第16話
高いところから落ちたような感覚がして、目が覚めた。
病院だな、と天井と自分に取り付けられた点滴を見て、すぐにわかった。
大丈夫、記憶がある。
父さんと母さんと散歩に行って、倒れたんだ。
手に力を入れて、握り拳を作った。
膝を少し曲げてみる。
身体も動く。
近くに母さんがいる気配がしたので、顔をそちらへ向けた。
「母さん」
声も出た。
「ケンスケ! 気がついたのね! 待ってて、お医者さんを呼んでくるわ!」
看護師さんとお医者さんが、一斉にぞろぞろとやってきた。
ライトを目にチラチラと当てたり、移動させながら何度か指を鳴らしたり、
腕と脚を軽くツネってきたり、身体を動かすように指示してきたりした。
自分の名前とか、簡単な質問にいくつか答えると、
ベッドで休むように告げられて、
先生たちは、父さんと母さんも連れ立って病室から出て行ってしまった。
病室は他に人がいないのか、シーンと音が聞こえてくるくらいに静かだった。
思い出した。
ユキノリを思い出せた。
しかしユキのことを考えようとすると、また、記憶の霧散が顕著になる。
映画のフィルムように、一コマずつの静止画しか思い出せない。
せっかく記憶の断片が浮かんでも、すぐ白くなって消えて、
どんな画だったかも思い出せなくなってしまう。
ユキに酷い暴力を振るった、はずだ。
でも、なぜそんなことをしてしまったのかは、分からない。
俺とユキは、良すぎるくらい仲の良い幼なじみだ。
ユキノリとは、あのオルゴールの事件で知り合って、
一緒に遊ぶようになったんだった。
キャンディのお返し、というか、あの当時はそこまで考えられてなかったけど、
慰めてくれたお礼をしたくて、家を訪ねた。
ユキノリの家のインターホンを押すと、おばあさんが出てくれて、
おばあさんの脚に隠れるようにして、ユキがこちらを見ていた。
幼い俺の目から見ても、ユキはすごく可愛くて、見惚れたのを覚えてる。
おばあさんの前でお返しを渡すのが一丁前に恥ずかしくて、
一緒に遊ぼうって誘った。
ユキの家の庭で遊ばせてもらって、タイミングをみて、
その当時好きだったクッキーを一枚、渡したんだ。
ありがとう、が照れくさくて言えなくて、
「ほら」って言って突きつけた。
ユキはキョトンとしてたけど、俺よりもずっと小さい手でクッキーを受け取って、
「ありがとう」って、笑ってくれた。
一目惚れだったんだと思う。
二目惚れとか、三目惚れとか言うのかもしれないが。
そうだった。
あの日から俺は、毎日のようにユキんちに遊びに行くようになったんだった。
二人で宇宙への旅を空想して、スペースレンジャーごっこをしたり、
絵本を読んで感想を言い合ったり、物語の続きを考えたり、
庭を掘り返して、あるはずもない宝物を探したり、ただ手を繋いで笑いあったり。
どんな遊びも、ユキと一緒ならスペシャルな遊びになった。
そう、確かプロポーズをした記憶がある。
ユキに向かい合い、両手をとって
「ユキちゃん、大人になったら僕と結婚して」
マセたガキだった。
異性とか同性とか、小難しいことは頭になく、
俺は、ただタカヤマ ユキノリという存在が大好きだったのだ。
「うん、ユキ、ケンちゃんとケッコンする!」
多分、ユキは意味を分かってなかっただろうけど、
プロポーズを受けてもらえて、とても嬉しかった。
プロポーズのあと、テレビなんかの見様見真似で口付けをした。
くすぐったくてあったかい、幸せな記憶で心が満たされる。
幼かったけれど、あれは確かに俺の初恋だった。
恋、恋か。
連想ゲームのように、中学生の時に初めてできた彼女を思い出した。
学校帰り、同級生数人で立ち寄っていたコンビニで、声を掛けられたんだった。
年頃らしく異性に対しての単純な興味もあって、交際を始めたんだっけ。
四歳年上の彼女は、当時の俺からすると大人の女性って感じで魅力的だったし、
明るくて、はっきりした性格も好きだった。
今にして思えば、あの交際が俺の恋愛の基準になったところがある。
家で遊ぼうと言われて家に行けば、押し倒される。
出掛けようと言われて外出すれば、せがまれて公衆トイレで。
