第14話 天秤

 マーガレットは引くつもりのない引き金に指をかけたまま、イリスをじっと見つめて雲田に語りかけた。

「特にあの子……イリスという獣人は、必ず排除しなくてはならないわ。そこまであの子に固執しているなら、あなたも知っているでしょう。あの子は兵器利用のために生み出された獣人ではない」

 雲田の指がぴくっと震え、危うく引き金を引きそうになる。逡巡してから、雲田は口を開いた。雨が唇から口内に入り込んだ。

「……そのために生まれたわけじゃない。たまたま、それに見合っていたというだけだ」

「ええ、その通り。日本軍にとってはラッキーなイレギュラーだった」

『獣兵解放軍』と協力していたグリーンベレーなら、イリスの特性をシンシア・コヴァルチックから聞いていてもおかしくない。リリアを囮におびき寄せたイリスを確認してすぐ、グリーンベレーが動き出したのも納得がいく。

「フクロウ型獣人、通称イリスには戦闘能力は全く無い。代わりに、あの子は優秀な母体になり得ると判断されたために、より安全により健康体に育てられた」

 やはり、マーガレットは全て知っていた。

「産まれる子供に母親の幸福度が深く関わっていることは、科学的にも証明されているわ。だからシンシア・コヴァルチックはイリスを人間のように育てた。愛情をもって、それこそ母親のように。心身ともに健やかであることが、あの子が優れた獣人を産む母体に育つために最も適当だった……そのせいで情が移ったのは、なんとも皮肉な話だけど」

 イリスは獣人の完成体のなかで唯一、戦闘訓練を全く受けておらず、後天的な改造手術も受けていない。目を塞がれたリリアのように、イリス以外の獣人は皆、肉体を強化するために何かしらの実験台となっていた。人間として扱われていたのは、イリスだけだった。

 イリスは特別だった。多くの獣人が生殖機能を損なうなか、イリスはベースとなった獣の遺伝子を子に受け継ぐのに、充分秀でた体質を備えていた。

「あの子は新たな獣人を産む能力がある。現状、実戦段階まで完成している獣人兵よりも遥かに大きな脅威よ。あの子だけは絶対に見逃してはならないの」

 マーガレットが口にしたことは全て事実だった。智東中佐がイリスの奪還に熱を入れている理由もここにあった。日本軍にとってイリスの価値は、獣人一体分ではない。いわば、彼らにとってイリスとは獣人を製造するための重要な装置だった。

 兵器にしようが、母体にしようが、どちらにしろ——日本軍がイリスに人としての人生を与えるつもりはない。家畜が人に似ているので適した環境と餌を与える、その程度の感覚だ。イリスたち獣人を人として見ていたのは、シンシアだけだったのだ。

「そんなこと、わかってるさ」雲田の声は雨音に掻き消された。「だから、刀子は私に託したんだ」

 カルロスが車のドアを叩いていた。まずい、時間が無い。部下の到着までは……まだかかる。マーガレットは心中で唇を噛んだ。どちらが先だ。隙を突いて退けることができるほど、雲田は易い相手ではない。

 降参して少しでも時間を稼ぐか? いや、イリスの安全を確保でき次第雲田は躊躇いなく引き金を引くだろう。部下が到着する前に、カルロスともども姿を消すかもしれない。何としてでもこの場に引き留めなければ。刺し違えるか……果たして上手くいくだろうか。

 マーガレットは自分の命を載せた天秤の皿が、例え高い方へ傾こうとも迷いが無かった。何よりも任務が最優先だった。

 雲田もまた、天秤の前に立っていた。雲田は順番を決めていた。何の順番か? 取捨選択を迫られた時に、何を選ぶかをだ。

(ごめん、イリス……)

 雲田は必ず、何よりも——イリスの身の安全を選ぶ。

(私は……刀子に、約束したから)

 捨てるものを、間違えない。

「マーガレット。君の言っていることは、きっと正しいんだろう。だとしたら、君たちが始末しないといけないのは獣人だけじゃない」

「?」

 イリスが聞いているはずもなかったが、間違っても聞かれたくなくて、雲田は声を小さくした。雨音のノイズに混じった雲田の声は、マーガレットの耳にだけ聞こえた。

「獣人の母親となり得るイリスを、まず初めに造り出した人間がいる……他の獣人も全員、彼らの造り方を知り尽くし、環境さえ整えば再び何度でも獣人を造ることができる人間が……まだ、残っている」

「……!」マーガレットは眉根を上げた。

 札幌獣兵研究所襲撃の際に、獣人開発に関する研究資料とそれに携わった研究者は、ほぼ全て処分されていた。『獣兵解放軍』による襲撃の裏で、マーガレットらグリーンベレーと日本軍内の協力者が、秘密裏に暗殺を遂行していたことは想像に難くない。資料は全て破棄することに成功したが、その資料の内容を全て知っている者が、あと二人だけ、生きていた。

 その二人は、まだ日本軍の手中にある。

「札幌獣兵研究所所長、相木辰生。そしてシンシア・コヴァルチック。この二人の抹殺が、君たちの最終任務のはずだ」

 そのうちの一人は『獣兵解放軍』に協力した仲間であり、そして——

「イリスとリリアを見逃せ。代わりに、相木とシンシアを始末するのに、協力してやる。『信ずる者を救う会』も一緒にだ、私が説得してやる。『獣兵解放軍』が衰退した今、君らにとって有用な戦力となる」

