晴れた日は、庭でご飯を。
星畑旭
第1話 ジャガイモとハーブバター
私、山内麻紀が仕事を辞めたのは、社会人になって五年目の終わり頃の事だった。
真面目な事だけを取り柄として学生時代を過ごし、どうにかそこそこの会社に滑り込んで大人と呼ばれる立場になった。
先輩についていきながら仕事を覚えるだけで精いっぱいの一年目。
少し余裕ができたとみるや放り出されて途方に暮れ、慰めてくれた先輩と若干いい感じになりかけたけど、新人の可愛い子と二股を掛けられかけ、結局何事にもならなかった二年目。
やっと今の仕事に慣れたと思った途端突然移動を命じられ、頑張ったけれど成績が上がらず叱られ続け、増える仕事と残業時間に生活のほぼ全てが押しつぶされた三年目と四年目。
そうして迎えた、毎日何をしていたのか、どうやってやり過ごしてきたのかもよく憶えていない五年目の終わりのある朝。
私はいつもの通りに起きようとして、けれど全く動かない体に呆然としたのをぼんやりと覚えている。
それから自分が何をどうしたのかはいまいち記憶がはっきりしない。
ただ気が付くと私はいつの間にか会社を辞めていて、実家の狭い庭を眺めていた。
両親や祖父母がぼんやりしている私を見る目はいかにも気遣わしげだったけれど、私がその眼を見返すと何故だか視線が合わないのが不思議だった。
一人暮らしだけれど仕事に追われていた私の私物は少なく、それらは昔住んでいた部屋に戻っても整理されないままだった。子供時代の匂いの残る部屋の中で、今の私の荷物は周囲と何一つ調和せず浮きまくっている気がした。きっと今の私もこの家で同じ存在なのだと思うと何だか乾いた笑いが零れた。
実家でただぼんやりと過ごしてしばらくした頃、親戚の家に行かないか、という話が持ち上がった。
そこは実家よりも少しばかり田舎にあり、景色も空気も良いところだから、一休みするにはいいかもしれないと。
どこか後ろめたそうに、けれど精一杯の明るい声で、向こうもぜひと言ってくれていると言い募る母に私は、迷惑にならないのなら、と頷いた。
頷きながら、自分がどんな顔をしていたのかはわからない。
ただ、私はとうとう社会からだけじゃなく、親からも捨てられるんだな、とぼんやりと思っていた。
そして初夏のある日。
私は何故か行くはずだった親戚の家ではなく、そこよりもさらに田舎にある一軒の家の前にぼんやりと立っていた。
初夏とはいえ今日は気温が高く、午後の日差しが引きこもっていた身にきつい。まだ夏には早いはずなのに日差しはギラギラと痛いくらいで、季節の進みの早さに眩暈がする気分だ。
敷地の入り口と思しき場所には石灯籠の残骸を拾ってきたようなものが脇に置いてあり、その上に手作りっぽい可愛らしいポストが乗っている。ポストには小森、と名前が彫ってあり、台の横にはこれまた手作りめいた木戸が設えてあった。
その門から飛び石が伸びた先に木々や草花に囲まれた家が建っている。少し古びた外観の、どこにでもありそうな田舎の家だ。
きょろきょろと周囲を見回したが、呼び鈴らしきものは見つからない。
ここでいいんだろうか、と渡された地図と家の門を交互に見比べ足を踏み出せずにいると、ふいに声が掛けられた。
「いらっしゃい」
ハッと顔を上げるといつの間にか門の向こうに一人の女性が立っていた。長い黒髪を無造作に束ねて麦わら帽子を乗せた、Tシャツにジーパンという飾り気のない姿の、けれど目鼻立ちのはっきりとした美しい女性だ。手には鋏と、緑の草をこんもりと乗せた小さな籠を持っていた。
「麻紀ちゃんだよね?」
「あ、ええと、はい……」
「そ。なら入って。開いてるから」
そう言って、白い手がひらりと私を門の内へと招く。
招かれるまま木戸を押してふらりと足を進めると、その人は薄暗い家の中へすたすたと入っていった。
慌てて門の木戸をしめて後を追う。玄関を潜ると家の中は暗く、そしてひんやりと涼しかった。
「こっち」
「お、お邪魔します……」
荷物を持ち直して呼ばれるままに上がり込む。
玄関からすぐの扉をくぐるとそこは居心地の良さそうなリビングで、彼女は適当に座って、とソファの一つを指さすとその向こうにあるキッチンへと姿を消した。
私は恐る恐るソファに近づき、端の方へそっと腰を下ろした。
「暑かったでしょ」
リビングを見回していると、そう言いながら彼女が戻ってきた。手には小さなお盆と、涼しげなコップが二つ。
「はい、どうぞ」
受け取ったコップはひやりと冷たい。知らず喉がなり、私はそれにそっと口を付けた。
コップに満たされた薄緑の液体は緑茶に見えたけれど、私の知らない飲み物だった。
