第3話

 夢を見た。


 これは夢の中だと、わかる夢だった。


 ユキと二人、俺の部屋でくつろいでいる日常的なシチュエーションだった。


 ふざけてじゃれてるうちに、ユキを押し倒して見つめ合う格好になった。


 コイツは本当に綺麗な顔してるなーとぼんやり見ていたら、

 吸い込まれるようにユキに口付けていた。


 自分で自分の行動に驚いて身体を離そうとしたが、

 ユキは嫌がる様子もなく頬を染め、潤んだ瞳で俺の首に両腕を回してきた。


 俺はそんなユキの反応にテンションを抑えられなくなって、

 そのまま深いキスをたくさんした。


 なんちゅー夢だと思ったが、湧き立つ欲望に抗えず

 ユキの身体をすみずみ撫でながら服を脱がしていく。


 ユキの肌は手に吸い付くように滑らかで気持ちが良かった。


 どんどん気分が高揚した。


 ユキもノリノリで俺を触ってきている。


 男とするのって色々準備がいるんじゃなかったっけ?と思いながらも、

 いよいよその時に差し掛かった。


 熱く蕩けそうなユキの中に入ろうとしていた時、



「いつまでも寝てないでさっさと起きなさい!!」



 母さんの、地の底から響く怒声で飛び起きた。


 文字通り、数十センチ浮いたに違いない。


 ドッドッドッと耳に響いてうるさいくらい心臓が激しく脈を打っていて、

 息も荒い。


 最悪の目覚めだった。


 日曜なんだから、ゆっくり寝かせてくれてもいいのに。


 いや、そんなことよりも……。


 俺は布団をめくると、溜息をついた。




 自分のパンツを洗面台で洗いながら、罪悪感で押しつぶされそうになった。


 ……欲求不満とは、これほどの恐ろしさを伴うものなのか。


 よりによってユキのあんな夢みるなんて……。


 ザァザァと、水が汚れを落として流れていく。


 あ


 ダメだ


 急激に意識が遠のき、フラッシュバックが始まる。


『ユキ』


『裸』


『ベタベタ』


『洗う』


 合わせてはいけないピースがカチカチとはまってゆき、

 俺は堪らずその場に這いつくばった。


 あの時の光景、感触、ユキの泣き声。


 時間とともに粗くなっていた記憶の解像度が、

 まるで昨日あったことのように鮮明になってゆく。




 ――肌を刺すような力強い日差し、全てを賭けたようにけたたましく蝉が鳴く、

 夏の盛りの時期。


 俺は六歳になったばかりで、九月生まれのユキはまだ三歳だった。


 既に一番の仲良しだった俺たちは、裏山に秘密基地を作る計画を立てていた。


 少し早い時間から集合して二人で基地の建築材料にするための枝や葉っぱ、

 石や岩なんかを集めていたが、夢中になるうちにとうとうはぐれてしまった。


 しばらく探して、近くの放棄された古寺の中にユキの姿を見つけることができた。


「ユキ、見つけた……!」

 声をかけてから、目の前に広がる異状に息をするのも忘れた。


 ユキはなぜか全裸で座り込んで、顔を手で覆い静かに泣いていた。


 知らない男の人がそんなユキの前に立ち尽くしていた。


 男の人はズボンを穿いておらず、下着も穿いていなかった。


 俺の声に気づいて、ゆっくりと頭だけを動かしこちらを向いてきて……、


 目が合った。


 怒っているのか、驚いているのか、感情が全く読み取れない大きく見開かれた目は

 獣のようにギラギラとして恐ろしかった。


 ――殺される。

 本能的に恐怖した。


 身体はとうに居竦んでいて声すら上げられずにいると、

 男が唸り声を上げながら襲いかかってきて無防備に殴り飛ばされた。


 パニック状態になっていたせいか痛みの認識もできなくなっていて、

 訳が分からないまま反射的に倒れた身体を起こす。


 何かが、ジワジワとこめかみのあたりを這う感じがして思わず手をやると、

 手が赤く染まりギョッとした。


 地面の石か何かで擦ったらしく、頭の皮膚が切れて血が出たのだ。


 俺が血を流しているのを見たユキが、忽ちつんざくような大声で泣き出し、

 男はそれに驚いて脱兎のごとく逃げていった。


 喚き叫ぶユキに、すぐ駆け寄って抱きしめた。


「ユキ、ユキ……! 大丈夫? ケガしてない?」


「うぅ……ヒック、グスン……へいき、ユキ、イタイとこないよ。

 ケンちゃんのがイタイイタイだよ」


 ユキが気遣ってくれてホッとした瞬間、

 殴られた顔や地面に打ち付けて擦傷だらけの身体の痛み、

 恐怖が一斉に押し寄せてきた。


 ガタガタと震えて動けなくなり、二人で抱き合ったままシクシクと泣いた。


 ユキの顔や身体にベタベタしたものがたくさん付いていて、

 すごく不快に感じたのを覚えている。


 どのくらいそのままでいたのか。


 朝の爽やかな空気は粘るような湿気を含んだ空気に変わり、

 灼熱がその強さに勢いを増し始めた。


