第19話

 母さんとユキと、三人でロッジへ向かう間、

 俺の頭の中は、一つのことでいっぱいだった。


 ――ユキ、かわいかったな……。


『僕も、ケンスケのこと、好きだよ……。ずっとずっと、好きだった』


 その時のユキの姿は、儚く、美しく。


 その美しさはあまりにもセンセーショナルだったので、

 視覚野に焼き付いてしまったのか、まだなお目の前にあるように鮮明だ。


 ほんのりと桜色になった白い頬をポロポロと涙が流れる様は、

 色とりどりのビー玉が散らばり跳ねるように幻想的だった。


 涙に濡れ、キラキラ光る睫毛は朝露をたたえたユリのように艶やかで貞淑で、

 その下で揺れていた黒目がちでつぶらな瞳は、薄曇りの空に浮かぶ月のように、

 荘厳でありながら、消えそうなほどの憂いを帯びていた。


 俺への気持ちを吐露し小刻みに震えていた唇は、

 真白い小鳥を思わせるほど、純新無垢で愛らしかった。


 綺麗だ綺麗だ、とは思っていたが、自分の気持ちを自覚して、

 想いを通わせた今、俺の目にユキは太陽よりも神々しく

 輝いて見えるようになっていた。


 隣を歩くユキから、光でも放たれているような錯覚。


 好きな人がいる、というのはこういう状態のことだったのかと、

 遅れてやってきた思春期を実感した。


 身体の内側からエネルギーがどんどん湧いているのが自分でも分かって、

 今なら、どんな困難だって小学生用の跳び箱一段を飛ぶような気持ちで

 越えられる気がした。


 根拠のない、しかし、確固たる万能感。


 まずは両親にユキとの交際を認めてもらおう。


 それからユキの両親に心からの謝罪と、ユキへの愛を伝え、交際を認めてもらう。


 言うは易し、行うは難し。


 ユキが言っていたように、どれほどの心配と迷惑をかけたかは、

 俺だって分かっているつもりだ。


 俺からの暴力で傷ついた、悲痛なユキの姿。


 ユキの母親の、絶叫。


 俺自身が力任せに破壊した、人様の家のリビングの惨状が、

 ありありと思い出される。


 その罪の意識が、膝より遥か下にあったはずの跳び箱一段の大きさをグンと変えていき、

 みるみる富士山かチョモランマのようになったが、

 頭を首から吹き飛ばす勢いで左右に振って、そのイメージをかき消した。


 やってやる、やってやるぞ!


 決心とやる気に満ち満ちて、鼻息荒いままロッジに着くと、

 丁度、父さんが仕事から帰ってきたところだった。


「ユキノリくん、どうして……?」


 三人仲良く並ぶ俺たちを見て、父さんも相当驚いていたが、

 ユキを嫌がる様子もなく、とにかく家へと招いてくれた。


「ユキノリくん。もう遅い時間だけど、お家には連絡しているの?」


 台所から母さんが聞いてきた。


「あ、ちょっとしてきます」


 ユキはリビングのソファから立ち上がると、スマホを手にデッキへと出ていった。


 その様子を見届けて、少し緊張した。


 このままの勢いで話をしてしまおうか。


 まずは、いっぱい心配かけたことを改めて謝罪だ。


 それから、俺とユキが愛し合っていることを伝えて、

 交際の許可をもらえるようにしよう。


 よし。


 心の中で気合いを入れると、

「ねぇ、母さん。父さんも、話がしたいんだ。ユキも入れて」と告げた。


「え? うん、ええ、分かったわ。

 まずはご飯食べましょうよ、お腹空いたでしょう?」


 シリアスな雰囲気を出したつもりだったのに、

 あまりにも呑気な返答がきて面食らった。


「うぇ? え、いや、ちょっ……」


「ケンスケ、まずは飯だ」


 珍しく発言した父さんまで、とにかく食事を推してくる。


 軽く混乱した。


 父さんも母さんも、そんなにお腹が空いてるの……?