「……?」
「何、変な顔して。ハーブティー、嫌いだった?」
「え、いえ……その、飲んだことない味だったので」
「まずいとか、合わなくてだめそうなら言って。麦茶とかもあるから」
飲んだことのない味がしただけで、まずいわけではないので首を横に振った。
ただ、ミントのような、レモンのような不思議な香りと、少しの青臭さがあって初めての味だったので驚いただけだ。蜂蜜のものらしき甘みとレモンの酸味も加わって、結構美味しいような気がした。
「多分美味しい、です」
「そう? なら遠慮せずどうぞ。ところで、麻紀ちゃん、うちの母さんから事情は聞いてる?」
「ええと……その、全然……そもそも、うちの母からしばらく田舎の親戚の世話になれって急に言われて、それで、言われるままに親戚だっていう家を訪ねたら今度はここの地図渡されてタクシーに乗せられて……何が何だか……」
「え、そこから? 何そのいい加減さ。母さんも美里さんも適当すぎる……うーん、そもそも麻紀ちゃん、私の事憶えてる?」
私はその問いに正直に首を横に振った。
美里というのは私の母の名前だ。私はこの人と会ったことがないと思っていたのだが、母とは面識があるらしい。
彼女はため息を一つ吐くと、顔を上げて私を見た。
「あのね、私は小森ゆか。君のお母さんの母方の従妹。結構年は離れてるけどね」
「母の……私と会った事ありましたっけ?」
「小さい頃には何回か会ったわね。でもそれっきりかな。うちはあんまり親戚付き合いとか積極的じゃないから。美里さんとももう何年も顔を合わせてないし」
「そうなんですか」
そう言われて彼女の顔をよくよく見てみれば、確かに昔会った事があるような気もしないでもない。しかし母方の親戚は結構人数が多かったため、はっきりとは思いだせなかった。
母の従妹というけれど、母とこの人に似たところはほとんど見られない気がした。この人の方が随分と若いように見える。
「家が離れてるからあんまり行き来はなかったけど、伯母さん……君のお祖母さんは末の妹のうちの母と仲が良くてね。それで、麻紀ちゃんが仕事で体壊して実家に帰ってるって話を聞いたわけ。で、そしたらうちの母が、それならいっそもっと田舎で少し休暇でも取らせたらどうだって言い出してね」
「休暇……」
「実家にいるとどうしても次の仕事とか、せめて家事しなくちゃとか色々考えちゃうんじゃないかって。伯母さんも静かなところでゆっくり休ませてやりたいって言ってたし、本人を余所に話がまとまったみたい。身体の方はもういいの?」
「あ、はい……もともと過労とか色々重なって倒れたんですけど、ギリギリ入院するほどじゃなかったですし……」
「なら良かった。で、本当なら麻紀ちゃんはこの近くにある私の実家に行く予定だったのよ。うちの母が世話するってはりきってたの。うちの母って麻紀ちゃんにとっては何になるのかしらね……大叔母とか? まぁいいわ。とにかく、そういう予定だったんだけど、三日前にうちの一番上の兄が怪我をしちゃってね、今家がバタバタしてるの。だからしばらく私のとこで過ごして欲しいって話なのよ」
「え……と、それは、そういう事情なら私は家に戻っても構いませんが」
確かに怪我人のいる家に厄介になる訳にはいかないし、そんなことで疎遠だった母の従妹にまで迷惑を掛けるのは気が進まない。けれどゆかさんはまた首を横に振った。
「伯母さんち遠いし大変でしょ。別にうちは一人増えたって構わないから、ゆっくりしていって。この家は私と妹が住んでるの。どうせ部屋は余ってるし」
「でも、その、ご迷惑じゃ……」
「全然。気にしなくていいよ。私たちも別にお客さんだからって気を使う方じゃないから。まぁ田舎にバカンスにでも来た気分で楽にしてて。それに、今日はどうせもう帰れないでしょ、この時間じゃ」
「……すみません、お世話になります」
親戚とはいえ疎遠だった家にお世話になるのは正直気が進まなかった。しかしここに来るまでにかかった時間を考えると、確かに今からこの家を出ても実家に帰りつくのは深夜になるだろう。
とりあえず今日一日だけでも泊めてもらおうと諦め、案内された空き部屋に荷物を置いた。
部屋は六畳ほどのフローリングで、ベッドが一つと小さなテーブルと椅子が一つずつ、それに可愛らしい棚とタンスが一つずつ置いてある。私はタンスの脇に引いてきたカートと鞄を置き、それからベッドに腰を掛けた。
座ってみると布団に掛けられた花柄のカバーが真新しい事にふと気づく。ぽすりと横になってみると、布団からは微かに太陽の匂いがした。
