第2話 コーヒーとハムエッグトースト

 窓の外で、知らない鳥が鳴いている。

 妙に甲高く長く伸びる声が少しばかり耳障りだ。

 コトコトと小さな生き物が歩くような音もする。

 これは夢だろうか、だとしたら随分とリアルだ、とうとうとしながら思った。

 いつの間に私の家は森の中になったんだろう……と、そこまで考えてぱちりと目が覚めた。

 見慣れない天井に一瞬呆けて、それからがばりと起き上る。

 見回してみればここは子供時代のまま時間が止まったような実家の自分の部屋ではなく、物の少ない、けれどどこか洒落た雰囲気の六畳間だった。


「……そっか、ええと、ゆかさんとミカさんの家だったんだっけ」

 昨日から小森姉妹の家に厄介になっているのだった、と思いだし、ため息を一つ吐いた。

 ベッドから降り、カーテンを引いてみる。窓の外には大きな木が一本立っていて、緑色が目に優しい。

 空を見上げれば太陽はもう結構高い位置に来ているらしい。慌ててスマホを掴んで時間を確かめると、もう十時を過ぎていた。

「寝過ぎた……」

 人様の家に来たというのに盛大に寝坊してしまった。慌ててカートを引っ張り、中から適当な服を取り出す。

 着替えをしながら、こんなに寝たのはいつ振りだろうかと思い返した。

 仕事に追われていた時も、倒れてからも、こんなにぐっすりと深い眠りについた事はしばらくなかったような気がする。

 平均四時間を割るような睡眠時間を長く続けたせいなのか、倒れて寝込んでいる時も小刻みに目をさまし、昼間寝ているせいなのか夜もなかなか眠れない、という日々を送っていたのだ。どうしても眠れない時は処方された眠剤を飲んでいた。

 ここにきてもどうせそうだろうと諦めていたのに。


 パタパタと小走りで階段を駆け下りると、家の中はシン、としていた。

 リビングに次いで台所ものぞいてみたが誰もいない。

 二人とも仕事だろうか。居候の癖にしょっぱなから失礼なことをしでかしてしまった、と落ち込んだ。

 はぁ、とため息を吐いてソファに座り込むと、小さくお腹が鳴った。

 最近空腹を感じることはめっきり減っていたはずなのに、何だか昨日から体の調子がおかしい。いや、正常だと言うべきなんだろうか。

 朝食……もう昼食の方が近いかもしれないが、どうしようか。勝手にキッチンを使っていいのかどうかも聞いていない。近くにコンビニくらいはあるだろうか。

 そんなことを考えていると、カラカラと窓が開く音がした。

「あ、おはよう麻紀ちゃん」

 驚いて顔を上げると、庭に面した掃出し窓からゆかさんが顔を覗かせていた。

「お、はよう、ございます……」

 ゆかさんは昨日と同じ麦わら帽子をかぶり、また籠と鋏を手にしていた。

「昨日はよく眠れた? 枕とか合わなくない?」

「あ、はい大丈夫です……あ、す、すみません! 寝坊してしまって、手伝いもせずこんな時間に!」

 慌てて頭を下げるとゆかさんはきょとんと眼を見開き、それからアハハ、と明るく笑った。

「いいよいいよ、疲れてたんでしょ? こんな遠くまで来たんだもんね」

「いえ、でも、お世話になるのに……」

「気にしないでいいよ、休暇なんだし。それにミカなんて締切前後は昼まで起きてこないわよ」

「昼……」

 一体何の仕事をしているのだろう、と少し気になったが聞いて良いものだろうかと少しためらう。

 考えている間にゆかさんは掃出し窓から家の中に入ると、帽子をぽんとソファに乗せて台所へと向かった。

「麻紀ちゃんお腹空かない? パンか何か食べるけど、一緒で良い?」

「は、ええと、はい! あ、手伝います!」

 慌てて立ち上がって後を追うと、ゆかさんは手にした籠を流しの脇に置き、こちらを向いた。

「大した物作るわけじゃないけど、じゃあお願いしようかな。そこの棚を開けるとパンがあると思うから、それを適当に三枚切ってくれる? パン切りナイフはここね」

「はい!」

 指し示された棚を開けると中からカンパーニュの様な大きな丸パンが出てきた。

 三分の一ほど切られたそれを袋から取り出し、渡されたまな板と包丁で二センチほどの厚みに切り分ける。色の濃いパンには雑穀が混じっているのか、ぷちぷちとした粒が見えて香りも良く美味しそうだ。