 俺の覚悟の感じ、伝わんなかったかなぁ……?


 察してよ……、この真剣な表情。


 父さんも母さんも、当惑し置いてけぼりな俺をスルーして、

 夕飯の準備に勤しんでいる。


 突如として奇妙な世界に紛れ込んでしまったようで、恐怖を覚えてしまい、

 仕方なく、母さんが作ってくれたご飯を食べることにした。


 もちろん、電話から戻ったユキも一緒に。


 オクラとカイワレ、ネギたっぷり、

 天かすとゴマ油がアクセントの、母さん特製冷やしうどんは俺の好物のひとつだ。


「いただきます!」


 好物を前に嬉しくなって、さっきの恐怖はどこへやら、

 食欲マシーンフル稼動、元気に合唱してありがたく食事を頂くことにした。


 もちもちツルリとしたうどん麺と、サックリした歯ごたえの天かすの香ばしさ、

 カイワレとネギのツンとした風味とオクラのねばりが、

 いい感じに口の中で混ざり合い、そこへ麺つゆと絡んでいたゴマ油が、

 トドメの一撃とばかりに香ってくる。


 みんなで他愛もない雑談をしつつ、

 気が済むまで存分に、うどんを掻き込み平らげて胃袋を満たした。


 食器を片付けると、母さんが手際よく全員分のコーヒーを用意して、

 砂糖ポットとミルクをテーブルの真ん中にササッと置き、

 それまでの俊敏さを無かったことにするように、すん、と席に着いた。


 話を聞きましょう、ということらしい。


 母さんと父さんが横並びになって、まるで集団面接のような感じになった。


 思わずユキに視線をやると、ユキも困惑した目でコッチを見ていた。


 俺はとにかく頷いて、安心するように念を送り、母さんたちに向かって言った。


「俺、ユキのことが好きだ」


 あ、間違えた。


 まず謝ろうと思ってたのに。


 スマートに親を気遣える感を出して、

 成長した息子アピールをするつもりだったのに。


 しかし、どれだけ動揺しても後悔しても、口から出した言葉は戻ってこない。


「俺は、ユキが一番大切な人になったから……、

 これからも一緒にいたいと思ってる」


 今、日本語変だったかも、まぁいいや。


「色々迷惑も……、心配もかけたけど、ごめんなさい……」


 頭を下げて続ける。


「俺、ユキのこと真剣なんだ。将来も、まだぼんやりだけど、考えてる。

 山ほど迷惑かけたことも、

 簡単に許してもらえるワケないことやったのも分かってる。

 だけど、どうか、俺とユキが一緒にいること、許してほ、ください……!!

 お願いします!!」


 ゴッッッ。


 懇願と同時に思い切り頭を下げたせいで、

 勢い余ってテーブルに頭突きをしてしまった。


 まったく締まらない。


 ひたいが無駄に痛い。


 テーブルよ、ごめんな。


 テーブルの天板の無事を確かめようと撫でていたら、

 急にガタッと音がしてユキが椅子から立ち上がり、床に手をついていた。


「ユキ……?!」

 ビックリして、つい名前を呼んだが、すぐに俺も倣ってユキの隣で手をついた。


 切々と、ユキが言う。


「ヒドイことを沢山して、ご迷惑おかけしました。

 僕の家のことでも、すごくお世話になって、本当にすみません……。

 ケンスケにしたこと、謝って済むことじゃないのも分かっています。

 まだ、どう償えばいいか分からないのも正直な気持ちです。

 だけど、僕も、ケンスケ……くんと同じ気持ちなんです!!

 二人で一緒にどうしていくべきか考えていきます!

