第3話 悪人


 北海道帯広市西一条南九丁目から十丁目にかけて分布された数多の飲食店は、ごくありふれた多くの例に漏れない繁華街の構成要素の一つだった。繁華街とは言うが、どれだけ居酒屋や遊び場があったとしてもそのエリアを繁華街たらしめるのは建物の多さではなく人の出入りの数である。幸いにも、帯広市西一条南の繁華街はまだ辛うじて一定の人口を維持し、体裁を保っていた。

 繁華街とは警察の巡回が他所よりも多く立ち寄る場所でもある。では悪事を働くのに不向きであるかというと、実はそんなこともない。風俗店は当然のように法律に違反していたし、ワゴン車を駆るならず者どもは攫い易い獲物を常に探しているし、薬物の売買も毎日のように行われている。

 一般人向けの薬物取引で最もベターな手法は、売人と客が待ち合わせ場所で声も視線も交わすことなく、商品と代金を交換するやり方だった。傍目にはただすれ違ったようにしか見えないが、確実に尚且つ互いに少ないリスクで取引を済ますことができる。

 今夜も、帯広繁華街の一端では、そういった違法薬物の取引が行われていた。

 新形にいがた陽介ようすけは薬の売人を始めてもうすぐ一年になる。もとはホストだったが、勤めていたホストクラブが廃業になり、次の仕事に困っていた彼に売人を勧めたのが、顔見知りの暴力団組員だった。

 新形はこちらの世界に足を踏み入れることに、さほどの躊躇いを持たなかった。もともと居たホストクラブは暴力団が運営していた店だったし、彼自身も法に触れた行いを学生時代から何度も繰り返していた。知人のオレオレ詐欺を手伝ったり、空き巣をしたりなどという小遣い稼ぎは、新形にとってはちょっとしたバイト感覚だった。

 今やっている薬の売人は、その延長だった。ただ暴力団の後ろ盾があり、比較的高収入だという点は、末端の使い走りにしては上々な立場だった。

 昼頃に、顧客のチンピラから薬を買いたいと連絡があった。つい先週買ったばかりなのに随分早いなと尋ねると、友達が欲しがっているから代わりに買いたいのだという。確かに友達の多そうな、いかにもパリピといった若者だ。欧米人のようにドラッグパーティーでも開くつもりなのかもしれない。精々脳を溶かして、顧客を増やしてくれるならばありがたい。売れる薬が増えれば、それだけ新形の収入が増えるし、ヤクザからの評価も上がる。もっとも、新形は薬など使ったことは一度も無かった。会うたびに廃人になっていく客を何人も知っていたからだ。

 新形は繁華街の比較的目立たない路地で待っていた。道路が狭いので、パトカーはここまで入ってこない。いざとなればすぐ背後の路地裏へ逃げ込める。新形はパーカーのフードを被り、マスクをして顔を隠していた。誰の印象にも残らない服装だ。パーカーの袖には、今夜の商品が忍ばせてある。海外製の覚醒剤だ。

「ん?」

 新形と同じようにフードを被った男が、こちらへまっすぐ歩いてくる。客かと思ったが、違う。確か客はドレッドヘアーだったはずだ。髪型を変えたのか? 目を凝らした。フードの中は坊主頭だった。

 顔を背けるふりをして、新形は横目にちらりとその男を覗いた。男は歩みを緩めず、どんどん近づいていた。男が顔を上げ、目が合った。

 中国人だった。客じゃない、と確信を得た。男が目の前で立ち止まった。

「売人だな?」

 イントネーションの下手な日本語でそう言うと、男は新形の喉仏を指で掴んだ。呼吸と声が、一瞬にして奪われた。

 新形が後ずさると、二人はそのまま路地裏へ消えた。二人の姿に気づく者は誰も居なかった。

 男は指で喉仏を軽く捻っただけで、新形を意のままに操った。男が手を離すと、新形は足を止めた。

「おえっ」激しくむせ、涎を垂らしながら息を吸う。

 屈んだ新形の腹に、男は膝蹴りを食らわせた。膝を落としそうになった新形の顎を掴んで起き上がらせると、壁に頭を押さえつけた。新形は爪先立ちになって、身動きを封じられた。後頭部がざらざらした壁に押し付けられて痛んだ。

