスーパーの袋の中にいました。この二日で、仲間の野菜たちが増え、一緒になって収まっていたのですが、二日もじっとしていたので、大根は妙にウズウズしてしまい、体を斜めにして体勢を変えようと試みました。


「むむ、これはいかん」

 ——ぼとん。ごろごろごろ……

 大根は、昨年新しく敷き直された無垢のフローリング床に転がり落ちてしまいました。


「やれやれだ」

 肌触りの良い無垢材の上に横になったまま、大根は静かに溜息を吐きました。


 しかし、自我を持った大根は非常に前向きです。折角なので、そのままリビングまで転がって行くことにしました。


 年々足腰の弱るおばあさんのために、台所からリビングまで一部の段差もないフローリングは、大根が転がるにも打って付けでした。

「快適、快適」

 ごろん、ごろんと楽しそうにフローリングを転がる大根を、袋の野菜たちは羨ましそうに眺めています。


 辿り着いたリビングには、誰もいません。

 誰もいないのに、テレビだけは明々と付いていました。


「これは一体なんだ?」

 やかましいその薄っぺらな四角いものが、テレビという文明の利器であることを、大根は知りませんでしたが、とても面白そうだったので、しばらく見ていることにしました。

「実に興味深い」

 大根には目も耳もありませんでしたが、ちゃんとテレビから流れる情報を理解していました。

 なぜそんなことが可能なのか、そんなことは誰にも分かりません。ただ言えること、それは大根がテレビに興味を持ったということです。


 大根にとって、とてもとても憂慮すべき情報が流れてきました。

 世界中で、人間が肉を食すことに否定的になっているというのです。


 牛肉は環境破壊だからダメ。

 鶏肉と豚肉はインフルエンザに感染したからダメ。

 魚は減っているからダメ。


 世間には消費されることなく余っている肉が、どんどんと廃棄されていると言います。とても新鮮で美味しそうな肉なのに、人間は食べるなと言い、食べるのをやめようと言うのです。

 羊肉やヤギの肉も、あらゆる魚介類もダメと言われる日も、じきに来るでしょう。

 そればかりか、代わりに野菜を肉として食べようと言うではありませんか。

 野菜が、肉の代用になると言うではありませんか。


「何を馬鹿なことを。野菜は肉ではない!」


 テレビが垂れ流す恐ろしい情報に、大根は憤慨します。

 本来雑食である人間が、肉を食べようとしない。野菜を肉だといい、昆虫まで栄養だと言い出す。

「一体人間は、何を考えているんだ」

 賢いはずの人間が、これ以上ない愚かなことを言っています。このままでは、いつ他の肉食の動物たちまでが肉断ちを始めるか分かったものではありません。


 大根は考えるごとに、不安になっていきました。

 肉がダメならと、今や世界中の野菜が狙われています。いかに野菜を肉らしく仕立て上げるかで盛り上がり、持ち寄った、見るも無惨な姿に変えられてしまった野菜たちを互いに自慢し合っているのです。


 野菜たちのを何だと思っているのか、人間たちに問い正したい大根の憤りを、誰か分かってくれるでしょうか。

 このまま人間の横暴を許していては、この世の野菜たちは、肉と称して必要以上にもぎ取られ、食い荒らされて、いずれ全滅してしまうかもしれないのです。


 いいえ、人間だけではないかもしれません。

 世界中の肉食の動物たちまでが、ある日一斉に野菜に群がる日が来ないとは言い切れません。犬や猫、いいえ、ネズミから百獣の王、空の狩人までもが、野菜を狙い始めるかもしれません。


(これは、一体どうすれば)

 大根は怖くなって身震いしました。


 なぜ大根が犬や猫、ネズミや百獣の王、空の狩人が肉を食べる動物であると知っているのか、そんなことは誰にも分かりません。ただ言えること、それは、大根は近い将来起こるかもしれない野菜大虐殺に怯えているということです。


(一体、どうすれば)

 大根は必死になって考えました。


 その時、この家のお嫁さんがやってきて、リビングに転がっている大根に小首を傾げながら、もとのスーパーの袋に戻してしまいました。


 袋の中でも、大根はずっと考え続けました。


 その日の夕飯に、仲間のジャガイモが数個体、皮をむかれて、ぶった切られて、グツグツの鍋の中に放り込まれる様を見て、大根はまたも身震いしました。


「今日の夕飯なにー?」

「ふふふ。じゃがいもがお肉に変身するわよ——?」


 あまりに大きく身震いしたため、スーパーの袋がカサカサ、カサカサと音を立てました。この家のお嫁さんが、恐怖に引きつった表情で大根の収まっている袋を睨みつけます。

 そしてしばらく、袋の周囲や冷蔵庫の下らへんに、隈なく視線を走らせ、それから「ホイホイ置いておかないと!」と息巻きます。そして、容赦なく切り刻んだジャガイモを、肉になると言いながら鍋に放り込んでいきました。


「いただきまーす」

 一家が賑やかな食事を始めます。野菜たちが、次々と平らげられていきます。その光景に怯えながらも、大根は考え続けました。


「明日は、大根ステーキにしましょうか」


 考え続けた結果、大根は自分の身は自分で守るしかないと結論を出しました。夕飯を終え、食器を洗い終えたお嫁さんたちが台所から出て行った時です。


 大根は、「南無三!」と叫んで、再びごろごろと袋から転がり出ました。転がり続けてリビングを横切り、尚も転がり続けて玄関に到達しました。

 あとは、待つだけです。

 このドアさえ開いたら、さっと飛び出して転がり出て行くつもりなのです。じっと物陰に隠れて、大根はその瞬間を待ち続けました。


 何時間も待ち続けて、夜が明けました。早朝、誰よりも早起きのおばあさんが、のっそりと起きてきて、新聞を取りに行くためにカチリと扉を押し開けました。


「今だ——!」


 大根は開いたドアの隙間から、疾風のごとく躍り出て、唖然として見送るおばあさんには目もくれず、一目散に転がり出て行きました。


 新しい世界へ、大根は飛び出していったのです。


 何が待ち受けているのか、何が起こるか分からない世界へ飛び出していったのです。

 なぜ大根が急に自我に目覚めたのかなんて、誰にも分かりません。ただ言えること、それは大根は、今や自分の行く道は自分で決めて生きていくということです。


 そして翌日、自我を持った大根に続いた自我を持った野菜たちが、次々と、何が起こるか分からない世界へ飛び出して行ったのです。

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