第9話 フランシス


 西暦一九九五年

 アメリカ合衆国

 ノースカロライナ州 フォートブラッグ


 フランシスの人生最悪の報せが届いたのは、フォートブラッグ基地に長い訓練から帰還したまさにその日だった。久々の休暇に浮かれる同僚らを掻き分け、フランシスは呼び出しのあった電話コーナーまで駆け足した。

 ホプキンス少将だった。たびたびホプキンスから直通電話を受ける彼女を、基地の事務員などは特別な寵愛を受けた愛人か何かだと疑惑をかけたが、或いはそれは的外れではなかったかもしれない。愛人ではないが、ホプキンスはアメリカ軍で唯一獣兵薬に適応したフランシスという兵士を露骨に贔屓していた。危険な実験に身を捧げ、見事成功を修めた神がかり的肉体を持つフランシスが軍から特別扱いを受けるのは、当然と言えば当然のことだった。彼女はその夏、グリーンベレーへの入隊試験を受ける予定だった。

「もしもし、フランシス上等兵であります。ホプキンス少将殿」

 受話器から聞こえたホプキンスの声は重苦しかった。

「フランシス、残念な報せだ」

 ひゅっと、内臓が縮み上がる感触が走った。ホプキンスの言おうとしていることを予測し、フランシスは聞きたくない、と叫びそうになった。

「アヴィーが死んだ」

 長らく昏睡状態だったアヴィーの容態が突然急変し、国内トップクラスの医師たちの努力も虚しく、つい昨夜息を引き取った。医師たちは最善を尽くした——という旨をホプキンスは手短に話したが、そのほとんどはフランシスの耳に届いていなかった。

 フランシスは受話器を落とした。様子に気づいた事務員が近づき何度か話しかけた後、致し方なしと頬を平手打ちするまで、フランシスは放心したままだった。

 アヴィーは二十一歳だった。シンフォニーホールのテロから十一年。妹は生涯の半分を寝て過ごし、時間は止まったまま、そして二度と目を覚ますことはなかった。



 ノースカロライナ州 オークウッド墓地


 フランシスは墓地にあるベンチに座っていた。アヴィーの埋葬を終え一晩が経っていた。葬儀を終えた時間から、フランシスは喪服のまま置物のようにその場に座り続けていたのである。

 食事を摂らず風に晒され続け、死人のように過ごしても彼女は本当に死ぬことはできなかった。アヴィーのように永遠の眠りに落ちて、アヴィーのように棺を土に埋めてくれたなら、どんなに楽だろう。フランシスはそんなことばかりを考え、いつしか丸一日が過ぎて夕日が沈み始めていた。

 足音が近づいてくる。墓参りに来た人かと思ったが、フランシスの視界の端で黒いパンツを穿いた足が立ち止まった。女の声が、話しかけた。

「こんにちは、ナタリア・スミス。今はフランシスね」

 フランシスは地面に目を落としたまま、一日ぶりに口を開いた。

「……誰だ」

 女はきびきびとした口調で話した。いかにも軍人らしい話し方だった。

「私はマーガレット。陸軍特殊部隊スペシャルフォースの隊員よ」

 フランシスはぴくりと反応したが、顔を上げはしなかった。

「グリーンベレー? ……どうしてそんな人がここに? 誰かの墓参りでも?」

「そうね。アヴィー・スミスのお墓に祈りに来たのだけれど。案内してくれる?」

「……私に何の用ですか。一度も会ったことのない特殊部隊の兵士が、私の妹の墓参りに来るわけがないでしょう。ホプキンス少将のお遣いか何かですか?」

 マーガレットと名乗った女は、フランシスの隣に腰を下ろした。横目にちらっと見ると、さらさらした長い金髪の、美しい女だった。正直言って軍人には見えない。

「軍隊を辞めるんですってね?」

「少将から聞いたんですか?」

「ええ。あなたは意気消沈して、もう働く気は無くなってしまったと。ホプキンス少将は仕方ないと割り切っていたけどね。なんだかんだ優しい人だから。みんな年を取ると丸くなってしまうのかしらね」