「喋ったら、顎、外すぞ」

 男はフードを外した。縫合痕に沿って髪が禿げた坊主頭は、『朱龍チューロン医院』の泰然タイランのものだった。

 泰然は空いている方の手で新形の体をまさぐり、ポケットと袖の中に怪しい包みを見つけた。包みを一つだけ開けて中身を調べると、白い粉だった。

宾果当たりだ

 手を離し、両足がついて新形は解放された。かと思うと、泰然が背後からチョークをかけて新形を絞め落とした。間もなく、先ほどまで新形が居た路地に一台のワゴンが停まった。

 後部ドアが開く。秀英シュインヤンが待つ車内に、泰然は新形を運んだ。全員が乗り込んでドアを閉めると、運転手の燗流カンルーが車を出した。

 床に寝かせた新形の顔からマスクを剥ぎ取り、秀英が鋭い声音で泰然に訊いた。

「売人で間違いないな?」

「ああ、ほら」泰然は新形が持っていた覚醒剤を、シートの上に投げた。

「よし、九丁目の方へ回れ。鼬瓏ユーロンさんを拾う」

 ハンドルを切りながら燗流が言った。

「なんで泰然に任せたんだ? 俺なら気絶させずに拉致れるぜ?」

「泰然なら何が起きても、素手で大抵のことは対処できる。日本語もわかるしな」秀英は愚かしい者でも見るような視線を、眼鏡のフレーム越しに燗流に投げる。「万が一お前が警察に出くわしたら、銃刀法で豚箱行きだぞ、燗流」

「そのサツも始末すりゃいいだろう?」

「はぁ。だからお前には任せなかったんだ。血の気が多い」

 洋は黙々と新形を紐で縛り上げた。泰然は秀英に訊いた。

鼬瓏ユーロンさんはどうした? さっきまで車に居ただろ」

「あの人はいつもの癖だ」

 眉根を上げた後、泰然は納得したように「ああ」と言った。

「あの人は定期的に人を殺さないといけないからな」

「ハハッ」燗流が笑い声を溢す。「鼬瓏のアニキの方がよっぽど血の気が多いぜ」

「鼬瓏さんは血の気が多いのとは違う。あの人は殺人中毒だが、殺人鬼ではない。お前と違ってちゃんと『殺してもいい人間』を選ぶんだよ、燗流」

 対向車線にパトカーが居た。パトカーは燗流が運転するワゴンの不審さに気づくことなく、ただすれ違っていった。もし車を停められたら秀英がネイティブな日本語で応対するつもりだったが、想定外のことが起きたら燗流の言う通り始末する必要がある。だからパトカーに乗っていた警察官の無能さは、彼らにとっても幸運だった。

 秀英は言った。

「だから俺たちは俺たちのためにも、あの人に『殺してもいい人間』を与え続けないとならない」

 泰然が首を傾げた。「どういうことだ?」

「俺たちが悪人だからだよ」眼鏡のブリッジを押し上げ、秀英は冷徹に言い放った。「殺す相手が居なくなった時、あの人が真っ先に殺すのは俺たちだ」



 数分前。その先で燗流のワゴンとすれ違うパトカーは、やはりこの道路でも無能だった。とある焼き肉店の裏手にある駐車場の隅で、女子大生が男五人に囲まれてレイプに遭っていたが、巡回にマンネリした警察官がそれを見咎めることはしなかった。

 男たちは車を前後に並べて停め、その陰に巧妙に隠れて強姦に及んでいた。わざわざ駐車場の奥側に車を停める者も少なかったし、外灯の明かりも及びづらかったので、利用客も彼らの悪行には気づいていなかった。気づいたとしても、見て見ぬふりをする者ばかりだった。

 一人目の男が一通りの行為を終え、二人目と交代するところだった。女子大生が嘔吐し、男の一人が車からコンビニのレジ袋を持って来るよう要求した。順番待ちの男がぶつくさ文句を言いながら、車に向かった。

「あ?」

 車の向こう側に、男が一人立っていた。逆光で顔はよく見えない。まずいと思い近づいてみると、くたびれた服装の中年だった。なんだ、見物しに来ただけの変態か。

「見てんじゃねぇよ。どっか行けおっさん」

 肩を掴んで強く押した。中年の男がじろっと、こっちを見た。顔の左半分に火傷の痕があった。「おい」ともう一度歩み寄ったその時、中年の男が二本指を突き出した。

 眼球を抉られ、視界がブラックアウトした。悲鳴を上げてもがくその首に激しい鈍痛がすると、意識は徐々に消えていった。

「なんだ?」

 女を囲んでいた男たちが、こちらを振り向く。

 鼬瓏ユーロンは常に殺す相手を探していた。だからといって道行く人々を殺して歩くような真似はしなかった。そうでなければ彼が『朱龍医院』に身を置く必要も、殺しのスキルを磨く必要も無かった。

