第11話
翌々日、父親が家に帰ってきた。
母が連絡して取り急ぎ帰国してもらったらしい。
父は包帯と湿布だらけの僕を一瞥して、驚いたのか一瞬眉をひそめたが
すぐに疲れた顔になって「詳しく説明しなさい」と言い、
リビングのソファにどっかりと腰を下ろした。
母と一緒に僕も座ろうとしたら、
「ユキノリは自分の部屋にいなさい。まずは君から話を聞こう」と静かに言った。
君、とは母のことだ。
覚えている限り、父が母の名前を呼んだことも、
ましてや一般家庭のように『お母さん』などと呼んだこともない。
母は父を『あなた』と呼んでいるが、
そこに『主人』であったり『パートナー』といった親しみは込められておらず、
純然たる人称代名詞であると子供の頃から感じ取っていた。
母も苦手だが、正直父はもっと苦手だ。
正論と、それに基づき構築したらしい自己の正当性の主張ばかりで
会話相手にも感情論を一切排除した建設的で結論ありきの論述を要求してくる。
ふわふわとした感情を言語化する母とは対照的で、気が合わなくて当然だと思う。
性質の違いをお互いに受け容れることを知らないので、
二人の言い争いはいつも無法地帯と化したドッヂボール大会のようで決着がつかない。
それでも僕が本当に幼い頃には、優しく接してくれた父の記憶が残っている。
母との日々の争いによって、どんどんと意固地になっていったのか、
僕に対しても、いつしか感情を失くしたように接するようになっていった。
部屋に戻れと言われたことに納得いかなかったが、
早々に揉めるのも面倒だと思って大人しく部屋に行くことにした。
その後、父は僕から話を聞くことなく、ケンスケ宅との対話の日取りを決めてきた。
「私たちで話し合いをしてくるから、ユキノリは家で待っていなさい」
目も合わせずにそう伝えてきた。
「ま、待ってよ、僕は当事者だよ。
どう聞いてるか知らないけど、僕は加害者でもあるんだ。
僕から直接おじさんたちに話がしたいんだよ」
「……全く……。いいか、子供がでしゃばる話じゃない。
こういうのは大人に任せておくものだ」
呆れたような物言いだった。
「そんな……!」
反論を遮るように、そっと隣から母が僕の肩に手を置いてきた。
母は少し震えながら父の方に向き直り、言った。
「どうかお願いします。ユキノリも一緒に連れて行ってください」
「な、なんだ? なんで君が出てくるんだ……?」
僕も母が加勢してくるとは思っていなかった。
父も相当に驚いたようで、狼狽えているのが見て取れた。
「お願いします、この通りです」
母はなんと土下座し始めた。
「ちょ、ちょっと。母さん、やめなよ」
意外すぎる行動についママ呼びを忘れた。
父はさっぱり訳がわからないという様子だったが、息子の僕でさえ
この母が土下座なんて地球滅亡を思わせるほどの事態だという認識でいるので、
父もすっかり動揺してしまい、釈然としない表情を浮かべていたものの、
「分かった、分かったから立ちなさい」
焦ってそう言うとそれ以上は何も言わなくなった。
数日後、約束した日に三人でケンスケの家を訪ねたが、
ケンスケが姿を見せることはなかった。
僕の不安げな表情と両親が発する訝しげな雰囲気を察して、
おばさんとおじさんはしばらく逡巡してから、実は……と話し出した。
ケンスケはあの日からまるで人形のように動かず、話さず、
自分たちの声も聞こえていないような様子であると。
病院で診てもらってはいるが、まだ診断は出ない状態で、
外部との接触は避けるようにと医者から言われている、ということだった。
臨床心理学に興味があり、
少し知識があった僕はそういう状態に心当たりがあった。
「つらいようなら、まだ話さなくてもいいんだよ」と、
おじさんもおばさんも言ってくれた。
自分でも血の気が引いているのが分かるくらい、ショックを受けた。
だからこそ、すぐに洗いざらい話してしまいたいという気持ちになった。
教会に懺悔に行くような気持ちだったのだと思う。
あまりの罪の重さに、救いを求めてしまったのだ。
この人たちなら赦しを与えてくれるのではという打算をして。
自分の小賢しさと狭量さを恥じながら、僕は今まであったことを話した。
ケンスケから半ば無理やり身体を求められたが、
以前から恋心を抱いていたので抵抗せず受け容れたこと。
その後、謝罪に来たケンスケを脅迫して関係を強要したこと。
ケンスケの意思を無視して、レイプしたこと。
その後も嫌がるケンスケを脅して、行為を迫ったこと。
たまたま自分が後輩と一緒にいるところを見たケンスケが約束の反故に怒り、
暴行まがいの行為を行ってしまったこと。
ただ、ケンスケのこの行動は
僕からの執拗な精神的、肉体的な責苦が原因であること。
