第13話 正義

 カルロスに照準を合わせたままマーガレットは言った。

「横転した時に窓から脱出したのね。気がつかなかったわ」流暢な日本語だった。

「フランシスと運転手に注意を引かれていたからだろ。フランシスごと撃てば運転手とカルロスを殺せたが、君はそうしなかったな。それで撃つと、流石にあいつも死ぬんだろうな。部下を思いやる辺りは、日本兵よりまだマシらしい」

 車から少し離れた所に、フランシスが倒れている。起き上がろうとしていたが、上手くいかないらしい。上体を起こしては、倒れてを繰り返している。薬の効果が切れたようだ。度重なるダメージに、車から振り落とされたことがトドメとなったようだ。

「やっとグロッキーか、あいつも」雲田は銃口でマーガレットの頭を小突いた。「銃を下ろせ」

 雲田が持っていたのは、カルロスのブローニングハイパワーだった。幸運にも同型の拳銃をカルロスが使っていたおかげで、雲田が身につけていたマガジンを装填できた。

 マーガレットをいつでも殺せるように、雲田は引き金の遊びを絞っていた。マーガレットも、MP5A5の引き金から指を離さなかった。

「あなたは一体何?」

 マーガレットは落ち着いた口調で尋ねた。平静を装っているのではなく、彼女は本気で死を恐れていなかった。雲田が今まさに引き金を引こうとも、彼女が悔いるのは死ぬことではなく任務を達成できないことだった。

「フランシスがタイマンで負けるなんて想像もしなかったわ。あなたも『獣』の一種なのかしら?」

「私もあんなに頑丈な奴は初めてだよ。あいつが注射していた妙な薬……だいたい想像がつくな。獣兵薬を使うとはアメリカらしくもない」

「彼女にとっては特効薬よ。薬を打ってパワーアップするなんて、スーパーヒーローみたいでしょう? それよりあなたも背後に気をつけた方がいいわ、スナイパーが狙ってる」

「!」

 雲田の注意が一瞬逸れた隙に、マーガレットは照準を後部座席へ移した。

 部下もマーガレットたちを追って来ていたが、こんな短時間で狙撃手を再配置できるほど手際良くはない。嘘だと気づき、雲田は舌打ちした。マーガレットのMP5A5は、銃口をイリスに向けていた。

「拉致が目的じゃないのか? あいつは連れ去ろうとしたが。この場で殺す気か?」

「本来ならばそうね。あの子たちが本当に獣人かどうかを確認してから排除するつもりよ。でもこうなった以上、あなたに一番効くのはこうすることじゃなくて?」

「こっちもいつでも撃てることを忘れるな」

「構わないけれど、私は例え撃ち殺されたとしても息絶える前に一発は必ず撃つわよ。そうしたらこの弾はどこに当たるかしら? あなたこそよく考えることね。獣人を守ることが目的なら」

 マーガレットの言い分は、強がりではない。死体が動く現象は戦場などで稀に記録される。雲田が頭を撃てば、その瞬間にマーガレットが死ぬわけではない。脳が破壊され、心拍と血流が止まり生命活動の継続が不可能になって初めて、人体は死ぬ。断頭されても数秒は意識が保つし、心臓が破壊されても数十秒は活動できる。マーガレットほど意志の強い兵士ならば、例え頭を撃ち抜かれたとしても、身体が生前の目的を果たすだろう。

「『獣兵解放軍』とあなたたちの思惑は、理解できなくもないわ。でもね、よく見なさい。あれはこの世に存在してはいけないものよ」

「ああ、アメリカは獣人の存在なんて許さないだろうな。別に君らが獣人研究を邪魔しようが、テロリストを煽って襲撃を起こさせようが、どうでもいいよ。でもな、彼女たちは既に存在してしまっている。わかるだろ。彼女たちは生きている」

「それが問題なのよ。私たちの落ち度は、あれが誕生するのを阻止できなかったことよ」

「彼女たちを殺すのか」

「過ちは正さなくてはならない」

「彼女たちに罪は無い」

「存在自体が罪よ」

「違う。過ちを犯したのは彼女たちを造った人間たちだ。彼女たちはただ生まれ、ただ生きているだけだ」

「情に訴えるつもり? この世には生きているというだけで淘汰される生き物なんて、いくらでもいるわ」

 雨の音がノイズとなって二人の声に重なる。マーガレットは車内に居るイリスの顔にぴったりと照準を合わせていた。指先をちょっと動かすだけで、殺すことができる。撃った瞬間に雲田も撃つだろう。だが、少なくとも一体は獣人をこの世から抹消できる。

