明日もまた、きみに会いたい。

水月つゆ

第1話 きみのいない世界



大学二年の冬。

1月もあと数日で終わる今日は今季一番の寒さだと天気予報で言われていて、確かにその通りかもしれない。と、思わせるほどに外に出ると突き刺すほどの寒さがわたしを襲った。



「明里!」


わたしの名前を呼ぶ声がしてピタリと足が止まる。振り向くと、唯一の友達が駆け寄って来た。


はぁーっと息を整える、あずさの口からは白い息がふわりと宙に浮かび、やがて消える。

この寒さの中追いかけてきたためか鼻が真っ赤になっていた。



「…もう、帰る?」


「うん」



きっと、あずさは知ってる。


どうしてわたしがこんなに早くに大学を出て行こうとする理由を、あの頃、一緒に過ごしていたあずさなら知っている。



「わたしも……」



そう言って止まる、その先。

なんて言おうとしたのか手に取るようにわたしには分かった。

でも、わたしは分からないフリをしてそのままあずさの言葉を待った。



「ううん。なんでもない」


そう言って柔らかく微笑んだ。


あずさは一度は出そうとしたその言葉を飲み込んで、何事もなかったかのように振る舞う。



「あずさはまだこのあと講義?」


「うん。あと二つ」


「…そっか」



手袋も何もしていない手の先の感覚が失われつつあるのが分かり、コートのポケットに手を突っ込んだ。───その時、ブルっ…と短くスマホが振動した。



微かな手の感覚を頼りにスマホを取り出して画面を見ると、もう一人わたしを知る人物からのメッセージが来ていた。



「…もしかして、小林くん?」


「うん。なんかね、この時期になると必ず連絡がくるんだよね」


「小林くんも心配してるんだね」


「わたしのこと?」


「そうだよ。わたしも小林くんも明里のこと、すっごく心配なの…」



そう言った後、あずさの表情はとても苦しそうに歪んでいた。



「明里、自分では大丈夫って言うけど大丈夫じゃないの自分が一番よく知ってるでしょ?」


「…。」


「あの日から、明里の時間は止まってる。」



自分の時間があの日から止まったまま一歩も動けていないことくらい知っていて、だけどどうすることもできない苦しみが、わたしを縛りつける。



「あずさは? 過去に戻りたいって強く、何度も何度も思ったこと、ある?」


「えっ…?」



小さく動揺した後、一瞬考えて、「少しはあるけど…」そう言った。



きっと、人は誰だって一度は過去に戻りたいと思うものだ。願うものだ。


でも、戻りたいと思う、その“強さ”はケタ違いで、多分。───ううん、あずさにわたしの気持ちなんて分からないと思った。



「命に代えてでも、戻りたい?」



こんな質問をしている時点で、わたしは真っ当な人間ではなくなりつつあるのだろうと自覚する。



「…わたしはね、戻りたいって思うよ。命に代えてでも過去に戻りたい。」



戻れる方法があるなら、すぐにそれを実行する。


けど、現実にそんな方法がないことくらい分かってる。理解している──…。



「…なんてね。驚かせて、ごめん。」



あずさに嫌われて友達絶交されてしまったら、わたしはこの先、独りぼっちになってしまう。

その未来を一瞬でも考えてしまったらすごく怖くなって、やっぱりあずさにすがってしまう自分は、とても弱くて惨めだ…



