第17.5話 ケンスケ

 ユキとの思い出を取り戻すために、自身の存在証明を差し出し続けた。


 いわば記憶の交換作業とも言えるそれは、きっと随分と進んだように思う。


 思い出したことをまとめていくと、

 俺がユキに暴力をふるった原因を理解できた。


 そこにはなんの難しい事情も、理由もなかった。


 単純明快、俺はユキを好きだったのだ。


 子供の時から、今も変わらず、ずっと。


 でも、健常だったはずの以前の俺は、その思いを忘れていた……ようだ。


 現在進行形で恋をしている相手への感情を忘れるなんて、あり得ない。


 自分でも、どうしてもそう思えるのでピンと来ないが、

 『忘れていた』という表現が一番しっくりきていた。


 だって、今の俺は、こんなにもユキが愛おしい。


 目を閉じればユキの姿が瞼の裏にすぐ浮かんで、

 三つ星レストランの一流シェフが丹精込めて作ったフルコースを

 極上の歓迎と、もてなしを受けて食したかのように、

 満たされた気持ちになる。


 しかし俺は今まで、そのユキを横目に、何人もの女性と交際を重ねていた。


 ここがどうも繋がらない。


 同性ということをネックに、自ら想いを封印していたんだろうか?


 俺は男だから、女性と付き合うのが普通のはずだから、

 女性と付き合っていたのだろうか?


 ……思えば、自分の性自認や性的指向なんて、深く考えたことはなかった。


 いいや、考えないのが普通、なのだろうか。


 自分という人間は生まれた時から周囲に『男の子』として扱われてきたし、

 周囲の『女の子』という存在と照らして、自分の性別を把握して

 自分は男性であると思ってきたし、そこに違和感を抱かず生きてきた。


 身体の特徴としては男性で間違いがないが、では精神はどれだ?と問われた時、

 それが自分で得た答えではないだけに、非常に自信がないことに気づいた。


 男だと言われて、男だと扱われてきたから、俺は男性です、は

 己にしか分かりえないはずの精神を表すには、あまりにも抽象的に思える。


 男の精神、女の精神。


 それらの違いは一体なんだろう。


 お人形遊びが好きなら女性か?

 宝石が好きなら女性か?

 フリルが好きなら?

 ピンクが好きなら?

 おしゃべりが好きなら?

 集団行動が得意だったら?

 地図を読むのが苦手だったら?


 なら、これらが当てはまる男性は、女性と断定されてしまうのだろうか?


 これまで特に気にしていなかったが、考えれば、かなり乱暴なんじゃないか。


 みんな、どうやって自分が女性だ、男性だ、と認識しているんだろう……。


 そもそも、俺はユキが男だから好きなのだろうか?


 この問いは、あまり意味がないように思えた。


 ユキがユキだから好きなんだ。


 ユキの性別がなんであろうと、正直関係ないと思っている。


 実は人間ではありません、と言われても、

 ユキが俺の知るユキで、俺との思い出をもつユキであれば、

 愛せる自信がある。


 人、とは性別ではなく、思い出や記憶、

 それこそ個々人独自の精神と呼べるもので、

 その存在を確立されるべきではないのだろうか?


 ……そして人は、相手のそれを愛するべきではないだろうか。


 ――ジュゥウ、カラン!