視線を巡らせれば棚の上に掛けられた可愛い飾り布や、テーブルの上に置かれたガラスの一輪挿しと、小さな花が目に入る。
どうやら本当にそれなりに歓迎されているらしいことに私はホッと息を吐いた。
さかさまになって見上げた窓からは何の木かは知らないが緑色の葉っぱが揺れているのが見えた。
夏へ向かう空は濃い青で綺麗だ。そんな事にすら、随分と久しぶりに気がついた。
私は何を間違えたんだろう、と揺れる葉と空を見ながらぼんやりと考えた。
大学を出て五年、ただただ懸命に働いた。真面目に一生懸命やっていたつもりだった。
上手くいかない事も多かったけれど、必死で頑張ればいつか成果が上がり、人に認めてもらえると思っていた。
仕事に慣れればきっと余裕もできて、その頃には彼氏なんかもできたりして、将来を考え始めたりして。
段々積み重なる仕事も、止まない小言も、増える残業も、もっともっと頑張ればいつかなくなるものだと思っていた。
あんな風に、ある日突然電池が切れたみたいに動けなくなってしまうことがあるなんて、考えたこともなかった。
動けなくなって仕事に行けなくなって、休職を勧められたけれど結局それも断って辞めてしまった。体が治ったとしても、また同じように会社に行けるとはもう思えなかったからだ。
日々の努力に裏切られ続ける現実の中で、自分の身体にまで裏切られた私は、とうとう心の糸まで切れてしまったのだ。
そうして出戻った実家でも家族にすら見放されて、他人に等しいような親戚の家に厄介になる羽目になるなんて。
「マーキちゃん、いるー?」
コンコン、と部屋のドアを叩く音がして、鬱々と考えに沈み込んでいた私は跳ね起きた。
はい、と小さく返事をするとガチャリとドアが開く。顔を出したのはゆかさんとは別の女性だった。
「いらっしゃーい! 久しぶり~! って憶えてないかな?」
「ええと、その……すいません」
「あはは、小さい頃会ったきりだもんね~。私はミカだよー、妹の方!」
良いって、とヒラヒラと手を振りながら笑うその女性は、ゆかさんはまた違ったタイプの美人だった。
明るい色に染めた髪はバッサリと潔いショートカットで、毛先がふわふわと跳ねている。
夏らしい華やかなプリントのタンクトップが良く似合っていた。
「麻紀ちゃん、美里さんに似てるねぇ。おっきくなっちゃって~、ってあんま私と年離れてないんだけどさ!」
「そうなんですか……」
確かに姉妹というからにはこの人も母の従妹なのだろうが、母よりも私の方がずっと年が近いだろう。
「そうそう。あ、それよりもさ、今日お昼食べた? お腹空いてない? 良かったら一緒におやつ食べよ! ね、いこ!」
ミカさんはそう矢継早に言うと私の手を取って引っ張った。
そう言われてみれば今日は移動ばかりが長く、食事を取るのも面倒で朝食から何も食べていない。仕事を辞めてから……(いや、多分仕事に追われている最中から)もうここしばらくずっと食欲が落ちていたためすっかり忘れてしまっていた。
手を引かれて一階のリビングに顔を出すと、その向こうのキッチンでゆかさんが何か作っているところらしかった。トントンという包丁の規則正しい音が聞こえている。
「ユカちゃん、お腹すいたよ~!」
「はいはい、もうすぐ用意できるわよ。お皿出してレンジの中のを取り分けておいて」
「はーい!」
ミカさんは子供のように良い返事をすると棚からお皿を三枚出してテーブルに乗せた。
ゆかさんはさっきまで刻んでいた緑の何かをボウルに移し、ゴムベラでぐるぐると混ぜている。
ミトンをはめてレンジを開けるミカさんを見ながら、私は所在なく立ち尽くしていた。
「麻紀ちゃん、そこの棚からコップ三つだして、冷蔵庫からお茶出してくれる? 青いフタのポットのやつ」
「あ、はい」
慌てて棚を開けると、下の方にコップが並んでいる。
緑色のものと水色のものと、それ以外の色のないコップがいくつか。
「緑のはユカちゃんで、水色のが私だよ!」
ミカさんにそう声を掛けられ、その色のものと透明なコップを一つ取り出した。
人の家の冷蔵庫を開けるのは初めてかもしれない、と考えながらお茶を取り出し注いでいると、二人の方も用意が終わったらしい。
座って、と言われて席につくと、目の前に皿が置かれた。
そしてその皿の上に、どん、と大きなジャガイモが乗せられる。
ミカさんは手際よく三人の皿に湯気の立つジャガイモを乗せると、ナイフで無造作に十字に切れ込みを入れてくれた。
「ん~、良い色! やっぱおじさんちのジャガイモ美味しそう~!」
「今年もいい出来だね」