話し終えて、下を向いたまま顔を上げることができなかった。
全員が今どういう顔をして、
僕に対してどういう感情を抱いているのか知るのが怖かった。
ケンスケのおばさんと、母の啜り泣く声がつらい。
時間が止まったようにも、そのまま一日くらい経ったようにも思えたが、
実際は数分だったかもしれない。
全員が押し黙っていた中、おじさんがそれまで固く閉じていた口を開いて言った。
「……ユキノリくん、ありがとう、正直に話してくれて」
優しく声を掛けられて涙が零れそうになる。
どの面下げて泣くつもりだと、唇を噛み締めて堪えた。
「今……今、ユキノリくんから聞いた話だと……私たちが善悪を唱えて解決、
というのは違うんじゃないかと思いました。警察も……呼ぶ必要があるかどうか……。
みなさんは、どう思われますか……?」
迷いを含んだように言って、おじさんが全員を見渡した。
「いや……私は正直なところ……ちょっと、混乱していて
まだ何も判断できそうにありません……」
父は脂汗を滲ませ、頭を抱えたまま言う。
やはり、というべきか、母からかなり端折られた風に話されたか
僕に非がないように伝えられていたのだろう。
「あのぅ……」
母が、そんな父の様子を気にとめることもなく、おずおずと手を挙げた。
「私も……、フジタさんと似たような意見なんです。
まずはユキノリとケンスケくんで話し合うのがいいんじゃないかと思うんです……。
今は特に、……ユキノリからの話しか聞けない状況ですし、
私たちや、それこそ警察が介入しても解決にならないような気がして……」
「でも……」
おばさんが続いた。
「お互いに、間違いがあったのは確かなようですけど、
喧嘩両成敗で終わらせるには事が大きいと思うんです。
子供たちだけに任せて終わらせるのは……」
「待ってくださいよ! 警察なんて呼んだら、お互い身の破滅なんですよ?!」
話を遮って、父が立ち上がり声を荒らげて言った。
「もちろん……、もちろんそれは分かっています……。わ、私だって……、
ケンスケが警察に逮捕されたりなんてしてほしくないのが本音です」
おばさんが泣きだしてしまったので、父はバツが悪そうに着席した。
「……グスッ……、すみません……」
泣いてしまったことを謝り涙を拭うと、おばさんはまだ震える声で続けた。
「う、上手く言葉にできないんですけど、ケジメというか、
そういうのが必要だと思うんです。
時間が経てば忘れるとか、このままお互い謝罪して終わりとか
そういうのにしちゃいけない。それで無かったことにしてしまったら、
きっとケンスケとユキノリくん、二人ともの心にこれから一生
モヤモヤと何かが残り続けてしまう気がするんです」
「……警察を呼んでケジメになりますかね……?
つまりは心の問題ということなんでしょう……?」
父がイライラを抑えたような声色で言う。
「ごめんなさい……。正直なところ、分かりません……。
でも、ケンスケとユキノリくんで解決してね、も違うと思いませんか?
私たちに出来ることも含めて、たくさん考えた方がいいと思うんです」
「いやいやいや……、なんなんですか、さっきから。
曖昧な言葉ばかり並べられましてもねぇ……。
じゃあお聞きしますがね、私たちに何が出来るって言うんです?
私たち四人を陪審員にでもして、私設裁判でも開きますか?」
「ちょっと!!」
母が、馬鹿にしたような言葉を吐いた父に対して怒りを露わにした。
「反論ばかりしないでちょっとは前向きな意見もだしたらどうなの?!
いつもそうよ! あなたは否定ばっかりで……!!」
「なんだと?! じゃあお前も何か言えばいいだろ?! 前向きな意見とやらを!!」
「やめてください!」
おじさんが大きな声で父と母を諌めると、一息ついてから続けた。
「……大きな声を出してすみません。
皆混乱していて、まだ結論を出すには早すぎるということなんだと思います。
今日は、これくらいにして解散しませんか?」
おじさんの言葉に全員同意して、僕たちは家に帰ることにした。
その日の夜、階下から久々に父と母の夫婦喧嘩が聞こえてきた。
「お前の教育が悪いから……――」
「散々放っておいて……――」
「そもそもお前という女は……――」
「人のことが言えますか……――」
久しぶりでも言ってる内容はあまり変化がない。
ケンスケに会いたい。
両親の争う声を聞いていたら、強くそう思ってしまっていた。
この期に及んでもケンスケに依存する情けない自分を口汚く罵って
幼い頃と同じように耳をぎゅっと塞ぎ、無理矢理眠りについた。
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