 彼が殺す対象に選ぶのは悪人だった。さらに、自分に対して敵意を抱く者を好んだ。とりわけ、凶器を持ち出して抵抗してくる相手は大好きだった。

「何してんだてめぇ!」

 男たちが各々凶器を取り出し、警戒態勢に入った。鼬瓏は車のボンネットに置いてあった飲みかけのペットボトルに目をやった。

「殺すぞ、おっさん」

 獲物を持っていない男が鼬瓏に近づき、殴りかかった。鼬瓏はペットボトルを手に取り、パンチを躱して男の眼球に飲み口を突き刺した。怯んだ男のピアスを握って耳をちぎり、股間を蹴り上げた。

「ああああ!」

 股間を押さえて男が倒れ込む。ペットボトルにちぎったピアスを入れて、鼬瓏は鼻歌を歌いながら残りの男たちの方へ歩いた。

「死ね!」

 髭面の男がナイフを振るう。ペットボトルで受けると、真っ二つに裂けて中が飛び散った。濡れたピアスが宙を舞う。こぼれたジュースが男の目に入った。思わず目を瞑るその髭面に、鼬瓏は掌底をぶち込んだ。

 髭面の中に鼻骨が深く沈みこんだ。男の顔のパーツが中心に集中し、凄まじい痛みが脳に痺れを生んだ。鼬瓏は男の手からナイフをあっさり奪った。

 男の一人が車のトランクから金属バットを持ち出していた。怒声を上げて振り下ろされたバットを、鼬瓏はハイキックで打ち返した。蹴飛ばされたバットが車の窓を割った。

 バットを握る手を押さえ、鼬瓏はナイフで男の脇を切り裂いた。腋窩動脈から血が噴き出し、男の顔が悲劇的に青ざめた。鼬瓏は車のドアを開き、そこに男の頭を突っ込ませた。どうやら失血死が怖いみたいだったので、別の方法で殺すことにした。

「よいしょ」

 鼬瓏はドアを思い切り閉め、男の頭を挟んだ。様子を窺うと、男の眼底は砕けていた。

「はいよ」

 もう一度ドアを閉める。左右の眼底があとちょっとで繋がりそうだ。

「はい、よいしょ、ほいせ、どっこいしょ」

 繰り返しドアを叩きつけると、男はびくともしなくなった。最後に全力でドアを閉じると、飛び出した眼球がペダルの上にぽとっと着地した。

「ちょっと疑問なんだけどさ」

 日本語で言いながら、鼬瓏は振り返りざまにナイフを一閃した。

 鼬瓏の背後に切りかかろうとしていた最後の男の手首が、持っていたバタフライナイフごと落ちた。情けない悲鳴を上げて膝を折る男は、ズボンのベルトが開いたままだった。

「俺さ、ガキの頃に切られちゃったから、ソレがどんくらい気持ち良いのかわかんないんだよね」

 男の前にしゃがみ、下腹部にナイフをぶすりと刺した。それからゆっくり、下に向かって刃を食い込ませていく。

「教えてくれないかい。ソレって、人を殺すよりも気分の良いもんなのかい。なあ、僕ちゃんたちもあれだろ? セックス依存症? 違うの? それとも俺と同じ、暴力を振るうのが好きなだけのクズかな?」

 こぼれた小腸に紛れた陰茎を正確に探り出して丁寧にナイフで切断し、男の目の前に掲げて見せた。男の顔は涙と涎でべちゃべちゃだった。

「コレも僕ちゃんにとってはナイフと変わらない凶器ってわけだ。じゃあ、没収されても仕方ないね」

 自分の小腸を抱えて痙攣する男は、まだ少しの間息が続きそうだった。が、鼬瓏はトドメを刺さずに彼の前を立ち去った。代わりにまだ息のある男を全員、バットで殴り殺して満足した。

 駐車場の外から、ライトがチカチカと点滅した。見ると、燗流が運転するワゴンが待っていた。

「お、迎えが来た」

 レイプされていた女には目もくれず、鼬瓏はその場を後にした。



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