第10話 君の絶望を
西暦二〇〇〇年
大日本帝国
北海道 北見市
北見リアソンホテル
頚椎目掛け、雲田が足を振り下ろしたその瞬間、フランシスはまだ生きている左目をカッと見開いた。足場を叩いて転がり、紙一重で雲田の踏みつけを躱した。
「!」
足場をごろごろと転がって雲田から離れ即座に立ち上がると、フランシスはまず左手を貫通する筋交いを引き抜いた。フランシスは既に、全身の痛覚を完全に遮断していた。
(まだ動けるのか!)
フランシスの呆れた耐久力に、雲田はもううんざりだった。普通の人間なら既に五回は殺している。獣であること以前に、フランシスの頑丈さは異常だった。
フランシスがジャケットから注射器を取り出し、頸静脈に獣兵薬を注入した。一度目よりも濃度が薄い、追加投与用の獣兵薬だ。フランシスの体に許された獣の機能を、さらに底上げする。
雲田はフランシスが捨てた空の注射器にちらっと目を落とした。
(ドーピング!?)
スーツの下から筋肉が隆起し、フランシスの全身に血管がビキビキと浮き上がった。雲田の想定よりも遥かに速く、パワフルなタックルが襲いかかった。
「……ッ!」
雲田の胴にしがみつき、フランシスは自分ごと正面の504号室の窓に突っ込んだ。ガラスが飛び散り、二人は室内に転がった。雲田はコートを脱いで、組み付くフランシスから逃れた。
室内には血と硝煙の臭いが充満していた。見ると、部屋の中と外の廊下に死体が転がっている。ドアの前に倒れている黒ずくめの装備の死体は、グリーンベレーの隊員と思われた。他は雲田と顔見知りの『信ずる者を救う会』の戦士たちだ。
雲田は室内に倒れている血まみれの死体のホルスターにある拳銃を認めた。雲田が拳銃を見つけたことに、フランシスも気づいた。
「!」
「!」
雲田が拳銃に走ると、フランシスはそれを追いかけた。掴みかかったフランシスの手を避け、雲田は脇腹に蹴りを入れた。鉄のように硬い。雲田はフランシスの顎にアッパーし、股下に滑り込んで拳銃に辿り着いた。
血まみれのホルスターからベレッタM9を抜き、素早くスライドを引いてフランシスを銃撃した。頭を狙ったことを見透かしたフランシスは、両腕で顔をガードしていた。鎧のような前腕筋が、血肉を飛び散らせながらも弾を通さなかった。
「チッ」
銃撃の合間を突き、フランシスが傍らのベッドを蹴り上げた。縦に直立したベッドが、雲田の方へドミノのように倒れかかった。雲田がベッドを逃れて駆けたその先へ、フランシスは狙い澄ましたようにタックルした。
フランシスが雲田の胸ぐらを掴んだ。雲田の両足が浮き、フランシスはそのまま壁に向かって走った。雲田はベレッタM9の銃口をフランシスの口に突っ込み、引き金を引いた。
フランシスは首を傾けて弾道を逸らした。口内で発射された弾は、奥歯と左頬を破って外へ出た。フランシスは止まらなかった。
雲田を壁に叩きつけ、フランシスはそのまま壁を突き破った。大量の破片を撒き散らしながら廊下に飛び出し、雲田を放り投げた。雲田は廊下の対面の壁に激突し、崩れ落ちた。
ドアの前に倒れている人物が仲間のサニーであることに、フランシスは気づいた。室内に居た死体と相打ちになったのだとしたら、手元にあるMP5A5の残弾には期待できない。
信じ難いことに、雲田は荒々しい息を吐きつつも立ち上がった。大人しく寝ていてくれ、というのがフランシスの本音だった。フランシスも息を上げていた。体の限界が近かった。
フランシスは獣兵薬の投与一度につき十分間、『獣』となれる。十分を過ぎると、インターバルに十二時間を要した。効果が切れる前に追加投与するのは稀で、『獣』のセンスを増強する代わりに効果時間は絞られる。
既に酷使した肉体にさらなる負担。フランシスの心臓はいつ破裂してもおかしくなかった。より早く獣兵薬を全身に行き渡らせるために、心拍数は桁違いに上がっていたのだ。
「……お前は何だ」
体じゅうからぼたぼたと血を流しながら立ち上がった雲田に、フランシスは訊いた。心底からの問いだった。左の奥歯と頬を弾丸に貫かれたフランシスの言葉は著しく滑舌を欠いていたが、辛うじて聞き取れる範疇だった。
「どれだけ調べてもお前の情報だけは何一つ出てこなかった。『獣兵解放軍』でも、『信ずる者を救う会』でもない。お前は何者だ」
二人は互いに、前へ、一歩踏み出した。ともに血まみれの拳を握り固める。
「何のために、獣人を庇う。あれは存在しちゃいけない代物だ」
フランシスの顔に憤怒が滲んだ。血に染まった歯を剥き出し、フランシスは黒々とした殺意と憎悪を吐き出した。
「あんなもののために……あんなものを生み出すために、私の家族は——アヴィーは死んだんだッ!」
