第18話

 あの日、偶然訪れた雑貨屋のこと、食べさせられたキャラメル、

 そこにいた男のこと、僕の前身のこと、

 ケンスケと会えなくなってからのこと……。


 ケンスケは、一つひとつをしっかり理解するように、

 時折、質問をしたりしながら、

 じっくりと僕の話を聞いてくれた。


「雑貨屋……、キャラメル……」


 全てを聞き終え、頭の中を探るように目を瞑り、ケンスケが言った。


「そっか、そうだったな。

 いけ好かねー店員が居て、ユキが怪しいキャラメル食わされて……」


 失ったという記憶は、まだ完全に戻ったわけではないようだ。


 眉間に手をやり、しばらく考え込んでいたが

「ひとつ、気になるんだけど」と切り出して

「そのキャラメルのマジナイって、まだ残ってるのか?」と聞いてきた。


 全身、隅々まで視てみるが、ケンスケのどこにも力が及んでいる様子はなかった。


 そもそも、そんなものが残っているようであれば何も言わず、

 すぐにでも消していただろうけど。


「……うん、消えてる。大丈夫だよ」


 僕が言うとケンスケは「そっか……」

 ゆっくり息を吐きながら、「良かった」と言った。


「ほんと、変なことに巻き込んでゴメンね……」


「ユキは悪くないだろ。趣味の悪いことした雑貨屋のやつが悪い!