 ようやく落ち着いたので、

 血とベタベタを近くを流れていた小川に洗いに行った。


 夏の日照りのせいか、傷が熱を持っていたせいか、

 水の冷たさがとても気持ち良かった。


 川辺りでユキに服を着せ、慰めようと怖かったねと言って抱擁をした後、

 まだ震える手をつないで家に帰った。


 親には、その日あったことをなぜだか言えなかった。


 ユキも多分そうだった。


 俺の頭の傷や擦り傷なんかの怪我は走り回るうちに

 派手に転んでしまったということにして、俺たちはあの出来事を封印した。


 ユキが、なにか悪いことをされたという直感はあったけれど、

 それを大人に知らせてしまったら

 更に怖くて嫌な思いをする気がして言えなかった。


 月日が経ち、あれが一体どういうことだったのかが分かってしまった時には

 しこたま吐いて、熱に浮かされ数日寝込んだ。


 ユキも、俺から遅れること数年してから同じように倒れた時があったので、

 きっと知ってしまったのだと思った。


 今まで一度も、ユキとあの時の話をしたことはない。


 一生、話すことはない。


 あんな忌まわしい出来事は、ユキにとって害悪でしかない。


 しかしあの出来事以降も、ユキが嫌な目に遭わされることは少なくなかった。


 電車に乗れば、盗撮、痴漢。


 外を歩けば、露出狂もろもろ変態趣味の大人から声をかけられて

 路地裏やホテルに連れ込まれそうになる。


 学校では何かしら恋愛がらみのイザコザに巻き込まれて、

 友達も出来にくいらしい。


 流石に学校にまで乗り込むことは叶わなかったが、

 ユキを警護するのが俺の使命になっていったのは自然な流れだった。


 可哀想な可愛いユキ。


 人よりキレイに産まれたせいで、ユキはずっと誰かの自分勝手な感情によって、

 理不尽に傷つけられ続けている。


 俺がいる限り、二度とユキにあの日みたいな怖い思いはさせない。


 そう思っていた。


 俺だけが知っているはずなのに。


 俺だけは分かっていたはずなのに。


 俺だけはユキにとっての安全な場所でいようと思っていたのに。


 夢の中とはいえ、夢の中だからこそなのか、ユキに顔向けできない気持ちでいた。


 ユキに対して俺が、無意識にでも汚らしい肉欲を抱いていたとでも言うのか。


 お前も所詮あの『知らない男』と同じくせに、

 と世界中から嘲笑われているような気がした。


 その日一日、夢の中のユキが不意に頭に過っては股間が疼き、

 己の穢らわしさ、低俗さに苦しむ羽目になった。


 こんなこと、ユキに知られでもしたら……。


 いくらユキでも俺から離れていってしまうんじゃないか。


 ユキから些事で電話があって話をしたけれど、いつも通りには対応できなかった。


 例の夢を早く頭の中から消さねばと焦れば焦るほど、

 色情と懺悔の坩堝にはまっていった。


 ユキを不自然に避け続けて、何日かが経った。


 ユキは優しいやつだから、

 きっと俺がこういう態度でいると腹を立てたりするより先に、

 自分が何か悪いことをしてしまったのかと考えて落ち込んでいることだろう。


 それを分かっているのに、今まで通りにユキに対して振る舞える自信もなく、

 上手くフォローする術も分からず、悶々とし続けていた。


 そのまま休日を迎え、この間声をかけた二人組の女の子のひとりから連絡がきた。


 今度は二人だけで遊ぼう、という誘いだった。


 これは色んな意味でチャンスではないかと思って、会う約束をした。


 欲求を解消することで、前に進めるような気がしたのだ。


 その子に本気になれれば万々歳。


 またいつものようにユキと一緒に過ごす時間が持てる。




 デート当日は、適当に買い物して食事をして誘われるままホテルに入った。


 女の子の、整えられ綺麗にネイルの施された爪、ふわりとフローラルが香る髪、

 媚びるような甘い声、入念にケアされているだろう肌。


 以前なら可愛いと思えていたそれら全てが不快に感じて、散々だった。


 ユキの髪はもっとツルツルして綺麗だし、こんなにキツく香らない。


 ユキの手はもっとすらっとしていて、ひんやりしてる。


 ユキはもっと落ち着く、聞き取りやすい声をしている。


 ユキは。ユキの。ユキなら。


 行為中はずっとユキを思い浮かべ、ユキを抱いているつもりで達した。


 何故こんなことをしてしまうのか、自分でも分からずツラくて泣きそうになった。


 結局、好きになれそうもない子を自分の良く分からない都合で抱いてしまい、

 自己嫌悪を加速させただけだった。


 次の約束はしないまま、女の子とはその場で別れてフラフラと家に帰り

 満たされない渇きから必死で目を背け、とにかく眠った。

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