第15話
気がつくと、テレビ画面を見つめていた。
変わったテレビだった。
無音で、番組が放送されているわけではなく、
何の変哲もない壁であったり、天井であったりが映され続けている。
何が起こるわけでもなく退屈なので、観るのをやめたいのだけれど
どうしても画面の前から動くことも、視線を外すことも出来ないので
仕方なくずっと眺めている。
たまに女の人や男の人が画面内に現れては、ウロウロしたり、
こちらに話しかけるように口を動かす様子が映されるのが、
唯一動きのある時間だ。
退屈だなぁ。
何か他にすることはないかな。
ん?
そもそも『他』ってなんだろう。
なにかをする?
するとは?
俺が?
そもそも『俺』って誰?
分からない。
考えられない。
――――暗い。
謎のテレビ観賞は続いていたが、
俺はいつしか、これが自分の視界であったことを思い出していた。
何か考えたいという漠然とした欲求はあるのに、
いざ考えようとしても、その考えようとしたことは
砂が強い風に吹き飛ばされるようにすぐさま霧散してゆき、
また欲求だけが焦れったく残る、を繰り返している。
それでも、単純な情報くらいは思い出せるようになってきた。
この人は、母。
そして父。
ここは、家。
俺が生まれた家。
身体を動かしたいし、声も出したいけれど、
自分自身は体と別の、隔たれた場所に閉じ込められているようで不可能だった。
母さんが手や脚に何かしてくれているようだけれど、
その感覚すらない。
――――ケンスケ。
唇の動きから、自分がそういう名前だったと思い出せた。
俺はどうしてこうなったんだろう。
思い出せない。
また暗闇が来る。
怖い。
どうやら車に乗せられ、家とは違う場所に連れられた。
山の中に来ているようだった。
思い思いの形で真白い雲が浮かぶ、抜けるような青い空と、
目に沁みる明るい木々の緑。
目前に広がる湖の水面がそれらを映し、眩むような太陽の輝きを反射して
ゆらゆらと風に揺れている。
吹き抜けるようにして、土の匂いや草木の匂いが
『俺のいる場所』にも届いてきた。
呼吸。
鼻に空気を通すように吸って、胸から押し出すように吐く。
いいぞ、そうだ、自分の身体の感覚というものは
こういう感じだった。
息をすることを思い出せてからは、水彩画のにじみ絵が出来上がっていくように、
じわりじわりと閉じ込められていた場所から抜け出て行った。
いくつかの夜を越えて、ついに『俺』は元の自分の身体に戻ることができた。
音が、声が、聞こえるようになって、立ち上がることは出来ないけれど
指先だけなら動かせるようになった。
「今日もいい天気よ、ケンスケ。鳥がいっぱい鳴いてるわ」
母さんが、いつものように声をかけながら、カーテンを開けた。
「さぁ、顔を拭こうね。喉は渇いてない?」
俺から返事が返ってこないと分かっていても、
母さんは毎日、いつでも、話しかけることを続けてくれていた。
「……か、さ」
驚くほど掠れた声が出た。
母さん、と言いたかったのに上手く声が出なかった。
喋ることは、こんなにも難しい動作だっただろうか。
ありがとう、と言おうと唇や筋肉を動かすことに手間取っている間に
母さんは俺の手を握ったまま、ワンワン泣き出してしまった。
母さんがこんなに声をあげて泣く姿は、初めて見た。
俺、一体どうしたんだろう。
さらに一週間ほどが経つと、自分の感覚をすっかり取り戻していたが、
どうにも違和感があった。
大学に入って、もう一年以上が経っているはずなのに
入学当初くらいからの記憶が曖昧だ。
俺に何があったのか。
ここは、どこなのか。
母さんも父さんも、言葉を濁すばかりで何も教えてくれない。
家に帰らないのは何故?
大学に行かなくていいのは、どうして?
記憶がないって言ってるのに、それを当然のように受け入れるのは何故?
スマホを取り上げて返してくれないのは、どうして?
一人で散歩することすら許してくれないのは、何故?