 そして、イリスの育ての親と呼ぶに相応しい者だった。

「必ずこの二人を殺してみせる。そうすれば、二度とこの世に獣人が生まれることはない。もしイリスが子供を望まずに生きるなら、それで文句は無いだろう。これでもまだ、あの子を殺す理由があるか、マーガレット」

 何を、優先するか。

 何を、選ぶか。

「選べ、アメリカ兵。私はとっくに選んでるんだよ。君と同じだよ。……私も、譲れないんだよ」

 私はもう、刀子と約束したから。



 声が聞こえる。

 マーガレットの呼ぶ声。無事だったのか、マーガレット。任務は……? 私たちは勝ったのか?

 意識が遠のく。ああ、獣兵薬の反動だ。視野がぼやける。目が、見えない。音が不明瞭だ。片耳聞こえないし……マーガレット、手を握ってくれ。自分がどこにいるのかわからない。上か下かもわからない……誰か……怖い、暗闇に落ちるみたいだ……怖い。

 誰かが手を握った。暗闇に沈む刹那、フランシスの視界が開けた。

 目の前に居たのは、盲目の獣人だった。

 リリアはフランシスの手を握り、視力の無い目でこちらを覗き込むように屈んでいた。

 彼女は言った。

「泣いているの?」

 瞼が落ちる。フランシスには握り返す力も残っていなかった。

「……なんで、お前なんだよ……」

 意識を失おうとしたその時、フランシスの頭には遥か昔の記憶が蘇っていた。それは彼女が必ず眠る前に思い出す光景で、目を覚ますと必ず忘れているものだった。

 十六年前、家族を奪ったシンフォニーホールの毒ガステロが起こった日。

 救急隊が息のある観客を担架で次々と運んでいた。ナタリアの居る客席は出入口から遠くて、救急隊がなかなか来ない。ナタリアはアヴィーを抱えて客席を跨ぎ、ホールから出た。救急隊で渋滞するエントランスを抜けて、何台もの救急車両が停まる外へ。

 一人の救急隊員がナタリアとアヴィーに気がついて、駆けつけてくれた。ホールの遠くに事件の臭いを嗅ぎつけた人だかりが出来ていた。アヴィーの容態を確かめる救急隊員の肩越しに、ソレはナタリアの目を惹きつけた。

 ホールの様子を窺う野次馬の中に、真っ黒な髪の背の高い女が居た。日本人だった。烏合の衆のなかでどうして彼女を見つけることができたのか、きっと偶然だ。

 彼女は虚無だった。亡霊のように存在感が無い。だからこそ異質だった。暗闇を覗き込む時のような、寒気のする恐怖をナタリアは感じた。

 笑っていた。

 ただ一人、その女は笑っていたのだ。

 キツネのように細い目を緩めて、愉快なものでも眺めるかのように、不気味で、凶暴な、獣のような微笑みを浮かべていたのだ。



      ♢



 北見市北六条の小公園は規制線に囲まれ、等間隔に警察官が配置されていた。公園の中心にある噴水の所に乗用車が二台あり、うち一台は逆さになっていた。どちらも窓ガラスが割れあちこちが凹み、ボロボロだった。

 通報を受けた警察と軍が到着した時、既に両車はもぬけの殻だったという。

 昨夜の雨はすっかり晴れ、空には雲一つ無かった。歩道の水溜まりに青々とした空が映っている。

 そこから少し歩くと、こちらもまた規制線が張られた北見リアソンホテルがある。白いカバーに覆われた足場を鑑識官が出入りしていた。雨後の湿っぽさの他に、仄かな鉄の臭いがする。規制線に塞がれたホテル前の道路にあるワゴン、あれから漂っている。一本向こうの道を迂回して規制線の反対側に行くと、大穴の空いたフロントガラスを拝むことができた。穴はシートを貫通している。シートには赤い染みがあった。

 ふむ。大口径か。

 北見リアソンホテルでは明らかな銃撃戦の痕跡と目撃証言があったが、死体は一つも発見されていなかった。いったい誰と誰が衝突したのか、これから警察と軍は躍起になって捜査しなくてはならない。何せ、ここで戦闘を行った者たちはアサルトライフルやサブマシンガン、果ては対物狙撃銃まで装備していたのだから、尋常でないことは明らかだ。

 ワゴンの対面側を振り向き、相応しい建物を探した。一棟だけ背の高いアパートがある。あそこから狙ったに違いない。目を凝らすと、既に屋上を警察が右往左往していた。

 ここで起こっていた嵐は既に過ぎ去った後だった。彼らは忽然と消えて、どこへ行ったのか誰にもわからない。警察は決して姿を掴むことのできない亡霊を追いかけることになるだろう。ここに居たのは、そういう者たちだ。気配を一切残さないことが、何よりもその者たちの強烈な存在感を物語っている。

「出遅れちゃったか」

 鼬瓏ユーロンは踵を返し、北見リアソンホテルの前から立ち去った。彼がこの場に居たこともまた、誰一人として気づくことがなかった。




CHAPTER.3 鋼鉄の緑帽兵……終

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