 目の前に置かれたグラスの中の氷が溶け崩れた音で、

 思考の渦から解放された。


「はぁ……」


 まるで哲学者気取りな自分に疲れて、ため息が出た。


 記憶を取り戻すために思考する時間が増えたので、

 ガラにもなく深く考える癖がついてきたようだ。


 本来考えていたことから派生して、どんどん横道へ逸れる癖も。


 あー、最初、何考えてたっけ……。


 思い出せなくなってしまった……。


 ソファの背もたれに身体をあずけてグッとノビをして

 ため息の代わりに、深呼吸をした。


 少し外の空気を吸いたい。


 ちょっとばかり水っぽくなっていた麦茶を飲み干して、

 俺はデッキで休もうとソファから立ち上がった。


「ケンスケ? どこに行くの?」

 テーブルで雑誌を読んでいた母さんが声をかけてきた。


「デッキ。ちょっと外の空気吸いに」


「何か飲み物いる?」


「いい、今飲んだし大丈夫」


「何かあれば声をかけるのよ」


 了承の返事代わりに、軽く手を挙げて、玄関ノブに手をかけた。


 どちらかと言えば放任主義だった母さんも、今やすっかり過保護気味だ。


 目に見えない衝撃でイキナリ失神する息子の面倒を見ているのだから、

 仕方のないことだけれど。


 ドアを押し開けデッキに出ると、息が苦しくなるほどに強い太陽の光と、

 それとは対照的に爽やかにそよぐ風が、待ち構えていたように俺を迎えた。


 デッキチェアに身体を深く沈め、湖を視界に入れながら

 ただ、ぼんやりとする。


 ……ユキに会いたいなぁ。


 今でもまだ、ユキを目の前にしたら意識を失ったりしてしまうんだろうか。


 いっそもう会いに行って、ごめんって謝りたい。


 時間を区切ってでも、会えるようにできないか母さんに相談してみようか。


「こんにちわ!」


 ほとんど寝ているような状態でぼーっとしていたら、

 急に明るい女の子の声が耳に飛び込んできた。


 声のした方をなんとか突き止め振り向くと、

 そこには当然女の子が立っていた。


 肩に少しかかるくらいの長さの髪は、

 太陽に照らされているせいで明るく見えるが落ち着いた栗色で、

 丸い顔の真ん中に、ちょんとある、少し上向きの鼻が可愛らしい。


 多分、中学生か高校生くらいの年齢なのだろうけれど、

 イマドキ珍しいくらいに化粧っ気がないので、

 実年齢は上でも下でもあり得るような、年齢不詳感があった。


 夏らしい白いノースリーブのワンピースに、サンダルを履いたその子は、

 確かに見覚えのない女の子のはずだった。


 が、どうしてもその子は、俺の目にはユキにしか見えなかった。


 見える、は正しくないかもしれない。


 目に映る姿は、全く知らない女の子だ。


 でも俺は、この子はユキだと感じているのだ。


 その感覚が、曖昧なものではなく絶対的な確信なので、

 俺は、しばしパニックになった。


 え、ユキだよな……?


 でも、なんか、知らん人みたいに声かけてきてるし、

 姿も、どう見ても女の子だし……?


 なんで……?


 どういうこと……?


「ぼ、わ、わたし、この近くの別荘に遊びに来てて、お散歩してたんです。

 あのー、良かったら少しおしゃべりしませんか? な、なーんて、ハハ……」


 ユキの声ではない声で、ユキが話しかけてくる。


 今、「僕」って言いかけなかったか?


 自分へのサプライズ企画の全容を先に知ってしまっている状態で、

 パーティが始まったような……、そんな気分だった。


 ユキだろ、と言い出してしまうのが憚られてしまって、

 このままノってみようと思った。


「……うん、いいよ。一緒に歩こうか」


 知らない人に話すみたいにユキに話しかけるのが、なんだか気恥ずかしくて、

 言いながら、ちょっと笑ってしまった。


 二人で歩き出して、確信はさらにその度合いを強めた。


 ユキはいつも俺と歩く時、俺の右側を無意識に選ぶのだ。


 歩調が俺より少し早いので、俺のスピードに合わせるための

 いつもの足の運び方。


 歩いてる時、わずかにだけど俺の方に身体を向けた状態で歩くのも。


 絶対にユキだ。


 俺に会いにきてくれたのか。


 母さんに聞いた限りでは、ユキもユキの両親も、

 俺が解離性障害を患って療養している状態であることは知っているようだった。


 心配して、様子を見にきてくれたんだろう。


 からかってみたくなって、名前を聞いたら「サエグサ マキ」と名乗ってきた。


 誰だよ。


 ユキは嘘をつく時、目は離さないけど、顔だけ逸らす癖がある。


 さっきからずっと、ユキは顔をこちらに向けてこない。


「幼なじみがいらっしゃるんですね……」


 空々しく、そんな風に聞いてきたので、わざと動揺させるような答えをした。


 可愛い幼なじみ。


 クールに見えて結構表情に出るんだよな、ユキは。


「うわっ」


 しっかりしてそうで、そそっかしい。


 何もないところでコケかけたユキの手をとって、再び歩く。


 手なんて繋いだのは、いつぶりだろうな。


 小さかった頃とは、お互い随分違う。


 色々と変わったし、変わってしまった。


 そういえば、この先には小さな川が流れてたっけ。


 以前、母さんたちと訪れて意識を失った場所でもある。


 あの後、そこに自分が失っている記憶の何かがあるのかと思って

 何度か行ってみたけれど、倒れるようなこともなければ、

 何か思い出すこともなかったので、

 あれはまだ不安定だった時期に、たまたま起こってしまった反応だったのだろう。


 小さな青い花がたくさん咲いていて、とても綺麗な場所だから、

 ユキにも見せてやりたいな。


 一緒に行こう、ユキに声をかけようとしたら、

『あの時とは逆だ』

 と、呟くような声が頭の中に響いてきた。


 あの時?


 思うと同時に、まるで外に漏れていた記憶を脳が一気に吸い込んだように、

 あの日の出来事が思い出された。


 幼かった夏の日の、忌まわしい出来事を。


 そして、どうにも納得がいかなかった疑問の答えがそこにあった。


 俺はユキを守るために、ユキを好きでいることをやめたのか。


 そうか、そうか。


 馬鹿だな、小さい頃の俺。


 いいや、いや、分かる。怖いよな、それが大切な人であればあるほど。


 でもな、違うんだよ。


 好きな人に触れたいと思うことは、悪いことでも怖がることでもない。


 恐れるべきは、相手を無視して自分の欲を満たそうとする驕りだ。


 愛は、自分を盲目にするための言い訳じゃない。


 孤独を癒す万能薬でもない。


 どこまでも、相手とも、自分自身とも、向き合うための合図なんだ。


 分かりあうため、慈しみあうため、包みあうための、

 スタートの号砲なんだ。


 憑き物が落ちた。


 身体が重さを無くしたようだ。


 目の前が開けた。


 天から光が降り注いでいるように、晴れやかで穏やかで、

 悟りを開くとはこういうことなのかもしれないと思えた。


 一体、いつからの呪縛だったのだろう。


 俺の手で縛ったのだろう“それ”から、ついに俺は解放されたんだ。


 どこから話せばいいかな。


 ユキは聞いてくれるかな。


 景色を楽しんでいるのか、俺の隣を静かに歩くユキに言った。


「……この先に、綺麗な小川があるんだ。そこに行ってみない?」

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