【5/16 文学フリマサンプル】聚合怪談_一本目

丑三五月

第1話石鹸


 大分昔の話になると、彼女は聞かせてくれた。


 当時貧乏学生だったYさんには、一つ楽しみがあった。

 女性の一人暮らしに今なら考えられないことだが、当時彼女が暮らしていたのは年季の入ったアパートで、風呂無しのトイレも共同、一室毎についている鍵もゲームの宝箱を開ける様なレトロな鍵、誰もが脳内で直ぐに思い描ける典型的なボロアパートだ。

 住まいに不満が無いといえば嘘になるのだが、殆ど家出同然で上京してきた彼女にとって、そこの家賃の安さはとても有難く、変え難い条件であった。そんな苦しい生活の中見出した唯一の楽しみ、それはアパートから歩いて十分程の場所にある銭湯だ。

 決して毎日は通えなかったが、手持ちの金が多い時は必ずそこに行き、疲れた体を癒し、風呂上がりにはフルーツ牛乳を飲む。少し熱めの湯で温まった身体にその美味しさは良く染みた。

 暫く通っていると、番台をやっているお婆さんとも仲良くなった。都会の生活に揉まれていた彼女にとって正にそこは憩いの場、風呂に入るという事は彼女にとって非常に充実した時間となる。そのうち仕事にも慣れて稼ぎが良くなって来た頃には、夜遅くになって入る日も増えた。

そんな時、彼女はある事に気が付く。

 夜の十時を回った頃に風呂に入ると、人は大分疎らで静かなものなのだが、必ず同じ洗い場の前に、一つ石鹸が置いてあるのだ。

 鏡の前、少しだけ段になっている場所にそれはぽつんと置かれている。この銭湯には備え付けの石鹸は置かれておらず、身体を洗う道具や石鹸は利用する客が各々用意する必要があった。

 始めのうちは誰かの忘れ物かしら? と思っていた彼女だったが、別の時間に来ると何も置かれていないのに、必ず夜十時を過ぎるとそれはそこに現れる。そんな事が暫く続いたので、彼女はもしかしたら、朝風呂にも来る常連客の人が場所取りの為に置いているのかもしれないと思い直した。

 それから暫くはそれに気をとめることもなかった。あの日が来るまでは。


 その日、彼女が銭湯に着いたのは夜の十時半を過ぎた頃だった。銭湯は十一時には閉まってしまうので入るのに少し迷ったが、一応中を覗いてみた。すると顔見知りとなった番頭さんが出るまで開けていてくれるというので、お言葉に甘えてお湯をいただくことにした。

 脱衣場の状況を見るに既に他の客は帰路に着いた後で、まだ残っているのはYさん一人だ。

 人のいる温かみのある浴場も心地よいが、やはり貸切状態という状況にはまた違った魅力がある。彼女は洗い場で身体を浄め、湯船に浸かった。日々の疲れを湯にとかしていると、ふと、湯けむりの向こう側に人影があるのに気が付いた。

 番頭のおばあさんが点検の為様子を見に来たのだろうか、彼女はそう思ったが、どうやら違うらしい。

 目を凝らして煙の向こう側に集中すると、それは若い女性であることに気が付く。俯き気味の格好で風呂椅子に腰掛けている為、長い黒髪が顔に掛かっていて表情は此方から見えない。その女性はまさしく、例の石鹸が置いてある鏡の前に座っていた。

 それに気が付くと同時に、Yさんはあの女性が何時も置いてある石鹸の持ち主なのではと思い至る。

 嗚呼、もしや彼女も何時もは十時頃に来るのだけれど、今日は遅くなってしまったのかなと想像した。そして、毎日石鹸を場所取りに使うくらいの常連ならば、番頭さんも自分と同じ様に通してくれたのかも、勝手にそう結論付けた。

 Yさんがぼんやりと想像を巡らせている間に、それまで座っているだけだった彼女がようやく何時も置かれている石鹸に手を伸ばす。自分の手でそれを念入りに泡立てて、また鏡の前に石鹸を戻し、自分の身体を抱きしめる様にして両手を這わせる。どうやら身体を洗う時、タオルを使わない派のようだ。