「じゃあそこにこのハーブバターを削ってのせて、トースターに入れておいて」

 言いながらゆかさんは薬缶を火にかけ、手際よくコーヒーを入れる支度をしている。

 それから流しに置いたボウルを手に取って私に渡してきた。

「それとこれ、軽く洗ってそこのペーパータオルで水気を切って、適当にちぎってくれる?」

 ボウルの中に入っていたのはギザギザした葉っぱの草だった。これもハーブの一種だろうか。言われた通りに洗って水けを取り、ぷちぷちと千切る。適当にしすぎて飛び散った葉を私が必死で集めている間に、ゆかさんは小さなフライパンでハムを三枚さっと炙り、それを取り出して今度は卵を三つ放り込んでいた。それらを横目で監視しながらもコーヒーを入れているのだから、その手際の良さに感心してしまう。

「麻紀ちゃん、ミカ起こしてきてくれる? 麻紀ちゃんの部屋の向かいにいるから」

「あ、はい」

「ご飯だって言えば起きると思う」

 再び二階に戻り、自分が借りた部屋の向かいの扉へと向かった。

 扉には何かの蔦とドライフラワーで作られた可愛いリースが掛けてある。

 コンコン、とそっとノックするが返事はない。

 もう一度ノックして、恐る恐る声を掛けた。

「ええと、ミカさん? 起きてください……ご飯ですよ」

「ふぁ~い、食べる~!」

 ご飯、という言葉の効果は覿面だった。バタバタゴトン、と賑やかな音がしてガチャリと扉が開く。

「マキちゃんおはよ、起こしてくれてありがと……ふわ」

 眠そうに眼を擦りあくびをしながら、ミカさんはパジャマのままで下に降りて行った。その後について下り、洗面所に向かうミカさんを見送ってキッチンへと戻る。

「起きた?」

「はい、顔洗ってます」

「色々ありがとう麻紀ちゃん。もう出来るから座ってて」

 ゆかさんは三枚並んだお皿にトースターから出したパンをひょいひょいと乗せると、その上にさっき私が千切った葉っぱと、焼いたハムと目玉焼きを重ねていく。軽く塩と胡椒をふり、最後に薄く削ったチーズらしきものをパラパラと散らした。見ているだけでぐぅ、とお腹が鳴る。

「おはよ~、ユカちゃん。あ、おいしそ~!」

「おはよ。ミカ、カップ出して」

「はーい!」

 戸棚から出されたのは丸いフォルムの可愛らしいマグカップが二つと、黒地に白い模様の入ったスタイリッシュなマグカップが一つ。

 ゆかさんはそれぞれにコーヒーを注ぎ、その間にミカさんが冷蔵庫から牛乳パックを取り出した。

「マキちゃんミルク入れる? 砂糖もあるよ」

「あ、はい、ええと……」

「好きなようにして飲んでね。コーヒーが苦手なら、お茶とか好きに飲んでいいからね」

「いえ、大丈夫です。会社でもよく飲んでたし」

 私は昔はコーヒーが苦手だったが、会社で長時間過ごすようになってから平気になった。というよりも、カフェインを大量に取らねば目を開けていられない事が増え、強制的に慣れたのだ。

 しかしあの頃は糖分の補給を兼ねて砂糖を大量に入れていたし、飲むたびにちくりと痛む胃を恐れてミルクもたっぷり入れていたから味なんて二の次だった。そもそも機械の入れた時間のたったコーヒーや自販機のものがほとんどだったし。

 目の前で湯気と共に良い香りを振りまいている入れたてのコーヒーに同じことをするのは冒涜だろう、多分。

「好みもあるから一口味見して、それから何入れるか決めたら?」

 どうしようか悩んでるのを察したのだろう。ゆかさんがそう提案してくれたので、言われた通りにしてみることにした。とりあえずパンを先に食べようと決めると、お腹を空かせて焦れたミカさんがパン、と手を合わせた。