徹底的に、恋愛イコール性行為だと刷り込まれたような気がする。
付き合うとはそういうことだろう、みたいな社会通念もあって
特に疑問には思ってこなかった。
今までのどの恋愛も、肉体的な繋がりがある濃い関係だったはずなのに、
ユキとの初恋と比べると、どこか淡白だったように思う。
思い出補正、というやつなんだろうか。
しかし、あれほど好きだったユキへの恋心を、
俺はいつの間になくしてしまったんだろう。
そこまで考えた時、ユキが泣いている声があたりに響きだした。
小さい頃のユキの声だ。
ほぼ絶叫と変わらないような泣き声。
こんなに激しく泣いて、一体何があったんだろう。
ユキ、抱きしめに行かないと。
そんなに泣いたら壊れてしまうよ。
まばたきをする感覚で、目を開けた。
いつの間にか、眠っていたのだろうか。
身体を起こし、辺りを確認して、ログハウスに帰ってきているのだと分かった。
太陽の眩しさを防ぎきれずに明るく光るカーテンと、
何かを急かすように鳴く小鳥たちの声が、今が朝であることを知らせている。
「おはよう、ケンスケ」
母さんが、台所で朝食の用意をしながら、明るく声をかけてきた。
「おはよう……。ねぇ母さん、病院からは、いつ帰ったの?」
「……」
母さんはピタリと手を止めて、黙ったまま、俺の顔を見つめてきた。
「……?」
母さんは台所から出てきて、エプロンを外すと、
そっとベッドに腰を掛け、妙に落ち着いた声色で話し出した。
あれから三日が経っている、と。
その間、俺は自分の足で歩いて、食事も自分の手で取り、
普通に会話もして生活していたこと、
昨夜も、「おやすみ」と挨拶して眠ったことを聞いた。
だが俺には、病院のベッドで考え事をしていた以降の記憶がない。
今までに聞いたどんな怪談よりも、ゾッとした。
気味が悪い。
倒れていたなら、まだともかく、
日常生活を送っていたはずの記憶がなくなるなんて。
ここで食事をし、会話をし、おやすみとベッドに入った『それ』は、
本当に俺だったのだろうか。
「平気よ、ケンスケ」
母さんが俺の肩を撫でながら言う。
「そういう症状が出てしまうことも、あるらしいの。
でも、もうだいぶ良くなってるから、一緒に頑張ろうね……」
涙声で話す母さんに、つられるようにして俺もなんだか悲しくなってきた。
小さかった時のように、母さんの身体にしがみついて泣いた。
「母さん。俺、思い出したんだよ……」
「何を……?」
「ユキノリのこと。断片的だけど、俺がユキノリにしたことも」
「そう、……そうなのね……」
「俺がこうなったことに、ユキが関わってるのも分かってる。
ユキのことを思い出そうとすると、よく分からない症状がでることも」
「……」
母さんは沈痛な面持ちで黙っている。
「でも俺、思い出したいんだ。今のままじゃ、ユキに会えないんだろ?
俺、ユキに会いたい。
ユキと話したい。
ユキがいないとダメなんだ。
母さん、俺が思い出せてないユキとのこと、教えてほしい」
母さんは真剣に話を聞いてくれたが、
とにかくお医者さんに聞いてみてからね、と言って、
その日は、ユキについて何も教えてくれなかった。
お医者さんへ相談に行くと、渋い顔をされたが
原因と向き合うことで回復したケースもあるらしく、
何より本人が強く望むのならと、より頻度を上げた通院を条件に
試してみても良いと言われた。
翌日から母さんに協力してもらって、時折、意識も記憶も失いながら、
これまでのユキとの思い出や、事件のことを思い出すようにしていった。
思い出したこと、考えたことを忘れてしまわないように、
日記のように記録も付けた。
自分以外に、もう一人自分がいるような奇妙な感覚と、
そもそも自分という存在を疑いたくなるような記憶の喪失。
それらに真っ向から立ち向かうのは、思っていたよりも苦痛だった。
なぜここまでするのか、自分でも分からなかった。
ただどうしても、俺のそばにユキがいないことが耐えられなかった。
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