 女性の手は始めの頃は自分の二の腕を軽く摩る形で身体を洗っていたのだが、その内、その手はスピードを上げて何度も同じ場所ばかり擦り続ける。

 何度も何度も二の腕を擦るその手は、徐々にスピードが上がってくる。腕を擦る度女性の身体が前後に揺れる。それがどんどん大きくなっていく。身体を掻きむしる女の黒い髪が湯けむりの中でバサバサと揺れる。なのに、不思議と横顔は見えない。

 Yさんは我を忘れて、その様子をぽかんと口を開けたまま呆然と見詰めていることしか出来なかった。腕を擦り続ける手は止まらず遂に泡に赤い色が混じり始める。摩っていた手はいつの間にか爪を立てて肉を抉っていたのだ。

 遂にどす黒い赤は泡に混じるだけでなく直接タイルの上に滴り始めて、それを認めた時、やっとYさんは驚きに塞き止められていた恐怖の感情に一気に襲われた。

 反射的に身を引いた時、水面がバシャッ! と音を立ててしまった。その途端、腕を擦り続けていた女がピタッと動きを止めた。

 気付かれた……! そう悟ったや否やYさんは素早く湯船から上がって、脱衣場を目指して走り出す。裸という無防備な状態で、明らかに異常な者と同じ空間に二人きりなんて彼女には耐えられなかった。なりふり構わず脱衣場を目指してスピードを上げた。しかし、そのまま逃げ切ろうとした彼女の思惑は大きく外れる事になった。

 入口の手前で、Yさんは何かに足を取られてバランスを崩した。あっと思った時には既に、彼女の身体は硬いタイルの床に強く打ち付けられてしまった。痛みに悶える彼女の頭の方から、ゆっくりと何かが近付いてくる気配がする。

 痛みで詰まらせた息を調えて、身を起こそうと身体を捩ると、顔の隣に石鹸が落ちているのに気が付く。どうやら先程彼女の足を取ったのは、この石鹸だった様だ。

 視界に入っていた真っ白な石鹸の上に、ポタリと何かが落ちる。出来上がった赤い斑点は、ぽたぽたと数を増やして行き、雫が垂れてきた方と同じ方向から、ぬうっと白い手が現れた。

その手の爪の間には、ぎっしりと肉の欠片が詰まっている。その手は石鹸をゆっくりと拾い上げ消えて、変わりにYさんの視界に入って来たのは垂れ下がった黒髪だ。

 見てはダメだ! 本能的にそう感じたYさんはギュッと目を瞑った。瞼の向こう側から強烈な視線を感じる。鼻先に何者かの生臭い息がかかっても、彼女は頑なに瞼を開けず耐え続けた。

 永遠にも思える位目を閉じ続け、熊に襲われた狩人の様に死体のふりを続けた彼女の沈黙は唐突に破られた。

「まあっ! 大丈夫⁉」

 ガラリと脱衣場の扉が開くのと同時に、番頭のおばあさんの声が反響してYさんの元に届いた。

ようやく目を開けた彼女の目の前には、心配そうな表情を浮かべた番頭さんの顔があった。彼女の助けを借りて、床から身を起こしたYさんはそのまま恐る恐る辺りを見回したが、浴場にはYさんと番頭さんしか存在しておらず、先程まで居た異常な存在は影も形もない。

 ただ、何時もの場所にぽつりと、真っ白な石鹸が置かれているだけだった。

 

 この出来事があってから、Yさんは何となくこの銭湯から足が遠のいてしまったそうだ。楽しみだった気持ちは針を刺された風船のように萎んで、生活の為仕方なく訪れても必要以上に留まる事はなくなった。

 その後、Yさんは仕事の関係で住んでいたアパートを引っ越す事になったので、この銭湯には行かなくなってしまった。結局あの女性が何者でどんな訳であの場所に現れ、何故あんなにも執拗に身体を洗い続けるのかという理由は、一切分からないままだそうだ。

 そして時代の煽りを受け、今はその銭湯自体も潰れてしまったので、真相はもう確かめる事も出来ないという話である。

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