「じゃあ、わたしもう行くね」



小さく手を振った。



「あ…、明里!」


「ん?」


「また明日!」



言いかけた言葉を飲み込んで、いつものようにわたしに手を振るあずさ。


それに、また手を振り返して、わたしはその場を後にした。



あずさが何を言いかけたのか。

わたしには見当もつかないけど、一つだけ分かることはある。


それは、あの日からずっと変わらずに、あずさがわたしのことを心配してくれているという事だけだった…。



大学の門を抜けて、いつものようにあの場所へ行くために右に曲がりその先の道を進もうとした。


その時──…、


目の前に首元に鈴をつけた三毛猫が、じーっとわたしを見つめていた。



「ニャー」



ほんの一瞬、わたしに向かって鳴いた。


不思議と身体は勝手に動いていて、気がつけば三毛猫の目の前にしゃがみ込んで、その綺麗な瞳を見つめているわたし。


しばらくその綺麗な瞳に夢中になっていると、またわたしに向かって「ニャー」と、鳴いた。



「お腹空いてるの? それとも迷子? って、わたし猫に話しかけるなんておかしな人に見られちゃうじゃん」



この寒い中じっとしていたから寒さで頭がやられてしまったのだろうか。そんなことを思いながら立ち上がり、まだ座ったままの三毛猫を避けて通り過ぎようとした。


───チリン、チリン。



「…え?」


振り返ると、なぜかわたしの後ろをついて来ようとしている三毛猫がいた。



「わたしエサなんてもってないよ。早くお家に帰りな?」



鈴をつけているんだから飼われているのは明白で、だったら帰る場所があるということだ。

それなのにこの猫は、なぜか立ち去ろうとしない。それどころか後をついて来ようとする。



「きみは、どうしたいの…?」



猫に問いかけてみても答えなんて返ってくるはずないと知っているのに、気がつけばそんな事を言っていた。



「ニャー」


短く鳴いた後、数歩歩いてわたしの目の前で数秒立ち止まる。そしてまた歩いて、わたしを見つめて短く鳴いた。



これって、もしかして………



「ついて来い、ってこと…?」



ビー玉みたいに透き通った輝きのソレに見つめられると、なんだかそんな感じの事を言われているような気がしてしまう。



「きみは寒くないの? 肉球冷たくない? 」



猫に話しかけているなんて、まるで友達がいないみたいに思われそう。


なんてことを考えていると、チリンチリン…と鳴らしながら数歩先を歩く三毛猫。

当たり前だけど人よりも歩幅が狭いため歩くのは遅く、わたしの一歩がとても大きく感じる。


そんなことがおかしく感じて、小さく笑いながら、ゆっくりと歩くわたし。


よく分からないけど、この時だけは過去の苦しみを少しだけ忘れて、目の前の三毛猫に夢中になっていた。



* * *



三毛猫の後をついて行って数分。


そんなに大学からは遠くない、一つのお店らしき建物の前で立ち止まり、一度わたしを見て、そして建物の中に入った。



「KOHAKU…?」



建物の看板らしきところには名前が書かれているけど、それだけじゃ何屋さんなのかいまいち分からない。

けど、立てかけてあるボードには雑貨・ドリンク等と書かれていた。



あの三毛猫は、わたしをここまで連れて来たかったの…?