 今度見つけたら、一発ブン殴ってやりてぇ……!」


 ケンスケは握りこぶしを、もう片方の手のひらに叩きつけ憤ると、


「……だけど」語気を弱めて続けた。


「ぶっちゃけ俺としては、ありがたかった……のもある」


「どういうこと?」


 驚いて眉をひそめた。


「…………笑うなよ」


 顎を突き出して、いじけた声色で言うと、髪を乱暴に掻き乱して、


「……俺、一人で出来ないんだよ。その、……ナニを」と、小さく声にした。


「えぇ?」


 なんの話が始まったのかと、つい頬が引きつってしまった。


「笑うなって言っただろ……!」


「ごめん……。でも、その、ナニって、つまり……?」


「だから……、自慰が出来ないんだよ。

 出来ないって言うか、苦手なんだ。罪悪感に襲われるっていうか……」


「そ、そうなんだ……、それで……?」話の筋が見えなくて困惑した。


 ケンスケは両手で顔を覆い、やおら天を仰いでから、

 泣き出しそうな情けない呻き声を上げて、


「ハー……、いや本当サイテーなんだけど、

 それが、俺が彼女を作りまくった理由なんだよ……」


 納得と、うっすらとした侮蔑が心に浮かんだ。


 要するにケンスケは、自分一人で発散できないの解消のために、

 女性を利用してきたと告白しているのだ。


「俺はユキを好きだったし、

 知識も自覚もないうちから、ユキに性を感じてた。

 だけど、俺はユキにそういう感情をぶつけるの、絶対的な禁忌にしてたんだ」


「な、なんで?」


「その……、覚えてるか? ユキが三歳くらいの時、裏山であったこと……」


「あー、僕が変態にぶっ…………、コホン、僕が変態に襲われかけたやつね」


「……認識の差は置いておくとしてだな……、

 あの出来事が、当時の俺はかなりショックだったみたいでさ。

 ユキを性的な目で見ることが“悪いこと”になっていったんだと思う」


「それって……」


「ユキを好きでいたら、

 俺もユキに触ったりしたくなるんだって気づいたから、

 ユキを好きな気持ちごと、消したんだ。

 それこそ、暗示のレベルでな」


「僕に、危害を加えないため……?」


「みたいだな。ガキの発想とはいえ、ぶっ飛んだ考えだった。

 だから俺はさ、今回のことで、あるべき状態に戻れて良かったとも思ってるんだ。

 好きな人を好きだって思えない状態って、歪すぎるだろ?」


「そっか……、うん、そうだね」


「キッカケは酷いもんだったけど、元に戻れたし……。

 マジナイも消えてて、本当に良かったよ……」


 ケンスケは自分の手のひらをじっと見て、


「ユキを好きな気持ちは、確かに俺の気持ちだ」


 見つめていた手をぎゅっと握って言うと、

 僕としっかり目を合わせて、ケンスケは続けた。


「ユキ。俺はお前のことが、ずっと好きだった。俺の、恋人になってください」


 子供の頃から、どれほどこの言葉を欲しがってきただろう。


 しかし、いざそれが叶ってみれば、僕の心は悲しみを含んだ戸惑いで溢れた。


「…………僕も、ケンスケのこと、大好きだよ。でも……」


 どう言葉にするか、すごく迷った。


 今までのどんな試験や問題集よりも、難しい。


「このまま、僕たちが恋人同士になるには、色んなことが起こりすぎたって思う。

 事情はどうあれ、ケンスケとおばさんたちに

 どれだけ負担も迷惑も、かけたかって思うと……。

 ごめん。素直に、喜べないんだ……」


「うん……、なるほど。他にはどうだ?」


「えっ、他って何?」意外な反応にギョッとした。


「ユキが、俺と付き合うのに問題だなって思うところは、他にどんなことがある?」


「えっ、ええっと、えっと、同性同士だし……?」


「うん」


 優しいけれど、まるで次を促すような相槌だった。


 なんだろう、ケンスケは何を聞きたいんだろう。


 ――言いたくない。これは言っちゃダメなんだ。


 そんな言葉が脳裏をよぎったけれど、

 ケンスケの頑とした意思のこもった目に気圧され、

 思考を鈍くした脳が口と直結し始めたように、言葉が吐き出された。


「……ず、ずっと思ってたんだけど…………」


「なんだ?」


「……僕は、ケンスケに依存してるのかなって。

 僕、家族もああだったし、友達っていう友達もできなくて……、

 なにかと言えば変態は近寄ってくるしで、

 ケンスケに助けてもらうこと、すごく多かった」


 声が震える。


 泣きたいわけじゃない。


 秘め続けた本音を曝すことが生まれて初めてだったから、緊張してるんだ。


「ケンスケがさっき言ってたように、僕も、ケンスケとずっと一緒にいるのが

 当たり前で、自分と同じ存在みたいに思ってた。

 だから、守ってもらうのも当然だってどっかで思ってたし……、

 あんな……脅迫みたいなことをなんの疑問も持たずに、できたんだと思う……」


「ユキ」


 ケンスケが手を握ってくれて、初めて気がついた。


 身体が震えていたことに。


 優しく、背中をさするように叩かれて、

 ついに涙も出てきた。


「ケンスケをすごく好きだって思ってるけど、依存だったらどうしようって。

 これが、お互いを不幸にしてしまう結果になる想いだったら、

 どうしようって、すごく怖い……!」


 ケンスケは、感情を一気に溢れさせた僕をそっと抱き寄せると、

 何も言わずに、落ち着くのを待ってくれた。


 ケンスケの体温と心臓の音を感じる。


「ユキ」


 荒かった呼吸が静かになってから、ケンスケが話し出した。


「俺な、ずっと昔から、あの裏山であったこと、

 話題にしちゃいけないって思ってたんだ」


「どうして……?」


「前までは、ユキを傷つけないため、みたいに思ってたけど、

 ホントは、俺が忘れたかったっていうのがあるのかなって。

 ユキが汚されたように思えて、なかったことにしようとしてた。

 何があっても、ユキはユキで、それは何も変わらないはずなのにな。

 俺は、ユキに近づく変な大人たちからユキを守ることで、

 俺の中の理想のユキを守ろうとしてたんだと思う」


「……僕たちって、なんか複雑だね」


「だな……。距離が近すぎたし、お互いのこと知ってるつもりで

 思い込むようなとこも、かなりあった気がする」


「あんまり踏み込んだ話とか、してこなかったよね。

 なんか、察する、察してもらう、みたいなのが普通で」


「うん。だからさ、これからは色んな話をしないか?