「違うぞ、マーガレット。彼女たちは他の生き物とは違う。人間が意図して造ったんだ。好奇心とエゴで、彼女たちは意思に関係なく生み出されたんだ」

「だから無かったことにするのよ。私たちには……アメリカには世界を正しく導く義務がある。世界で最も武力を持つ国としてね。第二次大戦でこの国が獣兵を使い始めてから、それが我が軍の全てだった。生命への冒涜だけではない。新たな種の創造……この国は一体どれだけ神に背けば気が済むの?」

 マーガレットの口調は機械的だった。すらすらと出てくるその言葉が、果たして彼女の本音なのかアメリカの意志を代弁しているのか、雲田は判別できなかった。

「おかしな国よね」マーガレットは言った。「まるで神に戦いを挑んでいるかのよう」

 雲田は車内に居るイリスとリリアを一瞥した。マーガレットたちの神は、彼女たちの存在を許さないのだろうか。愛すべき隣人に、彼女たちは含まれていないというのか。

「あまりに身勝手じゃないか」

「?」

 かつて友人が観ていたビデオに映る、赤子のイリスが雲田の脳裏を過ぎる。

「彼女たち獣人は……人間が勝手に造った。本人たちの意思に関係なく、獣人として生み落とされた。そのうえ人間の都合で今度は殺すなんて、あまりに身勝手だと思わないか?」

 釧路のあの森でイリスと初めて会った時、その体温を感じて思った。彼女は生きているのだと。

「私たちとは違うんだよ、マーガレット。私たちはとっくに後戻りのできない獣だ。でも、あの子たちは、ただ生まれてきただけだ……!」

 人間は特別優れた知性を持っただけの獣だ。たまたま食物連鎖の頂点に立っているに過ぎない。だとしたら、日本軍が唱える野望も、他国の打算も、アメリカの正義も——全て、人間のエゴじゃないか。

「勝手に造られて、この世に生まれてしまったんだ。それならせめて、自由に生きる権利くらいあるはずだ」

 マーガレットはまばたきして、まつ毛の水滴を落とした。

「『獣兵解放軍』の理念……だったかしら」

 似たことをあの男も言っていた。デイビッド。『獣兵解放軍』実動隊のリーダー。死ぬ直前まで、あの男の芯はぶれなかった。

「『自由に生きて、自由に死なせてやりたい。ただそれだけ』……ね」

 雲田は怪我のせいで血の足りない頭をフルに回転させなければならなかった。ある意味では、マーガレットはフランシスより遥かに手強かった。現状を打開しなければイリスを救えない。しかしこの場を切り抜けたところで、アメリカの追跡が終わることもないのだ。

 どうしたら、あの子を救えるだろう。

 どうしたら、あの子がただ生きることが、赦されるだろう。

 拳銃に落ちた雨が銃身を流れて、銃口に溜まりぽたりと滴る。マーガレットの緻密な頭脳もまた、如何にして極限の状況を抜け出すか思慮していた。時間を稼げば部下が追いつくが、その前にカルロスたちに出て来られたら負けだ。フランシスの助けは期待できない。

 マーガレットは自分が圧倒的に不利なことを悟られてはならなかった。絶対に、マーガレットがイリスを殺す気が無いことをバレてはいけない。

 マーガレットはその残酷な正義を貫くために、決してその残酷さを間違えてはならなかった。イリスが獣人だという証拠を見つけたなら、迷い無くこの世から排除する。が、その排除には銃を使わない。

 雲田の言い分は、正しい。アメリカは、限りなく近い決定を下している。

 イリスたち獣人には、アメリカの管理の下、世界とは隔絶された場所で誰にも存在を知られることなく生涯を送ってもらう。

 世界から、獣人という存在を消す。生かしたまま。

 それがアメリカの決定であり、獣人開発を防ぐことができなかったことへのせめてもの償いだった。

 そのためにマーガレットたちは、獣人の行方を知る者を一人残らず始末しなくてはならなかった。

 デイビッドも、カルロスも、雲田も。

 そして——部下も。そうならないために、マーガレットは部下に確保した獣人は抹殺すると嘘を告げていた。犠牲となるアメリカ兵は、たった一人……マーガレットだけでいい。

「本当に、残酷よね。『獣兵解放軍』も『信ずる者を救う会』も、きっとあなたも私も、同じジレンマに悩まされている」

 正義を貫くために支払わなければならない犠牲は、あまりに大きい。天秤は決して吊り合わない。不条理なほどの代償を強いなければ望む正義は手に出来ず、それ故に有史以来、人間の作る世界は狂ったまま進歩するしかなかった。

 人間の本性が獣であり、破壊と暴虐によって得るものが真理だということをただひたすら否定するためだけに、人間は正義を謳ってきた。

 とっくに気づいているのだ。異端なのは正しく在ろうとすることの方だ。正しくあろうとすることは間違っている。

「でも、私たちはそれを辞めた瞬間に本当の獣になってしまう。だから私も、あなたも、決して譲ることはできないのよ」

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