いや、違う。


連れて来たっていうこと自体が間違っていて、ただ勝手にそう思い込んでいるだけだ。



「外は寒いから中へお入りなさい」


そう言って、ドアを開けて出てきたのは60代くらいのおじいさん。


入るのを躊躇っていると「外は寒いからね。温かい飲み物でも飲みなさい」と、ニコリと微笑んだ。



「え、っと……おじゃまします。」



結局のところ、寒さで正常な判断ができなくなり温かい飲み物に釣られてしまった。



店内は猫の雑貨が多くて至るところにいろんな種類の猫の雑貨が置かれていた。

落ち着いたオルゴールの音と暖房の温もりで少しずつ身体の感覚も戻りつつある。



「紅茶でよかったかな」


「あ。だ、大丈夫です…」



カウンターに置かれたマグの中からは湯気が上がっていた。



「お嬢さんはここへ来るのは初めてだね」


「は、はい」



人と話すって緊張する。それがましてや目上の人で初対面ときたものだからカミカミになってしまう。

緊張を落ち着かせようと紅茶を一口飲むと、温かくて優しい甘さが広がって、この寒さの中歩いた疲れを癒してくれるようだった。



「もしかしてコハクの後を?」


「…コハク?」



首を傾げると、その時カウンターの奥から「ニャー」と鳴いて姿を現したさっきの三毛猫。



「もしかして……」


「そう。この子がコハク」



おじいさんに頭をスリスリとする“コハク”と呼ばれる猫は、ここで飼われているようだ。



「お昼過ぎにいつも散歩に行くんだけどね。今日は珍しく帰りが遅いから少し心配してたんだけど…」


と、一度コハクを見て、微笑む。



「何もなくてよかった。お嬢さんにとってはここまで来て災難だったかもしれないけどね」


「い、いえ。勝手について来たのはわたしなので…」


「だけどこれも何かの縁かもしれないね」


「え…?」


「ほら。よく、人の出会いは一期一会だって言うでしょ? お嬢さんと出会ったのも、きっと何かの縁だと思うなぁ」



おじいさんは、またコハクを見て「コハクもそう思うかい」と話しかけていた。



「それにね。コハクは少し特殊なんだ」


「特殊……?」


「そう。まぁ、信じてもらえるか分からないんだけど……コハクは傷ついた人をなぜかよく連れて来るんだよ」



おじいさんのカウンター側からぴょんっ、と飛んでわたしのところへやって来たコハク。



「見た目的な傷ではなくて、心が傷ついてる人間を、ね。」



……それって、今の自分みたい。



「お嬢さんの前にコハクが現れたのも偶然なんかじゃないのかもしれないね」



コハクを見ると、透き通るビー玉のような瞳で、じーっとわたしを真っ直ぐに見つめる。

その瞳は、まるで、わたしの過去の事を知っているような気さえしてしまう。


──そんなことないはずなのに。



「お嬢さんと出会えたのもコハクが連れて来てくれたおかげだ。その代わりと言ってはなんだけど、その抱えているものを少し話してくれないかい? そしたら少しはお嬢さんの力になってあげられるかもしれない」



そう言って優しく微笑む、おじいさん。



その後に「ニャー」と、コハクが鳴いた。



「…あ、あの」


「うん?」


「一つ、聞いてもいいですか?」


「もちろん」



「過去に戻りたいって思ったことありますか?」



おじいさんは「うーん…」と、腕組みをして数十秒悩んだ。



「戻りたいと思ったことはあるよ。でも、お嬢さんみたいに強い思いではないのかもしれないね。私の場合は」


「えっ…」


「お嬢さんの表情を見ていたら分かるよ。戻りたいって気持ちが人よりも大きくて強い。それは過去に後悔があるからかい?」


「…おじいさんは、何か見えるの?」



わたしの質問に首を横に振った。



「見えるわけではないんだ。ただ、洞察力に長けているということかな。あとは、コハクが連れて来る人は過去に後悔・やり直したいと思う人がほとんどなんだ」



おじいさんのその言葉は現実的ではないような、何を言われているのかさっぱり分からないことの方が多いけど、それでもこれは現実に起きている事は間違いなかった。



「お嬢さんは、過去に後悔がある?」


「……はい。」


「それを話す──…いや、これはよそう。お嬢さんの心を傷つけるだけだね、すまないね」


「い、いえ…」


「じゃあ最後にこれだけは言っておこうかな」



コホンッ、とわざとらしい咳払いをすると、わたしに一言こう言った。



「お嬢さんはこの世界の人間。過去に囚われてばかりだと、いつか自分の周りの大切な人までも失うことになる。そうなる前に後悔を解消しておいた方がいいよ」



後悔を解消……?



そのときの私は、あまりよく理解できなくてもやもやしたまま席を立った。


紅茶代を払うと言ったけど「今回は特別にサービスです」そう言ってお金を受け取ってもらえなかった。

その代わりと言ってはなんだけど「また来ます」そう言うと喜んでくれた。



外へ出ると温かかった身体は一気に冷えて、まるで急速冷凍されているような気分になる。

こんな寒い中、家までの距離を考えると少しばかり憂鬱だった。



───チリン、チリン。



鈴を鳴らしながらコハクが歩いて来て、わたしの足元で立ち止まりスリスリとしてくる。


そんなコハクを撫でて「またね」そう言った。



チリンチリン。


お店からかなり離れて聞こえるはずはないのに微かに聞こえるような気がして振り向くけど、そこにコハクの姿はない。



そんなの当たり前のはずなのに。


この寒さでおかしくなったんだろうか。



結局、あの場所へは行くことはできなくて、この寒い中ひたすら歩いた。

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