おじさんというのが誰かはわからないが、確かに目の前のジャガイモは綺麗な黄色で美味しそうに見えた。
このまま食べるのだろうか、と思っていると、今度はゆかさんがボウルの中身をスプーンで掬って、ぼたり、とジャガイモの切れ込みの上にたっぷりと落とす。落とされたのは刻んだ葉っぱが沢山混ざって半ば緑色に見えるクリームのようなものだった。ジャガイモの立てる湯気に乗ってふわりと不思議な香りが鼻をくすぐり、途端にお腹がくうと小さな音を立てた。
「うっわ、出来立てハーブバターたまらん! 早く食べよ!」
「はいはい。塩が足りなかったら適当に振ってね。麻紀ちゃん、箸はこれ使って」
「はーい、いただきまーす!」
「あ、ありがとうございます……いただきます」
大きな口を開けて皮ごとのジャガイモにかぶりついているミカさんを見ながら、私も自分の目の前の皿に箸を伸ばす。
ほっくりと火の通ったジャガイモは箸を刺すとぽくりとちいさく割れた。その欠片を摘まんで、ハーブバターとやらを絡めて恐る恐る口に運ぶ。
口に入れた瞬間、鼻に抜けたのは何とも言い難い不思議な香りだった。それを何と表現したらいいのか私にはよくわからない。けれど決して嫌な臭いだとか、美味しくないとかそういうわけではない。
「は~、おいし! これ何入ってるの?」
「今日のはチャイブとタイム、イタリアンパセリ、ディル、かな」
私はその会話を聞いてバターに視線を落とした。細かく刻まれた葉っぱを見ても、どれがどれだかさっぱりわからない。
わからないけれど、この芋とバターは美味しいと確かに感じる。
ほのかな塩気と豊かなバターの風味、ほんの少しの青臭さと、そして食欲を誘う不思議な香りが混ざり合って実に複雑な味わいを作り出しているような気がした。
一口食べると何故かもっとお腹が空くような気がしてもう一口、もう一口と勝手に箸が動く。
零れるバターが勿体なくて芋で拭うようにして食べてしまう。皮を剥いていないそのままの姿や大きさに若干引いていた自分はもうどこにもいない。気づけば最後はミカさんがしているのを真似して、残った芋の半分を手に取り、バターを零さないように気を付けながら行儀悪くかぶりついてしまっていた。
「はぁ~、美味しかった~! おかわりしたい……」
ミカさんのため息にハッと我に返ると、目の前の皿は空っぽだった。存在を忘れ去られたお茶が結露を零している。
「もう一個いく? 麻紀ちゃんも気に入ったみたいだし」
「は、え、いえその……す、すみません行儀悪く……」
恥ずかしくなって消え入るような声で謝ると、ゆかさんはくすくすと笑い声をあげた。
「ミカよりは良かったわよ?」
「そーそー、気にしない気にしない。美味しい物を前にした人間は無力なものだよ。それよりやっぱりもう一個いこうよ! 今度はビール付きで!」
お茶を一気に飲み干したミカさんはさっと席を立ち、さっきと変わらないくらい大きなジャガイモを三つ持って戻ってきた。丁寧に洗って素早く芽をとるとガラスの容器に入れ、蓋をして電子レンジに放り込む。
その間にゆかさんは冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出すと、チーズやら作り置きの漬物やらと一緒にテーブルに並べていく。
「ジャガイモができるまで、これで一杯ね」
目の前に置かれた冷えた缶ビールに手を伸ばしていいものか、私はちょっと躊躇した。飲めない訳ではなかったが、こんな真昼間から酒を飲んだことはほとんどないのだ。何だか悪い事をしているような気がして、花見の席などでもない限り昼間に飲んだことはほぼない。そんなところまで真面目だ、と友達にからかわれた事があるくらいだ。
おまけに今日は平日だ。いいのだろうか?
「あれ、マキちゃん飲めない方?」
「えっと……そうでもないんですけど」
「なら乾杯しましょ。せっかくうちに来たんだもの」
カシュ、と缶が開けられ、ハイ、とそれを手渡される。
「何に乾杯? マキちゃんがうちに来たこと?」
「そうね、じゃあ麻紀ちゃんの今までの頑張りと、休暇の始まりに」
「いいね~、マキちゃんにカンパーイ!」
「ようこそ、麻紀ちゃん」
カツン、とぶつけられた缶からわずかに泡が零れる。
慌てて口をつけると、シュワ、と良く知るはずの味が舌の上に広がった。
けれどそれは、今まで飲んだどのビールよりも何故だか甘いような、そんな気がした。
私は少し、涙が出そうだった。
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