第44話 可愛い

健太君から投げかけられた言葉たちは、過去の記憶を鮮明に蘇らせ、呼吸することすら辛くなっていた。


黙って俯いたまま、次の言葉を考えていると、健太君がゆっくりと歩み寄ってくる。


それと同時にマルがベンチを飛び降り、尻尾をピンと立て、鳴きながら入口のほうへ向かっていた。


「…井口君?」


自転車を止めた井口君は、鞄からビニール袋を出し、マルは井口君の足元に絡みついている。


吸い寄せられるように井口君のもとに行こうとすると、健太君が腕をつかんでくる。


咄嗟に捕まれた腕を振りほどくと、健太君は苛立った表情で見つめてきた。


「何逃げ…「若菜~! マルにおやつあげるぞ~!」


井口君に言われて顔を向けると、マルは尻尾をぴんと立て、鳴きながら井口君の足元をウロウロしている。


「話し終わってないんだけど!」


健太君の声に振り返ると、健太君は苛立った表情のまま、私のことを睨んでいた。



『もういいって… 話すことなんか何もないよ…』



健太君にどんな言葉を投げかけたらいいのか考えたんだけど、何も思い浮かばないし、逃げ出したい衝動に襲われてしまう。



『どうしよ… どうしよ…』



頭の中で考えていると、健太君くんが話しかけようとし、井口君がそれを遮る。


健太君は何度も井口君に話を遮られ、何も言わないままに公園を後にしていた。



『た、助かった…』



根本的な解決には至っていない。


けど、健太君から解放されたことに、心底ホッとしていた。



「あのさ、ありがと…」


「ん? 何が?」


井口君はマルにおやつをあげながら、とぼけた声をあげる。



『何が?』と聞かれたんだけど、詳しい話をしたくないし、軽くでも触れてしまえば、聞き出されてしまうかもしれない。



「いろいろ?」


「ああ、クリスマスのあれ?」


井口君の言葉で、シュシュをもらったことを思い出し、それに合わせることしかできなかった。


「そ、そうそう! お礼言ってなかったからさ」


「気にしなくていいよ。 けど、その長さじゃ使えなくなったな」


「そ、そうだね…」


「まぁいいや。 その髪型、若菜にめっちゃ似合ってるし、そっちのほうが可愛いよ」


想定していない『可愛い』の言葉を聞いた途端、耳が熱くなっているのに気が付いたんだけど、井口君の顔も真っ赤になっている。


思わず顔を隠すように俯くと、井口君は落ち着いた口調で告げてきた。



「そのまま黙って聞いて。 この前会った女、中学の時に告られて、なんとなく付き合ったんだ。 けど、連絡するのが億劫で、別れ話しようとしたら二股発覚。 そのまま別れたんだけど、やり直そうってしつこく言われて、その時に『俺は黒髪ロングじゃないと嫌だ』って、あいつの見た目と正反対のことを言ったんだよね。 そしたら、『黒髪ロングにするから待ってて!!』だのなんだのって言われてさ… 本当は髪型なんてどうでもいいんだよね。 …本気で好きになった人なら、髪型なんてどうだっていい」


井口君の言葉に何も言えず、黙ったまま俯いていると、マルが井口君の足元で「にゃー」と一鳴き。


井口君はそれを聞いた途端、普通の口調で告げてきた。



「お? そろそろ帰るって言ってるぞ」


黙ったまま頷き、マルを自転車の籠に乗せた後、自転車を押して歩いていたんだけど、井口君は私に歩調を合わせ、ゆっくりと歩いていた。



自宅の前に着くと、井口君は自転車に跨ると同時に切り出してきた。


「あ、あのさ…」


「ん?」


「いや、あのさ… あの…」


井口君は顔を真っ赤にしながら、さっきとは全く正反対の、歯切れの悪い感じで言葉を選んでいる。


「どうしたの?」


「また明日な!!」


叫ぶように言った後、井口君はものすごい勢いで、自転車をこいで行ってしまった。



家に入った後、自室のベッドで横になると、井口君の言ってた『可愛い』の言葉が頭をよぎる。


『可愛い』の言葉が頭を過るたびに、胸の奥がキュンと締め付けられ、息が詰まり続けていた。

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