「……全部聞いているんじゃないですか。今更何を言いに来たんですか? 私はもう一般人ですよ」

「獣兵薬に適応した人間を一般人と呼べるかどうかはさておき、あなたは一応まだ軍に在籍しているのだから、私の話に耳を傾ける義務があるわ」

「どうだっていい」

 フランシスは吐き捨てるように言った。

「軍なんかどうでもいいです。アヴィーが死んだ。私が軍に体を売ったのも、兵士として従軍したのも全てアヴィーのためです。あの子が居ないなら私が軍に居る意味は無い」

「それで、この後あなたはどうするの?」

「……あの日からずっとアヴィーのために生きて来た。アヴィーが目を覚ますならどんなことでもすると。でもあの子は居なくなった。私が生きる意味も、一緒に死んだんです」

「自殺サークルの募集にでも応募するつもり?」

 「放っておいてください」フランシスは語気に苛立ちを混ぜた。「あなたには関係ない」

 マーガレットは低い声で、嗜めるように言った。強い、芯の通った声音だった。

「いいえ、フランシス。ナタリア・スミス。あなたはまだ死ぬには早い。あなたには兵士として戦う理由があるわ」

「戦う?」フランシスは鼻で笑った。「何と?」

「あなたの家族を、殺した者たちと」

 フランシスは目を見張り、顔を上げた。マーガレットの水晶のように透明な青い瞳が、まっすぐこちらを見つめていた。

「……は?」

「あなたはまだ、十一年前の同時多発毒ガステロの犯人を知らないでしょう?」

「どういうことです? 犯人は今も捜査中のはずだ。犯人を突き止めたなら、世間に発表するはずでしょう?」

「物的証拠が無いから発表は控えているの。他にも色々と都合があるしね。波風は立てないで置いた方が得策なの」

「……じゃあ、国はもうあのテロの首謀者を知っているんですか?」

「ええ。無論、政治家は何も知らないけどね。把握しているのは我々執行機関のみよ」

 地平線に沈みゆく夕日が、フランシスの驚愕に満ちた顔を朱く照らしていた。フランシスの耳が真実を受け取る準備が出来るまで待ってから、マーガレットは告げた。

「あのテロを起こしたのは、大日本帝国よ」

 全身に鳥肌が立ち、フランシスは渇いた唇でぽつりと言った。

「……日本……あれは噂じゃなかったんですか……?」

「意外と的を得た都市伝説だったのよ。実行したのは当時日本軍に存在した、『義獣隊』と呼ばれる機密部隊よ」

「なんで日本が……何のために?」

 マーガレットは淡々とした口調で話した。フランシスに聞かせるために、台本を用意してきたかのようだった。

「あの日、あなたが居たシンフォニーホールには、国連に獣兵の兵器利用を禁止する法案の提出を目指していた上院議員が居たの。ターゲットとなった政府関係者は他にも居たわ。無差別テロに見せかけて、各地に居た日本軍の阻害となる者を一斉に排除したの。それが、あの同時多発毒ガステロの真実よ」

「……」

 フランシスはまばたきを忘れてしまったかのように目を剥いたまま、徐々に目線を落とした。呆然とするフランシスの手は、爪が食い込むほど膝を握りしめていた。

「これはごく一部の人間しか知らない話だけれど、大日本帝国軍が人と獣のハイブリッド……獣人と呼ばれる生物を造り出そうとしていると、全世界に公表する計画があったの。それも、あのテロが要因となって白紙になってしまったわ。どちらかといえば、『義獣隊』の目的はそちらの方に重きを置いていたのかもしれない」

「獣人?」眉間に深いしわを刻み、フランシスはマーガレットを睨んだ。「なんであなたはそんなことまで知っているんですか?」

「私はちょっと経歴が特殊なの。一時期CIAに在籍してたことがあってね。物的証拠は残っていないけれど、状況証拠から見て『義獣隊』の仕業であることは間違いないわ」

「……どうして、そんな重要な秘密を私に話すんです。逃げられないようにするためですか?」

「別にそんなつもりは無いわ。ただ、あなたにはこのことを知る権利がある」

「何故?」

 マーガレットは、迷い無く言った。

「あなたは被害者の遺族だから」

 フランシスはきょとんとした。再び目を上げると、マーガレットの表情は真剣だった。フランシスは目を小刻みに泳がせ、時間をかけてやっと「え?」と訊いた。

 マーガレットは続ける。「もちろん、全ての遺族に真実を告げることはできないけれど。あなたは軍人だし、あなた自身も機密の塊みたいなものだしね。でもこうしてあなたに真実を話したのは、他にもう一つ理由があるわ」

 マーガレットがベンチから立った。夕日を遮る彼女のシルエットは薄暗かった。その金髪はきらきらと輝き、青色の瞳は相変わらず透き通った明るい眼差しを、フランシスに向けていた。

「あなた、アメリカ軍人として、日本軍に報いを与えたいとは思わない?」

 フランシスの脳裏を、何年も昔の記憶がフラッシュバックした。獣兵薬投与実験を受けた三年前と、同じ感覚だった。アヴィーと、両親との思い出が、フランシスの頭の中を駆け巡る。その時、彼女は三年ぶりにナタリア・スミスへと戻っていた。

「ナタリア……いえ、フランシス。あなたには戦う理由がある。唯一の家族を喪った今、あなたに出来ることは何? 守るものを失ったらあなたの人生は終わり? もちろん、戦うことは義務ではないわ。でもあなたには、兵士としてのスキルと、あなたにしかない特別な力がある。他の誰にも無い能力と、戦う動機をあなたは持っている」

 ああ、そうだ。

 全て、鮮明に覚えている。風に煽がれるマーガレットの髪の一本まで、空に流れていた雲の形まで。あの時、最後に触れた墓石の感触まで。

 この日、私はアヴィーの墓の前でナタリア・スミスと決別したのだ。

「もし、あなたが家族の仇をとりたいと言うのなら」

 マーガレットは手を差し伸べた。その手は決して、歓迎しようとはしていない。これはきっと悪魔の契約だった。二度目の悪魔の契約。一度目は肉体を売り、そして今魂を売ろうとしている。

 お父さん。

 お母さん。

 アヴィー。

「私に付いて来なさい。あなたが倒すべき敵を、教えて上げる」

 そして、ナタリア。

 あなたたちの魂と、安らかな眠りに賭けて。

 私は、誓うよ。

 マーガレットが伸ばしたその手を、私は握った。

 ああ、そうだ。

 今でも覚えている。

 この日、私はナタリアと決別した。

 ナタリア・スミスに別れを告げ、私の血肉と魂、誓いの全てが——


 緑帽兵フランシスとなったのだ。


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