林・目薬・人口の世界

 志保は、物心が付いた頃には、一人で生活をしていた。それが何故かは分からない。

 自分には母が、父が、姉妹が存在するのかさえも知らない。ただ、志保と言う名前の書かれた幼子の帽子を身に着けていて、時々遊びに来てくれる友達が自分をそう呼ぶので、きっと自分は志保と言う名前なのだろう、そう思っている。

 志保の生活している場所は、平野で、野うさぎなんかが生息している。志保は三者が見れば、まだ小学生くらいの年齢で、伸びっぱなしの髪をゆらゆらさせて、たまに自分で作った石の刃でばっさりと髪を切り落としたりする。普通の小学生だったら考えられない、自立なんて生温い。サバイバル生活で志保は日々を過ごしている。

志保は、言葉は理解出来るし、話すことも出来るけれど、読み書きは苦手だ。生きることだけを前提にした生活の中では、最低限の意思疎通が出来れば良くて、そこに言葉すら不要な場合だってある。だから、志保は読み書きが苦手でも、そこを特段気にしている様子はない。

例えば、志保の住んでいる小屋には、うさぎの番がいて、志保が世話をしている。この前子供を何匹か産んだ。ペットと言えばそうだが、志保にとってはかけがえのない家族で、言葉を不要として、行動と、その瞳だけでお互いに信頼関係を築いてきた。


「おーい! 志保ちゃーん! 来たよ!」

「あっ! マヤちゃん!」

 マヤは志保の友達で、人ではない。人の言葉を発するけれど、獣のような耳と、毛深い体をしている。年齢こそ、人ではないから不詳だが、見た目は女子高生くらいだ。

 志保の住む世界には、マヤのように志保以外の住人もいる。でも、マヤ以外の誰かを見たことはなく、マヤも時々たまに顔を出すくらいで、普段はどこに住んでいるのか、何をしているかも分からない。

 それに、志保はマヤについて深く知ろうと思ったことはなかった。決して、人間関係に冷めているわけではなくて、日々の生活の中には、他人に依存する余地もなく、毎日新しい発見と興奮が待っているから、大して気にならなかっただけ。

 前に、マヤが帰るのをこっそりつけてみたりもした。

マヤは不思議な存在だった。遊びに来ることは少ないけれど定期的で、志保が偶然欲しているものをお土産と言って手渡してくれる。志保が、帰りをつけてみたときも、マヤは平野をずっと早く駆け抜けて、奥に広がる雑木林の中に帰っていく。志保はその雑木林へ向かおうとしたが、遠くて気が引けた。きっと、自分とは違う存在だからこそ、長い距離も、気軽に移動が出来るのだろう。

「志保ちゃん、最近どう?」

「うーん、ぼちぼちかなぁ……、あ! そう言えばね、子うさぎが生まれたの!」

「! へ~! そうなんだ! 見たいな!」

「いいよ!」

 マヤとペットのうさぎは捕食の関係にでもあったのだろうか? うさぎの両親は、子うさぎがマヤの手に渡るのを拒んでいたようだったが、大丈夫だよ、と志保はうさぎの頭を撫でて安心させてやった。


 そうして、日々の他愛ない話なんかをしていると、すぐにマヤが帰る時間になった。

「じゃあね! 志保ちゃん!」

「うん! 楽しかった! 今度はいつくるの?」

「うーん。いつになるかなぁ……、でもきっとまた来るから」

「? 分かった! 気をつけてね」

「「ばいばーい」」


 平野は周りが見渡せる。マヤの走っていく姿を志保はずっと見ている。日も沈んで、一番星がこちらを見ている。

 志保は、外の世界を知らない。サバイバルだとか、そんな生活じゃなくて、働いて、お金を稼いで、回っていく社会で過ごす人がたくさんいる外の世界を。

 普通の生活って言うのは、その人が日々暮らして来て根付いたもので、誰もが同じとは限らない。

 マヤは、カプセルから出ると、目薬を点した。仮想空間を見続けた後は、目が痛くて仕方がない。

「どうでしたか? 妹さんは」

「えぇ。元気でした……。会う度に、楽しそうで。良かったです」

「そうですか」

 志保が見ているのは、覚めない夢。

 志保のフルネームを藤戸志保。マヤは藤戸マヤ。二人は姉妹だ。

 マヤは、カプセルの中で、管に繋がれて眠り続けている志保の頭をそっと撫でる。そう、藤戸家は、半年前に事故に遭ったのだ。居眠り運転のトラックが、高速で突っ込んで来て両親は即死。対向車線側にいた志保は意識不明……植物状態になっている。

何台もの車を巻き込んだ事件の中で、本当に奇跡的に無事だったマヤは、志保の延命の為に毎日身を粉にして働いている。楽しかった高校も辞め、両親の葬儀も一人で出席し、頼れる親戚も少なく、たらい回しにされながら、自立を決意した。

小学校に上がる寸前だった志保が、笑いながら生活を出来る環境が欲しかった。現実では意識がなくても、志保は生きているから。

マヤは技術の進歩には、本当に感謝した。意識を仮想空間で生きながらえさせる技術。これは、現実に目覚めることのない人の、残りの寿命をせめて少しでも楽しむ為に作られたものだ。

「藤戸さん」

「……はい」

 医師が、マヤに告げる。

「そろそろ、妹さんのこと、前向きに考えてみませんか?」

マヤは自分の無力さに嘆いた。

延命治療を続けるには、莫大な額が必要で、自分の生活費のこともある。それに、志保の意識とマヤの意識を繋げることも、その都度それなりの金額がかかるから、志保には寂しい思いをさせている。両親の保険金だって限りはある。

マヤは限界を感じていた。最初から、途中で背負えなくなるならば、自分の手で妹を殺すことになるならば、こんな判断をしなければ良かったと。

「先生……、私、まだ、頑張りますから」

「……そうですか……」

 医師は険しい表情を浮かべていた。マヤも分かっていた。今の生活では、破産するだけだと。

 それでも、続ける。マヤにとって、志保の存在はかけがえのないもので、時々会いに行ってその笑顔を見ると、絶対に失いたくない。そんな気持ちを奮い立たせている。

 今日も、マヤはコンクリートの林を駆け抜ける。

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