第7話 ショック

下校時にマルと会い、井口君が優しく微笑みながらマルに話しかけている姿を見て以降、ほんの少しだけ井口君を見る目が変わっていた。


今までは『最低最悪で、しつこいナンパ師』と思っていたんだけど、ナンパ目的だけで近づいてきたんだとしたら、マルのことを気にも留めないだろうし、マルに対して優しく微笑みながら話しかけることもないはず。


それに、しつこく家まで追いかけてくると思ったのに、かなりあっさりと帰って行ったことにも、違和感を覚え、今まで抱いていた『最低最悪で、しつこいナンパ師』という印象が、日を追うごとにほんの少しだけ違うような気がしていた。



そんなある日のこと。


科学実験室に行こうと廊下に出ると、井口君が声をかけてきた。


「若菜ちゃん、英語の教科書貸してくんね?」


「は? なんで?」


「弘樹から聞いたんだけど、教科書にいろいろメモしてるらしいじゃん? 今日当てられるから貸してほしいんだよね」


「えー… 嫌だぁ…」


「ホントマジでお願い! マルのためだと思って貸して!」


「…なんでマル?」


「昨日の帰りに会って、『若菜ちゃんが教科書貸してくれたら、おやつやる』って約束したんだよ」


「え? そんな話、聞いてないけど…」


昨夜のことを思い出しながら小さくつぶやくと、井口君はブッと噴き出す。


「猫だから話せないしな?」


嬉しそうに言ってくる井口君に、馬鹿にされているように感じ、イラっとしてしまう。


「絶対貸さない! おやつは自分であげるからいい!」


怒鳴りつけるようにそう言った後、科学実験室に向かって駆け出した。



『ちょっと見直したと思ったら馬鹿にして… ホントムカつく』


苛立ちながら授業を受け続けたんだけど、次の授業が選択授業で井口君と一緒…


『もしかして呪われてる?』


そんな風に思いながら授業を終え、次の授業である美術室へ。



美術室に入り、結衣子ちゃんと話していると、井口君たちは当たり前のように私の隣に座り、井口君はわざとらしく声を上げる。


「さっきの英語の授業、どっかの誰かさんが教科書貸してくれなかったから、なーんにも答えられなかったわぁ」


「え? マジで? んじゃ課題出された系?」


「プリントやって来いってさ。 どっかの誰かさんが貸してくれたら、課題出されなくて済んだんだけどなぁ~」


井口君の視線を感じながら、口から出る言葉に苛立っていると、美術室の扉が開き、愛子が飛び込んできた。


「もぅ! わかにゃ~ん! なんで選択授業、美術にしたのぉ~? 『一緒に音楽にしようね』って約束したのにぃ~」



『わかにゃん? 約束? は? つーか誰この人…』



愛子はどこから出しているかわからないような、甘えた声で話し続ける。


「もぅ! 『一緒にバスケ部のマネージャーやろうね』って言ってたのに、なかなか来てくれないんだも~ん。 早く入部してよぉ~」


今まで見てきた愛子とは、同一人物とは思えないほどの正反対な態度と、初めて聞く言葉ばかりに、違和感ばかりが募っていく。



「…何の話?」


「あ~! また忘れてるぅ~! 約束したじゃん! 『高校に行ったら、健太君がバスケ部に入るし、試合の時に会えるから一緒にマネージャーやろう』って! 誘ってきたのはわかにゃんでしょぉ?」


久しぶりに聞いた『健太君』の名前に、息が詰まり、言葉が出ないでいたんだけど、愛子は耳障りなほどの甘えた声を出し、誰かにアピールするかのような大声で話し続ける。


「あ~! もしかして、また健太君と喧嘩したのぉ? 中学の時からいつもラブラブで、毎日手をつないで帰ってたのにぃ! もぅ! ちゃんと謝らなきゃ駄目だよぉ?」


『何言ってんの?』


はっきりとそう言いたかったんだけど、口から言葉が出る前に、涙が零れ落ちた。


慌てて美術室を飛び出し、いつもお弁当を食べている屋上手前の踊場へ。


立ち入り禁止ラインを超え、壁に隠れるように蹲り、声を押し殺しながら涙を流していた。



なんなの…


なんであんな嘘つくの…


健太君と付き合ったのは愛子じゃん…


愛子が付きまとって、いきなり告白したんじゃん…


それなのに…



あの時の記憶が頭の中を駆け巡るたびに、どんどん涙が溢れ、零れ落ちていく。


『もう嫌だ…』


頭の上にポンと何かが乗る感じがし、振り返ると井口君がそっぽを向いたまま私の頭に手を乗せていた。



「あ… あの…」


「俺は見てない」


「は?」


「何も見てないから、好きなだけ泣け」


「で、でも、授業…」


「んなんどうにでもなるだろ? 気が済むまで泣いてろ」


「…泣いてないし」


呟くようにそう言うと、井口君は私の顔をちらっと見た後、すぐにそっぽを向く。


「泣いてんじゃん」


「泣いてない! …でも、ありがと。 おかげで涙引いた」


思わず笑みを零しながらそう告げると、井口君は何故か悔しそうな表情を浮かべ、大きく息を吐いた。


「…さっきの話、掘り返して悪いんだけど、健太ってやつが彼氏?」


「…違うよ。 愛子の彼氏」


「え? けど、あいつ…」


「人違いなんじゃない? 私は愛子と約束した記憶もなければ、誰かと付き合った記憶もない」


「そっか… 授業始まってるし、このままバックレる?」


「ううん。 戻るよ」


「あ~… このまま戻ったらあれだから、保健室行こうぜ。 そうすれば俺も大目に見てもらえるし、その顔のままで行く訳にはいかないだろ?」


黙ったままうなずくと、井口君はそっと私の背中に手を当て、歩き始める。



それ以上の会話をしないまま、井口君に優しく背中を押され、保健室に向かっていた。





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