 ユキがさっき言ってた“問題点”も、話し合ってさ。

 俺は、ユキとなら乗り越えられるって本気で思ってるよ」


「ケンスケ……、強くなったね」


「お? ハハ、そうかな。

 こういう風になって、嫌でも自分の弱さを認めることになったから、

 取り繕うものがなくなって、開き直ってるのかもな」


 たった数ヶ月で、ケンスケがここまで色んな考え方をするようになったなんて。


 療養の間、どれほど深く考え込んでいたんだろう。


 話してるうちにどれくらい時間が過ぎたのか、あたりが少し薄暗くなってきた。


「冷えてきたな。なぁ、ユキ。ロッジに行こう」


「僕も?」


「ああ」


 ケンスケは僕とくっついていた身体を離して言った。


 触れていた部分に流れてくる、空気の冷たさが寂しい。


「僕がいきなり行くと、おじさんもおばさんもビックリしちゃうよ?」


 何事もなかったのは運が良かっただけで、僕がケンスケと会うことで

 ケンスケの身体にどんな反応が出るのか、予想はできていたのだ。


 このまま、ノコノコとおじさんとおばさんに会いに行くのは、

 やぶさかでしかなかった。


「まぁ……、だろうな。いいじゃん、心配してこっそり見にきてたユキを、

 俺が偶然見つけたことにしよう」


 立ち上がると、腕の筋を伸ばしながら、

 何のこともないようにケンスケが言ってのけた。


 こうと決めたあとの思い切りの良さは、

 いつものケンスケらしくて安堵したけれど、

 一時は全身が麻痺していた状態だったと聞いているだけに、不安は拭えない。


「父さんにも母さんにも、話したいんだ。

 相談っていうか……。ユキにも一緒にいてほしい」


「なんの相談……?」


「問題点を一つ失くせたらいいなって」


「でも……」言いかけた時、


「ケンスケ……!」僕たちの背後から声がした。


 ケンスケのおばさんだった。


 ハァハァと乱れている呼吸、額に滲むどころか、

 シャツ全体が汗で浸るほど汗をかいている様子に、

 胸が締め付けられた。


「母さん……、あ、ゴメン。なんも言わずに出掛けて……」


「もう、電話も持たないで! 心配するでしょ……! あっ! ユキノリくん!」


 おばさんはケンスケの後ろに隠れるようになっていた僕を見つけて、

 大きな目をさらに見開いて、驚きの声を上げた。


「こ、こんにちは」


 咄嗟に挨拶をしてしまった。


 謝るべきだったろうか……。


「デッキで休んでたら、ユキがコソコソ隠れてるのを偶然見つけてさ。

 一緒に話してたんだ。どうしても心配で、姿だけ見に来たんだってさ」


 気まずい空気を察してか、ケンスケがフォローしてくれた。


「そう……、ケンスケ、大丈夫なのね……?」


「うん、驚くくらい何も起こらなかった。逆に、肝心なことを思い出せた。

 分かんないけど、もう俺、大丈夫だと思う」


 おばさんはケンスケの言葉を聞いて軽く息を吐くと、全身から力を抜いて言った。


「とにかく良かったわ。さ、暗くなる前にロッジに帰りましょう。

 ね、ユキノリくんも」


「あ、はい……」


 成り行きで、結局ロッジに行くことになってしまった……。


 おばさんが怒っているような様子はなくて、少しだけ安心した。


 僕、ケンスケ、おばさんの三人で、薄暮の森を歩いてロッジに向かう。


 ホホーホホーと、遠くから聞こえてきたフクロウらしい鳴き声が響いている。


 なんだか張り切って見えるケンスケにちょっとした不安と、愛しさを覚えながら、

 とにかく自分ができる限りのことをしてみようと決意した。

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