「とりあえずもう食べていい? 冷めちゃうよ!」

「はいはい、いいよ。頂きます」

「いただきまーす!」

「あ、いただきます……」

 そう言うが早いかミカさんはトーストを手に取りがぶりとかぶりついた。

 もぐもぐと咀嚼して、はふ、と息を吐く。

「はぁ~、美味し! 朝から幸せ~!」

「うん、美味しいねぇ」

 ゆかさんはまず目玉焼きの黄身をフォークで潰し、溢れた分をちぎったトーストの耳に塗りながら食べている。

 なるほど、と思いながら見ていると目があった。

「私は噛り付くといっつもぼたぼたこぼしちゃうから先に少し黄身を減らすの」

「この食べ方で誰も行儀なんて気にしないって。マキちゃんも好きに食べていいよ?」

 ミカさんの言葉に押されて、私も真似してかじってみることにした。

 そっと持ち上げて、大き口を開けて細長い端の方にかぶりつく。

「ん……!」

 パリ、と良く焼けたパンの香ばしさと、上に塗ったハーブバターの香りが口の中に広がった。

 何というハーブが入っているのか、昨日聞いたがすっかり忘れてしまった。けれど何種類もの香りがして食欲をそそる。

 はぐはぐと食べ進めていると、こっちを見ているゆかさんと目があった。

「どう? 美味しい?」

 私は夢中で頷いた。

「なんか、簡単な感じなのに、色んな味と香りがします……」

 パンは香りが良く、雑穀のプチプチした食感が楽しい。卵の白身はぷりぷりしていたけれど裏面がカリっと焼いてあって香ばしかった。焼いたハムの脂や塩気、間の葉っぱの爽やかさや、上にふられた塩コショウやチーズもどれもが主張しすぎず、けれど確かに感じられる。

「口に合ったなら良かった。あ、ほら零れるよ」

「えっ、あ、わわ」

 慌てて手元を見れば黄身が破れてとろとろと出てきている。慌ててちゅるりと少し吸い取り、零れかけた部分をかじった。この濃厚な黄身が混じるとまた格別の美味しさがある。

 ハッと気が付くとコーヒーを飲むのを忘れたまま、目の前の皿は空になろうとしていた。

「ふあぁ、美味しかった……おかわりしようかどうしようか……」

「もう食べたの? 寝起きなんだし止めといたら?」

「ううう、はぁい……」

 ミカさんは唸りながらも頷くとコーヒーを口に運んでいる。私も遅ればせながらカップを手に取り、一口味見してみた。

「あ……美味しい」

「そう? 良かった」

「香りがすごくいいし、苦すぎなくて、あと何か……酸味が少ない?」

「あー、うちのコーヒーそうなんだよ。うちは大体皆コーヒー好きなんだけど、あの酸味はちょっと苦手なんだよね」

「苦みも強すぎない方が好きだし……バランスのとれた味が好きよね」

 何口か飲んでからミルクを少し足してみた。マイルドになってこれも美味しい。砂糖を入れないコーヒーを飲んだのはすごく久しぶりな気がしたが、このコーヒーは入れない方が好きだと思った。

「うちの母の方がコーヒー入れるの上手いのよ。落ち着いたら今度飲ませてもらいに行こうね」

「自分で入れたのってなーんか違うよね」

「人が入れてくれたってだけで二割り増しかもね」

「あはは、あるある」

 穏やかな二人の声を聞きながらコーヒーをゆっくりと口に運んだ。

 キッチンの窓は大きく開け放たれ、そこから流れてくる風が涼しくて気持ちがいい。

 ゆったりとした空気のせいか、コーヒーを飲んでいるのに何だか眠気がやってくるような気がした。

 美味しく感じないコーヒーを何杯も飲んで、去らない眠気と戦っていた時とは真逆の雰囲気がなんだか可笑しい。

「麻紀ちゃん、コーヒーのおかわりいる?」

「……はい!」

 甘くないのにどこか甘い気のするコーヒーは、二杯目もやっぱり変わらず美味しかった。

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