それから、一番嫌なのが謎の虚無感だった。
自分の内臓がひとつ無くなってしまっているような、不快な感覚。
だが、あまり両親を問い詰めるのも気が引けた。
教えてくれないのは、きっと俺を気遣ってのことだと分かっていたから。
何も分からないまま時間は過ぎていき、
夏の訪れを告げるように、外からは蝉の声が聞こえ始めた。
病院に連れていかれ、何か催眠術のような不思議な施術を受けて帰宅した。
どうやら、自分が精神疾患を患ったらしいことは理解出来たが、
いまだに何があったのかは分からないままだった。
体調も良いので、父さん母さんと三人で一緒に散歩へ出掛けることにした。
蝉が元気にあちこちで鳴いているが、街中で聞こえてくるそれとは大きく違い、
森が鳴き声を吸収しているかのように穏やかで、煩わしさがない。
風がひと吹きするたびに、木々や野鳥が内緒話をするような
細やかで快いざわめきが、こだまする。
少し湿った柔らかな大地を踏みしめて、
それを足の裏で感じ取る度に、不思議と歓びや尊さを感じた。
気持ちいいね、なんて話しながら少し歩いていくと、
小さな川が流れている場所に出た。
母さんが川の水でハンカチを濡らして、俺の汗を拭いてくれた。
夏の気候と、冷たい水に、鮮やかな草花。
遠くに響く蝉の声。
なんだか似たような場景に覚えがあるなと思ったところで、
電源が落ちたように意識が途切れた。
――――イタイとこないよ――――
泣きながらそう言ったあの子は、どこの誰だっただろう。
笑うと可愛い、天使のような子だ。
・
・
・
・
・
「ごめんなさい……」
家族から隠れて、泣いていた。
あれは、四歳の俺。
母さんが大切にしていたオルゴールを、誤って壊してしまった時の俺。
木製ケースに入ったそのオルゴールは、
蓋を開けると人形が踊るように動いて音が鳴る、本格的な仕組みのものだった。
子供心に物珍しくて、
時折、母さんに内緒でこっそりと開き遊んでいた。
その日もまた遊ぼうと、背の高い棚に仕舞われていたオルゴールを
椅子に乗って引きずり出そうとしたのだが、手を滑らせてしまった。
フローリングの床に叩きつけられたオルゴールは、
蓋が外れ、中の鏡面が割れ、
バレリーナの人形はポッキリと折れてしまったのだった。
いつもの美しい音色は失われ、濁った不協和音を悲鳴のように上げると、
オルゴールは、それきり沈黙してしまった。
大きな音を聞き、駆けつけた母さんが、
めちゃくちゃになったオルゴールを見て、悲しい顔をしたのが分かった。
でもすぐに、「ケンちゃん、怪我はない?」と聞いてくれたので
俺は、より自分が犯した罪の重さに苛まれて、家を飛び出した。
とは言え、そこまで遠くに行くことも出来ずに、
自宅の向かいにあった古いアパートの囲い塀の裏に隠れて、泣いていた。
「ケンちゃん、ケンちゃん」
母さんが俺を探して歩き回る声が聞こえたけれど、出ていくことは出来なかった。
母さんの声が遠くなって聞こえなくなり
しばらくすると、俺のすすり泣きを聞きつけたのか、小さな子が近寄ってきた。
「なんだよ、オマエ! どっかいけよ!」
泣いているところを見られて恥ずかしかったのもあって、
俺は自分より幼いその子を怒鳴りつけた。
その子は、ててて、と小走りにどこかへ行ったが、すぐ戻ってきた。
「あげゆ」
舌っ足らずにそう言うと、小さな手でキャンディを差し出してきた。
「……」
何も言わずにキャンディを受け取った。
「おいしーよ」
それだけ言って、その子は自分の分のキャンディをポンと口に含み、
何故か俺の隣に座り込んできた。
うっとうしいな、泣けないじゃないかと思いつつ
俺もキャンディを口に含んだ。
りんご味のキャンディだった。
美味しくて、少し気が紛れた。
「ケンちゃん、ケンちゃん、どこ?」
母さんの声が、再び近づいてきた。
心配そうに俺の名前を呼ぶ母さんの声を聞いて、
一度は引っ込んだ涙が、また溢れてきた。
すると、温かいものが頭に触れてきた。
キャンディをくれた子が、俺の頭を撫でていた。
不本意ではあったが、声を出して気づかれてはいけない。
しばらく撫でられたままでいた。
「クチッ」
頭を撫でてくれていた子がクシャミをしたので、
寒いのかなと思って、ぎゅうと抱き寄せた。
「いいこ、いいこ」
その子は抱き寄せられても、頭を撫でて慰め続けてくれた。
自分より小さなその子の胸で、俺は気が済むまで泣いた。
母さんに謝らないと、冷静になってそう思えた。
そのうちに、俺はとうとう母さんに見つかり、
小さな子はおばあさんが迎えに来た。
「ケンちゃん、バイバーイ」
いつの間にか俺の名前を覚えていたようで、大きな声で手を振ると
迎えにきたおばあさんと一緒に、俺ん家の隣の大きな家に入っていった。
「バイバイ……」
母さんに抱っこされながら、俺も手を振った。
「ケンちゃんゴメンね。オルゴール、
もっと取りやすいところに置いておけば良かったね」
母さんが言う。
「ううん、壊しちゃって、ごめんなさい……」
抱きつきながら、謝った。
「平気だよ。あれね、直せるから安心してね」
母さんの言葉にホッとした。
「ねぇお母さん、さっきのあの子、だあれ?」
「ああ、ケンちゃんはまだ知らなかったのね」
――――お隣の家の、ユキノリくんよ――――
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