雲田の視界は、ピントが合ってはブレてを繰り返していた。血を流し過ぎた。先ほどタックルで壁を突き破られた際の脳震盪も、まだ回復していなかった。途切れそうな意識を必死に繋ぎ止め、ふらつきながらまた一歩、フランシスへと近づく。
「何のため、ね……」雲田は自嘲気味に鼻を鳴らした。「君が家族のためなら……私は、友人のためだよ」
雲田の焦点が、フランシスの顔へ徐々に定まっていった。額から流れた血が鼻翼を伝って顎先まで滴り落ちた。
——獣の眼を持つ雲田には、狩人として唯一致命的な欠陥があった。
君が、そのアヴィーという名を口にした時、私は不覚にもトドメを刺すことを躊躇った。フランシス……君の拳がどうして重いのか、わかってしまったから。
——それは……。
「おおおお!」フランシスが雄叫びを上げる。雲田とフランシスは拳を振りかぶった。
君の、怒りが。
君の、絶望が。
その拳から痛みとなって流れ込んでくる。
言葉に出来ないほどの慟哭が。
耐え難い憎しみが。
私の殺意を鈍らせる。
わかっているんだよ、フランシス。
きっと……。
「悪いね」
きっと、正しいのは、君たちの方だ。
「大義でも、何でもない……私があの子を守るのは、ただのエゴだよ」
フランシスの脳裏には、微笑む両親と無邪気な幼いアヴィーの姿が。
雲田の脳裏には、赤子のビデオを愛しそうに眺める友の姿が——
一発、銃声が鳴った。
「!?」
拳を振り上げたフランシスの右肩から、血が弾け飛んだ。突如力を失ったフランシスの拳は、空を切った。
驚愕に目を剥き、フランシスは銃声のした方を見た。504号室のドアから、銃をこちらに向けて立つリリアの姿があった。リリアが構えたMP5A5の銃口から、硝煙が立ち昇っている。
意識が覚めたのだ。そしてサニーのMP5A5には、弾が一発だけ残っていた。
「獣人め……!」フランシスの血走った眼が、リリアを睨んだ。
雲田のストレートパンチがフランシスの顔面を打ち抜いた。一本拳の先端が人中を直撃し、鋭い衝撃がフランシスの顔から脳を貫いた。痛覚を遮断していなければ、激痛に悶絶していただろう。ただし、痛みは感じなくとも、急所への一撃は着実なダメージとなった。
またしてもフランシスの視界がぐらりと歪んだ。視界が歪むということは、脳が揺れているか或いは体自体が揺れている。今回は両方を併発していた。先ほど受けた三半規管へのダメージもまた確実だった。
膝を落とすフランシスの髪を掴み、続けざまに、雲田は顔に膝蹴りを叩き込んだ。ぐしゃっと、何かが砕ける音がフランシスの顔から鳴る。足腰から力が抜けたフランシスの額を掴むと、雲田は全体重をかけ、壁に後頭部を激突させた。ごちん、と大きな音が鳴り、フランシスの頭は壁に沈んだ。
雲田は激しくむせ、ふらつきながらリリアのもとへ歩いた。フランシスは足を投げ出して座ったまま、すぐに起き上がる気配が無い。彼女を素手で仕留めることを、雲田は諦めつつあった。
「リリア、助かった」礼を言うと、雲田はリリアの足下に寝ているグリーンベレーの死体から、傍にある別の死体に目を移した。
雲田は『信ずる者を救う会』の戦士の死体から、M4カービンを拾った。銃身の重さからして、弾はほぼ残っている。槓桿を引き、フランシスの頭に照準を合わせた。
リリアが廊下の先の、暗闇に顔を向けた。雲田は引き金に指をかけた。
「頭を撃てば、死ぬか?」
リリアが雲田に突進した。「危ない!」
二つの銃声が、同時に鳴った。雲田の撃った弾がフランシスの頭を掠り、壁に当たった。そして闇から飛び込んで来た銃弾が、雲田を突き飛ばしたリリアの左腕に当たった。
「!」雲田は廊下の奥の暗闇を見た。
マズルフラッシュと、銃声。一瞬だけ、ボディアーマーを重ね着した白いスーツが見えた。
(マーガレットか!?)
六階、非常階段の手前に陣取り銃撃戦を続けていたカルロスは、ふとある違和感を覚えた。
「おかしい」
銃声に掻き消されないように、ジゼフが大声で聞き返した。
「なんだって!?」
「弾幕が薄くなったと思わんか?」
カルロスは壁から片目を出し、暗闇に瞬くマズルフラッシュを観察した。これまでの弾幕に比べ、射撃精度が悪い。顔を出そうものなら即射殺するぞと言わんばかりのプレッシャーが感じられない。
(マーガレットが居なくなったか……?)
銃声の数そのものは変わらない。合流したグリーンベレーの隊員と交代したか。ならばマーガレットはどこへ行った?
非常階段の踊り場から、仲間の戦士が叫んだ。
「一人倒したぞ!」
カルロスのFNP90の弾薬が底を尽きた。カルロスは銃を捨て、腰の鞘からククリナイフを抜いた。
「よし」ジゼフと無線を聞いている仲間に、カルロスは言った。「階段を突破するぞ」
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