 だから、どうか、僕たちのこと、引き離すようなことだけは、許してください!」


 ユキが頭を下げたのと同時に、俺も頭を下げた。


 一世一代って、こういう気持ちかも。


 小さな壁掛時計の、秒針の音が聞こえるほどの沈黙。


 土下座だから、両親の顔も見えないし、どんな様子なのかも分からない。


 チッチッチッチッチッチッ……。


 今日は時計の夢を見そうだな、と思った時。


「良かったじゃない、ケンスケ」


 母さんの、あっけらかんとした声がした。


 かつて俺が母さんと一緒に商店街の福引を引いて、ジュース一本を当てた俺に

 声を掛けてきたのと同じトーンだった。


「さぁ、二人とも立って。椅子に座って」


 不思議なくらい、いつも通りな母さんに言われるがまま、

 ユキも俺もすごすごと椅子へと戻った。


 そんな様子をしげしげと眺めて、母さんが言った。


「……二人とも、本当に大きくなったわねぇ……」


 母さんは、父さんと目を合わせて微笑んでいる。


 父さんも黙って微笑んで、うんうんと頷いている。


「お母さんねぇ、あなたたちが抱っこできるくらい小さかった時のこと、

 昨日の事みたいに、今でも思ってるのよ。

 そんな子達も、大切な人ができるくらいに成長してたのね……」


 フフ、と、どこか悲しそうに笑い、

「おめでとう」

 母さんは父さんと手を取り合うと、俺たちに言った。


「大切な人ができるって、素敵なことなのよ。

 あなたたちにも、そんな日がきて、本当に良かったと思ってるわ」


 小さな子に、絵本を読み聞かせるように優しく話す母さんの目に、

 涙が滲んでいくのが分かって、俺も鼻の奥がツーンとした。


「……ありがとう」


 小さな声で、そう言うのが精一杯だった。


「ユキノリくんも、ケンスケも」声の震えを振り払うように、母さんが続けた。


「大切な人ができたなら……、いいわね?

 自分のことも、その人と同じくらい大切にしなくちゃ、ダメなのよ?」


「うん……、分かった……」


「はい……」


 俺もユキも、涙ぐみながら返事をした。


「ほらほら、コーヒー、冷めないうちに飲みましょ。

 そうだ、クッキーがあったわねぇ」


 涙を拭うと、母さんはまたセカセカと働き出し、

 吊り戸棚にうーんと背伸びした。


「手伝うよ」


「あら、ありがとう」


 戸棚からクッキーの箱を取り出し、皿にあけながら、

「二人ともさぁ……」

 父さんと母さんに話しかけた。


「もしかして、俺が何言い出すのか、勘づいてた?」


「そうねぇ、まぁ大体はねぇ」


 父さんも、首を縦に動かしている。


「あんたが言ってた通り、症状が本当に良くなったのは分かったから、

 あとはユキノリくんのことかなって、予想はしてたわよ」


「本当に良くなったって……、なんで分かったの?」


 テーブルにクッキーを運びながら尋ねた。


「もう、本当にこの子は! 自分で気付いてなかったのね!

 ご飯よ、ご飯! 全部残さず食べたの、いつぶりだと思ってるの!

 川から、ここへ戻ってくる時だって、一人で考え事して百面相して……!

 いつものケンスケに戻った!って、安心したのよ?」


「感情が表情に出てるのが分かって、父さんも実は感動してたんだよ」


 講談師の口上よろしく感情豊かにまくし立てた母さんに続いて、

 父さんも俺の復調に気付いていたと、やや興奮気味に言った。


 キョトンとした。


 そう言われれば、そうだったのか。


 今日まで、自分を取り戻すことや、ユキのこと、

 考えることに必死で、自分の生活が疎かだったんだな。


 お腹がすいた、とか、景色がどうだ、とか

 喜怒哀楽すら感じ取ることを忘れていたかも。


 母さんが毎日作ってくれてたご飯も、ちゃんと覚えてないや。


 大切な人と同じくらい、自分も大切に、か。


 俺はまだまだ、子供なんだな……。


 ――コンコンコン!


 和やかな空気を壊す、急かすようなノックの音に全員が玄関を見つめた。


 父さんが、サッと玄関に立ち、

「はい、どなたですか?」と聞いた。


「夜分にすみません、タカヤマです」

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